君が幸せになる夢を見た。
君は、凄く穏やかに笑っていた。誰の助けも必要が無いという顔で、陽の光をずっと浴び続けることのできた花のように笑っていた。
君のそんな顔は見たことがなかったので、私は思わず泣いてしまった。
そっか、幸せになれたんだね。もう、得体の知れない不自由さに囚われず、君を苦しめる人に掴まれず、人生の温もりだけを食べて行けるような存在になれたんだね。
君はいつだって世界に期待なんかしていなくて、呆れて、どこか見下したような目をしていた。
大切な人の曇りのない「幸せ」というものは、私という存在の心の在処をこうもはっきりとさせるものかと驚いた。
君は何を言うでもなく、目の前に広がる向日葵畑を見ていた。天を向かって咲く無数の黄色の花を見て、穏やかな顔をしていた。
私はというと、同じ世界にいるはずなのに視界に一面の花畑などは無く、ただ君の後ろ姿ばかりを追いかけていた。
初めは「よかったね」などと拙い言葉を絞り出していたのだけど、なぜだか君に私の声は届かない。私がどれだけ話しかけても、時には声を荒らげて君の名前を呼んでも、何も聞こえていないようだった。君は表情ひとつ変えず、不気味なまでに微笑んでいた。
君は目の前にいるような気もしたし、ものすごく遠いところにいるような気もした。手を伸ばしたらそこにいるのに、私の手が君の服の裾に掠るようなことすらできなかった。
そんな君を目の前にしてどれくらいの時が経っただろうか。きっと途方もない時間の果てに私は気づいた。君にもう私が必要なくなったことに。
君が幸せになった世界に私は欠片も必要がなくなってしまったのだ。私が与えられるものは全て消え去り、そして君から与えられるものも当時に消え去ってしまった。そのことに、ようやく気がついた。
それから先も、ずっとずっと長いこと、その場から動けなかった。君が向日葵畑の中でその香りを嗅ぐ仕草に見とれたり、花と共に風に靡く髪を綺麗だなと思ったりしていたら、時間なんてあっという間に過ぎた。君はこんなにも向日葵が似合う女性なのだということも知った。あまり想像したことのない組み合わせだった。
私はその間に赤子のように泣いたりもしたし、泣き疲れて座り込みながら君の幸せを噛み締めたりした。君の幸せを喜べない自分を呪いながら、それをこうして見つめられる自分を世界一幸福に思ったりもした。
君の世界に私がいないことをとうとう諦めきった頃だった。君がこちらを振り向いた。先程まで黄色一面だった君の瞳に私が写る。目が合う、鼓動が跳ねる、全身が痺れるような感覚を覚える。君が私に、微笑みかける。その瞳は先程までとは違ってどこか憂いを帯びていて、私はもう一度君の名前を呼ぶ。手を伸ばす。大丈夫、大丈夫、私はここにいるよって。喉が潰れるくらいの大声で、腕がちぎれるくらいの力で。君の幸せの最後の欠片となろうと、必死に。
気づくと私は、ベットの上にいた。視界には見慣れた景色。せっかくの休日だというのに昼間から眠ってしまっていたみたいだ。ああ、夢だったのだとなんてことのない顔で思う、別に誰に見られる訳でもないのに。
向日葵畑の君の姿が、目に焼き付いて離れない。
きっと現実の君は、夢の中のそれほど向日葵の似合う女性ではないように思う。あんな風に笑わないし、あんな風になにもかもを柔らかいものとして捉えるみたいな目はしない。私はそのことに安堵していた。夢でよかった、と思ってしまった。
君の幸せを喜べない自分を呪ってしまう部分だけは、唯一夢の中と変わらなかった。
君が幸せになる夢を見た。
茹だるような暑さも、上ばかりを向いて咲くひまわりも
全部がわたしを滅入らせるけれど
風鈴の音をきみと一緒に聴けるのなら
きっとわたしの夏も彩られるのに。
きみをつれて、なにもない場所までいければいいのに。
そこには青い空が広がっていて、まっしろなくっきりとした雲が浮かんでいて。地面はふかふかで、寝転がったらいつまでも眠ってしまいそう。
けれどもせっかくきみといるのだから、眠るのは勿体無いと言っていつまでも話そう。飽きたらやっぱり眠って、目を覚ませばまた隣にきみがいるんだ。
そこにきみと私を脅かすものはなにもない。
ただきみと私が存在しているだけ。
本当は美味しい食べ物や、綺麗な景色や、魅力的な音楽や、スマートフォンだってあったらいいなと思うけれど、そんな完璧な世界は別に求めてないんだよ。
きみが苦しいと認識するものがなければ、他にはなんにもいらない。世界から悲しみや痛みが消え去ったとして、その分だけ喜びや幸せが減ってしまったとしても。私は変わらずきみを愛しているという自信があるよ。きみがいて、私がいるという事実だけで、そこにうまれる温かさが絶対にあるんだ。
そんな世界に、いけたらいいのに。
ハッと我に帰ると、そんな景色はどこにもなくて。ここはただの、昨日までも何も変わらない日々。今もきみが悲しいと思い続ける世界。もし私がきみを連れ去ったら、きみは私をヒーローだと思ってくれるのだろうか。別に、そんなふうに思ってほしいわけではないのだけど。私はきみのヒーローになりたいわけじゃない、ただきみにヒーローみたいな人が現れてほしくて、それがあわよくば自分であればどんなにいいだろうと思うだけなのだ。
逃避行、なにもない、空想の世界に。
きみと私だけがいる、救われた先の日々に。
テレビのニュースが梅雨明けを告げる。「異例の早さでの梅雨明けです」という言葉に、去年も聞かなかったかな?と思い、きっと私がお婆ちゃんになる頃には梅雨なんてなくなってしまっているかもしれないと少し寂しくなる。
梅雨は、意外と好きだ。何故かと問われるとうまく形容し難いのだけど、世界が平等に雨に苛まれるところ、だろうか。なんの理由もなく晴れよりも雨のほうが好きな人はあまりいないと思うし、別に全人類の不幸を願っているほどでもないけれど幸せそうな人を見ると卑屈な自分が顔をだしてしまう私にとっては、丁度いい。それに、人々が傘をさして歩く景色はなかなか面白い。雨が降ったら傘をさすという習慣もだし、様々な絵柄のそれは色んなことを思わせる。綺麗なお姉さんは晴雨兼用の折り畳みであろうもの、サラリーマンはコンビニで至急調達したであろうビニール傘。個性溢れる傘選びは見ものである。
梅雨が終われば夏が来るわけだけど、私はあまり夏が好きではない。
妙にアクティブな季節だし、夏だからという理由で起こるイベントが軒並み興味がないからだろうか。水着を着たくないから海は好きではないし、虫は活発になるし、そうめんも好きではない。唯一夏祭りには浴衣やりんご飴、綿菓子などに風情を感じて心が躍るけど、確定演出の人混みに参加する前から気が滅入ってしまうため滅多に参加した記憶がない。夏にあまりいい思い出がないのだろうな、と思う。では寒い季節にはあるのかと問われると、別にそういうこともないけれど。梅雨と同じような理由で、冬もなんだか許されているような気がするから、好きなのだと思う。
けれども、夏の音楽を聴いたときにしか得られない感情があるのは事実だ。夏の曲は、どの季節のそれよりもなんだか情景描写がリアルなものが多い気がする。それだけ夏が人に与える影響が大きいのだと思う。蝉の音と踏切の警報音から始まる音楽にハズレを知らない。フェードインして、一瞬の静寂の後かき鳴らされるギターの音がたまらないのだ。冬に聴いたって同じく素敵なことに変わりはないけれど、やはり夏に聴く夏の曲良い。
私はこの先もずっと夏が好きにはなれないけれど、夏がくるたびに鬱陶しさを感じながらも終わる頃には寂しさを覚えるのだろうと思う。ずっと自分のことを追いかけていた男の子が、突然自分から興味を失ってしまった時のような。自分勝手に振られてしまったような気分に。
そんな、夏がくる。
愛は呪いである。
人生は自分のために生きていくというのに、自分のための感情が全て汚く見えるのは何故だろう。誰かのためだと伸ばした手は、手を掴んだ人を救いたいと思うこの気持ちは、結局は私がその温もりに救われたいと願う気持ちの裏返しなのだと気づいたときから、ずっとその傷に囚われたまま生きている。
人間が当たり前に生み出す感情も、当たり前に営む関係も、全てが正しく享受できない。もしくはわたしが正しいのかもしれないという気持ちも、少しはあるけれど。この際正しいかどうかなんてどうだってよくて、都合良く解釈できたらいいのに。息絶える瞬間までにこれができるようになれば、わたしの人生は満点が取れるだろう。
けれども、もし、わたしがわたしのために生きていいのだとしたら。
人てして生きる権利を真っ当に行使していいのなら。
あなたを心の底から愛していると、言いたい。
愛を、人を縛り付ける呪いだというそのものが呪いみたいなドロドロとした全てから解放されたい。そしてあなたをただ心地よい温もりで抱きしめて、大丈夫だよと言うわたしを見て、きみが言うならそうなんだなと思ってもらいたいのだ。
わたしが、わたしのために生きていいのだとしたら。
きみへの愛は、呪いなんかではなく、祈りとなるだろう。
ただ、きみとわたしの幸せを祈る、それだけのこと。