この時期、ベランダで夜風にあたると脳裏に浮かぶ。
泣きながら『兄』に電話をした、あの日を。
私は、卒論に行き詰まり、研究室の人間関係に行き詰まり、教授から干されて行き詰まり、たぶん、人生最大の挫折の渦中にいた。
休学して自宅に引きこもり、昼夜逆転。
クスリにこそ手を出さなかったが、自暴自棄になっていた。
そんな時、『兄』のように慕う人と出逢った。
彼は寡黙だったけど、ここぞというときの一言がとにかく重く響く人だった。
普段はサングラスをかけている奥の瞳はつぶらで優しくて、外した時の人の良さそうな顔は、彼の内面を見事に現していた。
私は、マンションから飛び降り自殺をしようと考えた。
自分に生きる価値なんて皆無だと思った。
包丁を持ち出して自分を傷つけようとしたけど、苦しむ時間が怖くて、実行しなかった。
ベランダの鳥避け用のネットを外し、人が通れそうな隙間を作った。
夜が深まった時、高所恐怖症の私は手摺に身体を預け、階下の駐車場をチラリと一瞥した。
この高さなら、いける。
深呼吸をしてから、震える手で手摺を握った。
私は怖かった。
死ぬのも
生きるのも
一線を越えるのが怖かった。
私はベランダにうずくまり、泣きながら『兄』に連絡した。
彼は、電話口の私の様子に、感じ取ったのだと思う。
嗚咽混じりで支離滅裂な私の言葉を、唯々「うん」「うん」と相づちを打って聴いてくれた。
涙とともに零れ落ちる、悲しみや絶望や苛立ちや情けなさや‥…そんな諸々を熊のような大きくふっくらした手で受け止めてくれていたのだと思う。
あの夜から、十数年。
『兄』はこの世界のどこか、あの夜の私のような限界を突破しちゃった人たちに会いに行っているのだと、人づてに聞いた。
『兄』は私だけのヒーローじゃなく、世界を股にかけるヒーローになるんだね。
#遠い日の記憶
7/18/2024, 10:05:56 AM