昔好きだった絵本がある。
主人公は人付き合いが苦手なねずみで、ひとりできままに生きていた。そんなねずみのところにある日いとこねずみがやってくる。そこに泊まり込みたいというのだ。主人公はなんて面倒なんだと思いながらも渋々いとこを泊めてやった。いとこねずみは主人公とは正反対の性格で、朗らかで人付き合いが良い。近所のねずみともどんどん仲良くなる。そんないとこに誘われて、二人は一緒に川を船で渡ったり、食事をしたりという1週間を過ごした。そして最後には主人公もいとこに心を開き、またくるよ!と別れを告げるのだ。私が好きだったのはここからである。その絵本の最後のページに食器棚が描かれているのだが、そこにははじめは確かに1つずつしかなかった食器が二つずつ並べられていた。その描写があまりにもあたたかくて、食器が増えるということは人と繋がるということなのだと、幼い心ながらに思った。
マグカップ。そういえば昔、同棲をしている友達にペアマグカップを送ったことがあった。自分でも、昔はそういうことをしていたかもしれない。
食器が増えることは、あたたかくて幸せな現象。けれども、それが必要なくなったときの気持ちがあまりにも痛い。
お揃いのマグカップ。ひとつのイヤホンで聴いた音楽、とっておきの小説の共有。全て、あなたのことがたまらなく大切だからしたことで。エピソード記憶として、私を苦しめ続けるのだろう。こんなことになるのなら、教えなければよかった、買わなければよかったと。
飲み物を飲むたびに思い出す。これをあなたとお揃いのものだったなと。これを選んだときのことを鮮明に記憶に呼び出し、その温もりはとっくに冷たさに変わっていることを知る。思い出すということは、時にぬくもりを、そして時に冷たさを運んでくる。もうあの時間は戻らないという冷たさ。けれどもあの場所には確かに温もりが存在していたという事実。
私は一人でこれを使い続けているよ。
もう取手をハートにしたりすることはできないけれど。
ねえ、こんな気持ちになるなら、買わなきゃよかったのかな。
わからないね、今となっては。
あの日の幸せが、今日の私をじくじくと傷つける。
もしも君が私のことなんて好きじゃないと言ったら、私はなんと答えるだろう。
よかった、私のことなんて好きじゃなかったんだ。そっか、だからなんだ。好きじゃないから、私はこんなに悲しい気持ちになったりしていたんだ。私は愛情を受けて歪んだ化物なんかではなくて、ただ愛情を受けることができない悲しい存在なだけだったらしい。
好きじゃない、この言葉は鋭利だ。世界で同時に言葉というナイフを振り翳したら、大量の死人が出るだろう。
君が私のことを好きじゃなかったらよかった。そしたらわたしも君のことを好きなんかではなかったと思う。
それはつまり、この物語が始まらなかった未来がスタートするのだ。
こんなにも愛おしい痛みも知らずに、ただただ見えない何かに拘束されたような気分になり、手を伸ばして、届かないその愛情に。私は必死に掴もうとする。
だいすき、だいすき、だいすきなんだよ。大好きなんだ。
君の全部がわたしになったらいいのに。
君の見る景色、君の心、その全てが私にも同じように伝わったら
君を傷つける頻度はきっと減るし喜ばせることもできるだろう。
きみが幸せならそれでいい、ほんとうにそれでいい。
その幸せに私が組み込まれていたら、もっといい。
朦朧とした意識の中で綴る、もしもという文章は
暴力的までに私の脳を刺激する。
本当に、幸せたらそれでいい?
その幸せに、自分が関与したいのだろう。
私がいるから幸せだと、君に言って欲しいのだ。
なんという欲望。愛とは何よりも醜い。
ビニール傘越しに眺める雨が好きだ。
あの独特な素材が雨を叩く音と、絶対的に守られている透明な安心感の中に宿る不幸みたいだ。けれどもきっと同じような人間に、碌な人はいないのだろうな。全員がその空間に浸っているだけだ。
私は昔から音楽に救われて生きていたけれど、音楽すらまともに聴けない日がある。人の創作なんかに救われてたまるかという日や、どんな歌詞を聴いてもその全てが自分を責めているように感じる日がある。そんな時は雨音を聴く。今時のスマートフォンは便利で、ワンタップで雨音が流れるようになる機能などが存在している。(そのせいで何度も意図せず世間に雨を降らせて驚かれたことも多々あるが。)雨音は何にもならず、ただ冷たく地面を叩くだけだ。
誰にでも平等で、初めからどこか不幸で、湿っていて。
それがとても、好きだ。
拝啓、あなた。桜が散り少しずつ暖かくなってきましたが、いかがお過ごしですか?あなたは人並み以上に花粉症だったので、あまり嬉しくない季節かもしれませんね。私はさほど花粉に悩まされてはいないので、電車の乗り換えで冬の冷たい風に晒される日々が終わり安心しています。けれども気がつけば空気が湿り気を帯びて、梅雨がやってくるのも、そしてまた過ぎ去るのもあっという間なのだと毎年同じ事を思い、そしてその度に少し寂しくなります。
あなたと出会って、そしてこうして手紙を送る関係になれたことを、私は嬉しく思っています。これはあなたを安心させるための言葉ではなく、本心からです。初めて会った時のあなたは、掴みどころがなくて冷たい印象でした。それはこうなった今もある意味変わりません。あなたの冷たさは本当の優しさからくるものなのだと知りました。私のように偽りの温もりを差し出さずとも充分に人を惹きつける魅力は、私がどんなに手を伸ばしても手に入れることはできないでしょう。そしてそんなところを私も好きになりました。もっと他にも、愛おしい部分はあるのだけれど。何度考えても、一番に浮かぶのはそれなのです。
あなたが私のどんなところを好いてくれたのか、それは今でもわかりません。あなたがどんなに言葉にして伝えてくれても、正直何ひとつピンときませんでした。それはあなたの感性が独特であるという魅力の一つからなのか、私が人からの好意に異常に鈍感だからなのか。どちらもかもしれませんね。だけれどあなたが私を、何故だか特別愛してくれていたということは伝わっていました。伝わっていないような態度しか取れなかったこと、心の底から申し訳ないと思っています。嘘ではないのです、もしこれが嘘だというのなら、世の中に正しい事なんて何ひとつ無いと言い切ってもいいくらいです。
あなたは今も、何かに苦しめられながら生きているのでしょうね。それは、悲しいけれどきっと揺るぎない事実なのだと容易に想像がつきます。私はあの頃、あなたが少しでも世の中の温かいものだけを享受して生きていてほしいと心から願っていました。そしてその温もりに自分がなれたらいいと思っていた。けれどもその願いはあなたにとってただ呪いになっていたのかもしれないと、今でも思います。愛情なんていうものは、歪んだ呪いだから。呪いに歪みも何も無いって?本当にそうですね。これは流石に私の嗜好が出過ぎました。
今だって、あなたが少しでも笑っていることを祈っているのです。本当は隣に居たかった、それを一番近くで見守りたかったけれど、叶わない夢となりました。夢だなんて大袈裟な、とあなたは私を呆れて笑うかもしれませんね。けれども、私の夢なんてそれだけだった。あなたの隣で笑う事、あとは…そうですね。強いて言えば、猫を飼う事とかかな。
あなたの隣には今誰かが居るのでしょうか。そうであってほしいと思う自分と、そうでなければいいのにと思う自分がいます。結局あなたの幸せだけを願っていたなんて嘘で、私は私の幸せを願っていたのかもしれません。でも、世の中なんて、人生なんてそんなものだと思うのです。こんな事ばかり考えているから、私の夢は叶わなかったのですね。
今年の梅雨も、雨が沢山降るのでしょう。あなたは傘を持たない人だから、風邪を引かないか心配です。だけどきっと、雫が滴ったあなたの短い髪や長いまつ毛はきっと綺麗で、それすら絵になるのだと思います。隣に私が居たら、そっと傘を差し出すのに。
私はこの先の人生でもずっと全ての季節や景色に架空のあなたを描いて生きていくのでしょう。それしかもう、私の人生に色をつける方法が見出せません。私は、あなたを愛していた。巡り逢えたことに、後悔なんてしていません。あなたを救ってくれる神様が現れますように。私の人生を彩ってくれたこと、感謝します。さようなら。
君がいないと話すこともない。
君がいたなら話したいなと思うことすら、痛みとなる。
願わくば今、この瞬間もきみが
少しの涙も流していませんように。
世界に浮遊する多少の温もりを享受できていますように。
私が星明かりに願うことなんて
たったそれくらいだ。