ラクガキ

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【真夏の記憶】

 夏になると思い出すことがある。俺が子どもだったころ、とある女の子と交わした会話だ。

 夏休み。小学校低学年だった俺は、祖父の通院に着いて病院にやって来ていた。祖父の診察の間、病院の裏手でトスの練習をして待っていると、ふと音が鳴っていることに気付く。その音は(おそらく)ピアノで、そしてすぐ近くで鳴っていた。何らかの引力によって吸い寄せられるように茂みをかき分ける。
 そこには白いレンガで出来た、大きな洋館があった。洋館はうつくしい庭に囲まれていて、その中心でピアノと少女がいた。
 パッ、と少女がこちらを見た。俺は今思うと、彼女に見惚れていたのだと思う。美的感覚なんてない庶民の俺の唇が、待ち望んでいたかのように動く。
「きれい」
 少女はぱちぱちと瞬いて、ふふっと吐息だけで笑った。
「ありがとうね」
 言って、もう一度ピアノを弾き始める。今度は俺も知っているポップスだ。夏祭りの曲。
「上手なのか?」
 聴き終わってから訊ねると、彼女は晴れやかな笑顔で「いやあ、まだまだだよ」と言った。
「でも、きれいだって思った」
「それはよかった。わたしはもーっとずうっと上手くなるから、きみも頑張んなよ」
 ちょんっとつつくように指さしたのは、俺が抱えるバレーボール。
「ん。そのつもりだ」
「んふ、その意気だ」
 楽しげに笑って、彼女とはそれっきり。
 しかしその数日後、フィギュアスケートの全日本大会で金を獲った天才少女としてニュースに取り上げられていたからだ。驚きが寂しさを塗り替えてしまった。

 俺の初恋の記憶。優しくて、熱くて、負けたくないと思わせてくれる。

8/13/2025, 5:14:43 AM