「あ、あの…」
私は鞄の持ち手を握りしめながら、彼に尋ねた。
心臓が、ヤバイ。
喉から飛び出すのではないかと思うほどに、ドキドキしている。
掌に汗が滲んできて、私はどこに視線を向けたらよいのかパニックになり始めていた。
「んー?」
対照的に、彼は涼しげな顔でスマホを触りながら私の髪を左手ですいていた。
「か、髪…どうして…」
震える声でうつ向き気味に言うと、彼は顔を上げて私の顔をまじまじと見た。
「え、気持ちいいから。あんたの髪、指からサラサラ~って流れてさ、この感触は癖になるわ」
ニヤリと笑う顔に、特大の拍動が私を襲った。
「あ」
彼はふと何か思い至ったようで、左手の動きを止めた。
「もしかして嫌だった?」
神妙な顔でまた覗き込んでくる。
もうこれ以上私の心臓を苛めないでっ
私はぎこちなく首を振って、言った。
「い、嫌とか、じゃ、なくて、、あの」
そこで、彼のきれいな顔に見入ってしまう。
それはわずか3秒くらいだったと思うけれど、彼はますます神妙な顔つきになってしまった。
「もしかして…」
も、もしかして?
私の気持ちがダダ洩れに―
「俺、あんたのこと困らせてる?」
「え、あっ、ちが...」
「正直に言ってよ」
もう、心臓よ、平常運転で頼む
「ち、違いますよ」
平常心平常心
「ただ…この髪をきれいって言われたり、さ、触られたりしたことって、なくって、」
ほぉら、だんだん落ち着いて…
「んじゃあ、俺が初めてなわけね!燈ちゃんの美髪、こうやって可愛がってんの」
ん?え?可愛い?
誰が?何が?
私はいろいろ限界過ぎて、ちょうど停車した駅で電車を駆け降りた。
目の前で浜里燈が駆け降りて行ってしまう姿を呆気にとられて見ていた武聡一郎は、所在無さげな左手を見て、赤くなっていた。
「…んだよ…」
無防備に触らせてくれるからてっきり…
「男慣れしてないのな…」
そこがまたいいんだけど
「たーけちゃんっ」
聡一郎は後ろを振り返ると、苦虫を噛み潰したような顔をした。
「丸星…お前、…いってぇっ!」
体格のいい川嶌丸星のデコピンをまともに額で受け止めた聡一郎は、思わず悲鳴をあげてしゃがみこんだ。
「たけちゃん、誰が巷で下の名前で呼んでいいって言った?」
丸星は自分の名前が嫌いなのだ。
小学生の頃は『丸干し』と言われて、同級生数人に全裸にさせられそうになったこともあった。
聡一郎はたまたまそんな場面に出くわし、たまたま素行不良だと教務主任にしぼられに担任と職員室へ向かうところだったので、当時たまたま華奢だった半べその丸星の腕を掴むと、
「先生っ、アイツら頼むわっ」
と言い残し、一目散に廊下を逆方向へ駆けていったのだった。
その日から今日まで…
「何すんだよ、悪友」
聡一郎は額を掌で覆いながら、丸星を睨み返した。
「親友の間違いだろ?」
努めて柔和な笑顔で返した後、丸星はニヤリと不敵な笑みを浮かべた。
「あの子、たけちゃんの彼女?」
「え、何?お前ずっと見てたの?」
聡一郎が顔をしかめる
丸星は信じられないと首を振り、
「親友を覗き魔みたいに」
「いや、どちらかというとストーカーじゃね?」
丸星は軽く咳払いをすると、聡一郎の耳元へ口を寄せた
「あんな純な子、今時珍しいよ~」
「うるせーよ」
「ただね」
「何だよ」
「溺愛モードはちょっと早すぎると思う」
「ばっ…」
聡一郎は顔を真っ赤にすると、勢いよく立ち上がった
「ま、俺みたいに裏返しでからかうタイプよりはマシだろうけどね」
丸星がケタケタと笑うと、聡一郎は憮然とした顔で悪友を見てため息をついた。
#裏返し
怖い夢を見た
前に勤めていた会社で
上司や先輩からこっぴどく叱責される夢
カーテンの隙間から洩れる光は薄暗く
私はノロノロと布団を出ると
普段の自分ではあり得ないほどのスピードで
トイレに向かった
退職して半年以上が経った
時間が癒してくれるだろうと思った傷は
相変わらず血が滲んでは、スルスルと流れ落ちていたのだった
あんなにウキウキと
壁アートを施したトイレの壁も
廊下の壁も
その鮮やかなはずの色彩が
くすんでグレーがかって見える
何も
痛み以外、感じない
パートナーは「トラウマになってるんじゃないか?」と言った
そう、なんだろう
他人事のように独りごちると
私はため息と共に便座から立ち上がった
パートナーは既に起きて、出勤準備を整えていた
私の様子に気づいたのだろう
「どうしたの?怖い夢を見た?」
彼の顔に『心配』という2文字が浮かんだ
怖い夢
そう
私の無防備な精神をバットで袋叩きにされたような
痛くて
苦しくて
辛くて
やるせなくなって
泪が流れる夢
「うん…」
私は彼の背中にしがみついた
アイロンをかけてぱりっと仕上がったシャツにシワがクシャリと描かれた
几帳面な彼は気にせず、「そうかぁ…」と間延びした声音でそのままでいてくれた
「俺はね」
「うん」
「君からだんだん笑顔が無くなっていくのが心配だった」
「…」
「だんだん痩せて、小さくなって…。治療が始まって、君にとっては不本意な終わり方だったかもしれないけれど、あの職場を離れて、よかったと思ってるんだ」
「…でも」
私は息を吸った
「でも、私は、何も出来なくなっちゃった。役にた、たなく…なって…」
喉がつかえて、泪が溢れた
私は、何の役にも立っていない
彼が私の両手を優しく包む
「違うよ」
「生きていてくれるだけで、いいんだ」
私は、あの職場にいた自分を救えずにいる。
夢の中でも。
でも、苦しみが、泪が、報われるように、進むのだ。
あの人達とは訣別したのだ。
さよならなんて、きれいな言葉は投げてあげない。
忘れてしまうくらい、幸せに、楽しく生きてやるんだ。
#さよならを言う前に
学生の頃
アシストがなくて
ペダルを踏んだら
軋んだ金属音に不快感を覚えるような
古びた自転車を先輩から譲り受けた
車の免許を取ったけれど
ペーパードライバーだった私が
はじめて一人暮らしのアパートに招き入れた未来の愛車だった
大学に通う道すがら、舗装されてから年数が経っているであろう道を小さくダイブしながらペダルを踏む
ほとんど車道しかない蝉時雨の田舎道を
頼りない錆び付いた車輪で走り抜けた
学生の間で
滑走路と言われている拓けた一本道がある
大学とは真逆の方向だが
入道雲が日本アルプスの連なりを背景に立ち上ぼり
まるで異世界へ導く光の道のような風体で眼前に伸びてあった
絵画にでも出来そうな景色に一瞬目が眩みそうになる
この空を
道を
風を
臭いを
先輩は知っていたのだろうか
私のように果敢に挑んだのだろうか
この自転車で
私は水筒から冷えた麦茶を口に含み
ふと、大学校舎を振り返った
#自転車に乗って
死んでしまいたくなる夜
みんなはどうしてるんだろう?
リスカ
OD
名前も知らない誰かになぐさめてもらう
動画
ひたすら現実逃避を試みるけど
影よりもぴったり身体に貼りついて
ソレは離れない
希死念慮ってやつね
アルコールで喉は焼けるように熱いのに
頭の中は、素面で、冷静で、
見たくないものを見て
考えたくないことを考えてしまう
最後の最後
君の声に縋るの
そうしたら
嗚呼、生きてるな
生きたいな、わたし
と泪が流れて
あの影はひっそりと隠れてくれるの
#君の奏でる音楽
この時期、ベランダで夜風にあたると脳裏に浮かぶ。
泣きながら『兄』に電話をした、あの日を。
私は、卒論に行き詰まり、研究室の人間関係に行き詰まり、教授から干されて行き詰まり、たぶん、人生最大の挫折の渦中にいた。
休学して自宅に引きこもり、昼夜逆転。
クスリにこそ手を出さなかったが、自暴自棄になっていた。
そんな時、『兄』のように慕う人と出逢った。
彼は寡黙だったけど、ここぞというときの一言がとにかく重く響く人だった。
普段はサングラスをかけている奥の瞳はつぶらで優しくて、外した時の人の良さそうな顔は、彼の内面を見事に現していた。
私は、マンションから飛び降り自殺をしようと考えた。
自分に生きる価値なんて皆無だと思った。
包丁を持ち出して自分を傷つけようとしたけど、苦しむ時間が怖くて、実行しなかった。
ベランダの鳥避け用のネットを外し、人が通れそうな隙間を作った。
夜が深まった時、高所恐怖症の私は手摺に身体を預け、階下の駐車場をチラリと一瞥した。
この高さなら、いける。
深呼吸をしてから、震える手で手摺を握った。
私は怖かった。
死ぬのも
生きるのも
一線を越えるのが怖かった。
私はベランダにうずくまり、泣きながら『兄』に連絡した。
彼は、電話口の私の様子に、感じ取ったのだと思う。
嗚咽混じりで支離滅裂な私の言葉を、唯々「うん」「うん」と相づちを打って聴いてくれた。
涙とともに零れ落ちる、悲しみや絶望や苛立ちや情けなさや‥…そんな諸々を熊のような大きくふっくらした手で受け止めてくれていたのだと思う。
あの夜から、十数年。
『兄』はこの世界のどこか、あの夜の私のような限界を突破しちゃった人たちに会いに行っているのだと、人づてに聞いた。
『兄』は私だけのヒーローじゃなく、世界を股にかけるヒーローになるんだね。
#遠い日の記憶