【小さな命】
土砂降りの夜。
妊婦の妻がずぶ濡れで仔猫を拾ってきた。
「飼う」
「エッ」
「飼う」
「反対…したいかな」
「だって弱ってる」
ムウと不満を表す彼女は臨月である。なぜこんな天気の日に外出したかと言えば、今朝の散歩で仔猫の鳴き声を聞いたからと答えた。姿が見えず、探すのに手間取ったと。
「わたしがお世話する。あなたの手は煩わせない」
「えー…」
「お願い」
…。結局、ぼくはこのお姫様に弱いのである。
【今日のさよなら】
今日のさよならは、昨日のそれよりも重たかった。
彼女は明日から海外で暮らす。クラブ移籍のためだ。
フィギュアスケートで無敗記録を更新し続けている彼女は、対人能力がまるでなかった。
視線恐怖症も相まって目を合わせられないし、本人も苦手意識があるから人を寄せ付けないように息を殺している。けれど硝子の美貌は凄みを増していくばかり。
注目を集めてもそのほとんどを取り合わないし、話しかけられてもひとつふたつ言うのみで会話を続けられない。
高嶺の花。
それが彼女だ。
「だいじょうぶよ。わたしがんばるから」
「…。うん」
分かっている。
花を手折ったのはぼくだ。替えのあるストックで終わりたくなかった。彼女は禁欲的で厳格な淑女。ぼくは享楽的で自堕落な怠け者。釣り合いたいと努力しても、幼少期から実績のある彼女にはどうやっても追いつけない。
でも、ぼくは選ばれたのだ。絶対に手放さないし、手放されないよう努力する。努力で変えられないものを恨んでも仕方ないように、努力で変えたものはたくさんあるのだ。
「ねえ、だいすきだよ。ぼくの白百合」
「ふふ、だいすきよ。わたしの青薔薇」
【お気に入り】
濡れ羽色の黒髪。
光をたっぷり含んだ碧眼。
切れ長を縁取る分厚い睫毛。
すべてがわたしのお気に入りだった。
でも、最初からそうだったわけではない。
わたしは外国で産まれ育った。確か小学校に上がる直前まで。
それまではアジアのしっとりした顔立ちが珍しいのか、よくからかわれたり、いじめ…のようなものにも遭っていた。ので、わたしはこの容姿がだいきらいだった。
容姿に対するいじりやいじめによって疲弊していたとき、母の故郷であるニハン(日本)に移り住む話が出た。ニハンでは黒髪も彫りの浅い顔立ちも一般的であるそうだ。わたしは一も二もなく喰い付いた。
しかし、ニハンでもわたしはいじりといじめを受けた。
言語の壁である。
わたしの出身国は英語が主ではなく、ニハン語も簡単なものしか話せない。そのうえ碧眼すらばかにされる。
そうして学んだのは、分かりやすい異端を排斥したがるひとはどこにでもいるということ。
そうして、わたしを構成するものが嫌いになっていたころ。
お隣に住むお兄さんに恋をしたのだ。
染め上げた金髪と、カラーコンタクトの翠眼が特徴的な危うい雰囲気を纏ったお兄さんである。
彼はわたしを見て、一言。
『ええっ。お雛様かと思ったあ』
と、言った。
頭の中でうまく変換できなかったが、薄い微笑みが破れるように笑った、その硝子の美青年に惚れた。
音で言葉を反芻して母に尋ねると、朗らかに笑って棚を指さした。そこには王子様とお姫様のお人形。これは幼いころから自宅にあるお人形で、わたしを守ってくれるのだと言い聞かせられていた。愚痴や自慢を聞いてくれるお友達でもある。
『お雛様はこのお姫様のことよ』
と。
分かった瞬間から、わたしは恋に嵌ってしまったのだ。
わたしの持つすべてがお気に入りになった瞬間だった。
【ミッドナイト】
わたしは夜を怖がらない赤ん坊だったらしい。
生まれたときから感覚が鋭く、様々なことが〝わかって〟しまうことが多かった。そんなわたしにとって、夜というのは静かで、ようやく落ち着ける一時であったのだ。
【静かな終わり】
12月30日、大晦日前日である。
明日の大晦日、明後日からの正月に向けて大掃除のラストスパートをかけている最中に、それは起こった。
「み」
「え」
びしゃ。
我が愛しの仔猫ちゃん(もう仔猫ではない)がバケツをひっくり返したのである。しかもここは畳。「み」の一言できったねえ水を畳に飲ませたこの猫は走り去った。
わたしは深呼吸をし。
「やるか」
やるしかないのだ。静かに一年を終えるために!