ほたる

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私が夏目漱石なら、こう言っただろう。

「一緒に桜が見たいですね。」

今年の開花は思った以上に早かった。
きみの隣で綺麗だと微笑み合うまでは絶対に視界に入れるものか、と心に決めていたけれどそんなわけにもいかず、道端にも車窓からも望まない桃色を見つけてしまう。世の中にはこんなにも桜の木があったのかと驚きを隠せない。しかし普段はただの樹木に擬態しているので、春だけしか出番がないというのもなんだか可哀想だなと少し同情の余地すらある。

桜の木にはどうもいい思い出がない。中学生の頃、桜が満開だからと校庭でお弁当を食べる日があった。普段はその時間だけ机の頭同士をくっつけて給食を食べるタイプの学校だったけれどその日はなぜだったかお弁当持参の日であり、当時の担任の提案からそのようなイベントが発生した。外で食べるということは自分の席というものも無く、私はいつもは当たり前にいる"一緒に給食を食べる同じ班のクラスメイト"という存在を奪われた。結果担任に最大限気を遣われながら、咲き誇る桜の下でいつもと違う景色に楽しそうにお弁当をつつくクラスメイトを横目に先生とその時間を過ごした、と思う。というのも、私には肝心な食事のシーンの部分の記憶がない。おそらくあまりの惨めさに脳がその時間をどこかに葬ってしまったのだと思う、我ながら哀れな学生生活だ。

それだけではない。高校卒業とともに実家を離れる少し前、母親と家の近くの春祭りに足を運んだ。川沿いに立ち並ぶ満開の桜と、立ち込める屋台の匂い。その記憶自体は非常に明るいものだが、その話をする時母と私は決まってあの瞬間の寂しさを思い出す。楽しさや春の暖かさよりも、残りわずかな一緒に過ごせる時間を惜しんでいたことの方が色濃く残っているのだ。

そんなわけで桜は好きではない。あの姿を見るとどうも自分が不幸に感じてしまうのだ。捻くれているだけという自覚は、大いにあるけれど。

だけども私は、きみと桜が見たいと思っている。
それが私なりの最大限の愛情であり、緩みであり、油断であることはわかっている。だけど私きっとこの先何度だって、そうやって誰かに心を委ねるのだ。

4/4/2025, 2:03:59 PM