【遠くの空へ】
幼いころから、自発的に行動することができなかった。
母は乙女チックで可愛い人だった。わたしにも、〝かわいい〟を求めるのは必然で、食べるもの、着るもの、交友関係。そのすべてに母の求めた答えがあって、その問いがわたしの人生の指針だった。
「アンタはどうしたいワケ」
言われたとき、視界が開けるようだった。
ずっとずっと、息苦しくて、居場所がなかった。
肩身が狭かった。
自分がそう感じていたことに、言われて初めて気がついた。
明るい金髪、数え切れないピアス、無愛想な美形ゆえの圧、間延びした口調。
手入れの行き届いた黒髪、着崩すことを知らない制服、美形の圧を柔らかくするための愛想、堅い敬語。
何もかもが違うわたしたちは、パズルのピースが嵌るように仲良くなった。大抵はわたしが話す内容に彼が相槌を打つ、というかたちでコミュニケーションをとった。
可愛がっていた娘が恋に現を抜かしているとあっては面白くない。母は当然、交際を反対した。
従わなければ母に嫌われる。でも彼と出会えたこの幸運を手放したくない。手放すわけにはいかない。説得は困難を極め、結局、母を納得させることはできなかった。
絶縁覚悟で自立したのは、大学入学を機に一人暮らしを始めたころだった。母は眉を下げるが、わたしにどうしても行きたい学校があったこと、彼とは遠距離恋愛になることから承諾を得ることができた。
遥か遠くの地で、一人暮らし。羽ばたくきっかけをくれたのは間違いなく彼だ。母もきっとわたしに失敗してほしくないだけだ。わたしが、変わらなければならないのだ。
【君が見た景色】
濡羽色の髪。まっさらな肌。密度の高い睫毛。通った鼻筋と薄い唇がつくる優雅な横顔。
君の瞳が輝くとき、君の見ている世界に羨望を抱いた。君の世界は僕やみんなの見ているそれとは「何か」が決定的に違って、「何か」が何なのか分からなくて、そのせいで君はいつも独りだった。
でも、その「何か」が、君は大好きだった。
だから君は僕を見ないし、見たとしても「何か」を通してしか見られない。
それがさみしくて、かなしくて、羨ましかった。
【真夏の記憶】
夏になると思い出すことがある。俺が子どもだったころ、とある女の子と交わした会話だ。
夏休み。小学校低学年だった俺は、祖父の通院に着いて病院にやって来ていた。祖父の診察の間、病院の裏手でトスの練習をして待っていると、ふと音が鳴っていることに気付く。その音は(おそらく)ピアノで、そしてすぐ近くで鳴っていた。何らかの引力によって吸い寄せられるように茂みをかき分ける。
そこには白いレンガで出来た、大きな洋館があった。洋館はうつくしい庭に囲まれていて、その中心でピアノと少女がいた。
パッ、と少女がこちらを見た。俺は今思うと、彼女に見惚れていたのだと思う。美的感覚なんてない庶民の俺の唇が、待ち望んでいたかのように動く。
「きれい」
少女はぱちぱちと瞬いて、ふふっと吐息だけで笑った。
「ありがとうね」
言って、もう一度ピアノを弾き始める。今度は俺も知っているポップスだ。夏祭りの曲。
「上手なのか?」
聴き終わってから訊ねると、彼女は晴れやかな笑顔で「いやあ、まだまだだよ」と言った。
「でも、きれいだって思った」
「それはよかった。わたしはもーっとずうっと上手くなるから、きみも頑張んなよ」
ちょんっとつつくように指さしたのは、俺が抱えるバレーボール。
「ん。そのつもりだ」
「んふ、その意気だ」
楽しげに笑って、彼女とはそれっきり。
しかしその数日後、フィギュアスケートの全日本大会で金を獲った天才少女としてニュースに取り上げられていたからだ。驚きが寂しさを塗り替えてしまった。
俺の初恋の記憶。優しくて、熱くて、負けたくないと思わせてくれる。
【こぼれたアイスクリーム】
「あっ」
ぼろ。べちゃ。コーンの上のアイスクリームの半分ほどが地面に落ち、無様な音をたてた。
「あちゃあ、やっちまったぜ」
言葉で強がりつつ、バッグの中からティッシュを取り出す。…と。
ぼたっ。
「…」
まずは深呼吸。…。端的に状況を説明すると、コーンごと落とした。おそらきれい。
「かなし」
「おねえちゃんかなしいの?」
「お」
視線を下に落とすと、男の子がこちらを見上げていた。わたしは百八十を超える長身なので、ほぼ真上を向いている。わたしは屈んで男の子に答えた。
「ん。かなしいの。見なよコレ、このアイスわたしんなのに。一口も食べてないのに」
「そっかあ、それはかなしいね」
「分かってくれるかあ、優しい子だね」
この賞賛は心底のものだった。しかし男の子はじいっと地に落ちてやや溶けたアイスを見つめている。無視か無視だな? 傷ついちゃうぞ。などと思っていると、おもむろに背中に背負っていた恐竜リュックを探り始めた。…忘れ物に気付いたのか? あるよなあ、突然忘れ物んこと思い出すこと。アレもかなしいよな。訥々と考えながらアイスクリームの処理をする。この辺ゴミ箱あったっけ。
「おねえちゃん、」
「ん?」
「コレあげる」
そう言って差し出されたのはキーホルダーだった。丸いバニラアイスとチェック柄のコーンの、小さなキーホルダー。わたしはそれに見覚えがある。
「コレガチャガチャのじゃん? いいの」
「ん」
「悪いよ、きみが大事にしなよ」
「往生際が悪いぞ」
「どした急に」
「…かなしい気持ち、なくなった? 嬉しくなった?」
わたしはパッとびっくりした。…なんて子だこの子。
「ふ。ほんとにいいの。もらっちゃって」
「! いいよ」
「そんじゃあ遠慮なく。ありがとうね」
言いながらバッグを膝の上に乗せ、キーチャームに取り付ける。可愛いな、わたしコレ狙ってたのに出なかったんよな。
「アイス落として良かったー」
「それはない」
「それはそう」