ほたる

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4/15/2025, 7:53:36 AM

死んでしまいたい、と思っていた。


世の中に溢れる全ての事象が私の不幸を指差してくるような感覚に襲われることが、昔からある。
忙しなく道ゆく人々が、風に吹かれる草花が、転がる石ころが、私に幸せだと押し付ける。その度に私は、真っ当に幸せでないといけないという思考で頭がいっぱいになり、胸が張り裂けそうになる。どうしようもない苦しみから自分で自分を殴りつける日も、無理やり人前で笑うことさえ上手くできなかったことを悔やむ日も、感情の生まれる場所なんて最初からなかったみたいに何も感じられない日も、私はきっと幸せなのだ、と。そう思うために今夜も大量の薬を流し込む。水は嫌いだ。苦しい時に口内に充満する味を思わせる。ノンカフェインならいいだろうと、ルイボスティーを大きめのコップに一杯注いで部屋へ向かう。昔はあんなに薬を飲むことが苦手だったのに、いつしか慣れてしまい如何に胃を水分まみれにせずにいられるかの効率を考えられるようにすらなった。そんな時私は、私を不幸だと思う。

私は自分が不幸であることが、私の個性であると思っている。
睡眠導入剤を使っても碌に眠れないことや、馴れ合う同僚の輪に入れないこと、誰かが泣いている時に自分の悲しみだと錯覚してしまうこと、全てが私を構築する個性なのだ。これまで自分を愛してくれた人たちは、全員私の"そういうところ"に魅力を感じ、惹かれていたのだと確信している。それは私の不幸依存を助長させて、いつしかこんな怪物になってしまった。ああ、なんて可哀想なのだろう。

だけれど私は、決して自分が不幸ではないことを知っている。私は不幸を装った、不幸という毛布で体を温めるただの普通の人間だ。私にとってその毛布は史上の温もりであり、しかしひとたび我にかえればそれは氷のように冷たい。だれかこの感情に病名をつけてほしい。ずっと昔から、私はそうやって生きている。




あなたがいった。
「一緒に幸せになりたいと思っている」
そんなことを言われたのは初めてだった。不幸ではない私に価値がある?そんなわけがないと、ずっと疑って、疑って、疑った。
私から全ての悲しみが消え去ってもあなたは私が好きなのか、と聞いたことがある。我ながら、おかしな質問だと思う。あなたは呆れたように笑って、勿論、と答えた。

私はこの不幸な妄想から抜け出すことができるのだろうか。そんな未来は正直鮮明には見えないし、もがいているうちにあなたがいなくなって、もっと深いところまで落ちていく方がしっくりくる。
だけど、もしかしたら、そんな未来もあるかもしれないと、僅かな希望を信じてみてもいいかもしれない、あなたがいうのなら。

今だって私は死んでしまいたいけれど、それではあなたとの約束は叶わないから。いつかの二人が、何の境目もなく心から笑える未来を夢見て。私は今日も、不幸ではない。

4/13/2025, 12:03:55 PM

ひとひらの幸せだった。
結局私は最後まで不幸である自分を愛していて、手放せなかったのだ。あなたは私をそこから救ってくれようとしたのに、あなたへの愛よりも自愛が勝ってしまうなんて、我ながら本当に哀れだと思う。
あなたが伸ばしてくれた手は、少し触れるだけで涙がこぼれそうに温かった。世の中にこんな幸せがあっていいものかとその温もりを疑い、疑い、そして信じられるようになった頃にはあなたはいなくなっていた。それに怒ることのできるような立場ではないのは重々承知だけれど、きっと私に残された道はそれだけだったから、ひたすらあなたを恨んだ。そうすることで、またひとつ自分の不幸の芽見つけ出して、あなたの手の温もりでそれを育てた。こんな文字列を綴っているだけで気持ち悪くなる行為だと、思う。

あなたは優しいから、こんな救いようのない私に手を差し伸べてくれたのだ。だから、救えなかったことを苦しまないで。それはきっと必然で、私たちは離れる運命だったのだ。そう思うのに、こう綴りながら涙が止まらない。私は、何にも代え難い存在を自分から跳ね除けたのだ。

ある日、あなたと桜の木を見つけた。綺麗だねと眺めていると、私の頭に花弁が降ってきたことがあった。あなたは笑いながらそれを取り、どうぞ、と私の手のひらに乗せてくれた。そのひとひらの幸せを、私は押し花にしてずっと持ち歩いている。だから、あなたは私をとっくに救っていたんだよ。私はとっくにあなたに救われていたんだよ。それは、呪いにも似たあなたと言う救い。温かい、火傷のような、跡。

4/9/2025, 9:51:29 AM

あの時きみと交わした約束は、まるではじめからなかったみたいにもう思い出せない。もうなにも望まないから、せめて、どうか、きみが少しでも温かい気持ちで生きていられていますように。遠い日の私たちは、笑い合っているのだから。

4/8/2025, 7:29:04 AM

花言葉というのは、どうも胡散臭い。胡散臭いという言葉は違うか。押し付けがましいというか、感動的なストーリーを無理矢理作った作者の意図が見えてしまった時のような気持ちになる。
花はいつか枯れるのに、希望とか幸福とか私を忘れないでとか、そういったものを託して贈るのはあまりにも儚いとも思う。花屋勤務だからこんなことを思うのかもしれない。
毎日沢山の人が、さまざまな理由で花を買いに来る。祝い事やお見舞いなどその背景がそれぞれなのはどの店も変わらないのだが、花屋というのは客とコミニュケーションを取ることが比較的多い。というのも、客側から話してくれることが多いというべきか。どんな花がいいと思うか、などという相談の際に、自然とそういう会話が生まれるのだ。私はその度に心の底でそれを妬んでいた。花を贈りたいだなんて、人生で一度も思ったことがない。それがどういう事情であれ、きっとその人は生まれてきた意味をしっかりと享受して真っ当に生きているのだろうと思う、実際はどうあれ。それが酷く羨ましいのだ。

この先、誰かに花を贈りたいと思える日が私にも来るだろうか。もしかしたらそんな未来もあるかもしれない。だけど私にはそんなことをできる自信はない。そう信じきっているつもりで、けれどもそんな人が現れてくれたら、私の人生はきっと今とは全く別のものになるだろうな、と妄想をする。

私はこの花屋で、人の希望を観測している。
いつか私も、観測される側になりたいと思いながら。

4/4/2025, 2:03:59 PM

私が夏目漱石なら、こう言っただろう。

「一緒に桜が見たいですね。」

今年の開花は思った以上に早かった。
きみの隣で綺麗だと微笑み合うまでは絶対に視界に入れるものか、と心に決めていたけれどそんなわけにもいかず、道端にも車窓からも望まない桃色を見つけてしまう。世の中にはこんなにも桜の木があったのかと驚きを隠せない。しかし普段はただの樹木に擬態しているので、春だけしか出番がないというのもなんだか可哀想だなと少し同情の余地すらある。

桜の木にはどうもいい思い出がない。中学生の頃、桜が満開だからと校庭でお弁当を食べる日があった。普段はその時間だけ机の頭同士をくっつけて給食を食べるタイプの学校だったけれどその日はなぜだったかお弁当持参の日であり、当時の担任の提案からそのようなイベントが発生した。外で食べるということは自分の席というものも無く、私はいつもは当たり前にいる"一緒に給食を食べる同じ班のクラスメイト"という存在を奪われた。結果担任に最大限気を遣われながら、咲き誇る桜の下でいつもと違う景色に楽しそうにお弁当をつつくクラスメイトを横目に先生とその時間を過ごした、と思う。というのも、私には肝心な食事のシーンの部分の記憶がない。おそらくあまりの惨めさに脳がその時間をどこかに葬ってしまったのだと思う、我ながら哀れな学生生活だ。

それだけではない。高校卒業とともに実家を離れる少し前、母親と家の近くの春祭りに足を運んだ。川沿いに立ち並ぶ満開の桜と、立ち込める屋台の匂い。その記憶自体は非常に明るいものだが、その話をする時母と私は決まってあの瞬間の寂しさを思い出す。楽しさや春の暖かさよりも、残りわずかな一緒に過ごせる時間を惜しんでいたことの方が色濃く残っているのだ。

そんなわけで桜は好きではない。あの姿を見るとどうも自分が不幸に感じてしまうのだ。捻くれているだけという自覚は、大いにあるけれど。

だけども私は、きみと桜が見たいと思っている。
それが私なりの最大限の愛情であり、緩みであり、油断であることはわかっている。だけど私きっとこの先何度だって、そうやって誰かに心を委ねるのだ。

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