ほたる

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4/13/2025, 12:03:55 PM

ひとひらの幸せだった。
結局私は最後まで不幸である自分を愛していて、手放せなかったのだ。あなたは私をそこから救ってくれようとしたのに、あなたへの愛よりも自愛が勝ってしまうなんて、我ながら本当に哀れだと思う。
あなたが伸ばしてくれた手は、少し触れるだけで涙がこぼれそうに温かった。世の中にこんな幸せがあっていいものかとその温もりを疑い、疑い、そして信じられるようになった頃にはあなたはいなくなっていた。それに怒ることのできるような立場ではないのは重々承知だけれど、きっと私に残された道はそれだけだったから、ひたすらあなたを恨んだ。そうすることで、またひとつ自分の不幸の芽見つけ出して、あなたの手の温もりでそれを育てた。こんな文字列を綴っているだけで気持ち悪くなる行為だと、思う。

あなたは優しいから、こんな救いようのない私に手を差し伸べてくれたのだ。だから、救えなかったことを苦しまないで。それはきっと必然で、私たちは離れる運命だったのだ。そう思うのに、こう綴りながら涙が止まらない。私は、何にも代え難い存在を自分から跳ね除けたのだ。

ある日、あなたと桜の木を見つけた。綺麗だねと眺めていると、私の頭に花弁が降ってきたことがあった。あなたは笑いながらそれを取り、どうぞ、と私の手のひらに乗せてくれた。そのひとひらの幸せを、私は押し花にしてずっと持ち歩いている。だから、あなたは私をとっくに救っていたんだよ。私はとっくにあなたに救われていたんだよ。それは、呪いにも似たあなたと言う救い。温かい、火傷のような、跡。

4/9/2025, 9:51:29 AM

あの時きみと交わした約束は、まるではじめからなかったみたいにもう思い出せない。もうなにも望まないから、せめて、どうか、きみが少しでも温かい気持ちで生きていられていますように。遠い日の私たちは、笑い合っているのだから。

4/8/2025, 7:29:04 AM

花言葉というのは、どうも胡散臭い。胡散臭いという言葉は違うか。押し付けがましいというか、感動的なストーリーを無理矢理作った作者の意図が見えてしまった時のような気持ちになる。
花はいつか枯れるのに、希望とか幸福とか私を忘れないでとか、そういったものを託して贈るのはあまりにも儚いとも思う。花屋勤務だからこんなことを思うのかもしれない。
毎日沢山の人が、さまざまな理由で花を買いに来る。祝い事やお見舞いなどその背景がそれぞれなのはどの店も変わらないのだが、花屋というのは客とコミニュケーションを取ることが比較的多い。というのも、客側から話してくれることが多いというべきか。どんな花がいいと思うか、などという相談の際に、自然とそういう会話が生まれるのだ。私はその度に心の底でそれを妬んでいた。花を贈りたいだなんて、人生で一度も思ったことがない。それがどういう事情であれ、きっとその人は生まれてきた意味をしっかりと享受して真っ当に生きているのだろうと思う、実際はどうあれ。それが酷く羨ましいのだ。

この先、誰かに花を贈りたいと思える日が私にも来るだろうか。もしかしたらそんな未来もあるかもしれない。だけど私にはそんなことをできる自信はない。そう信じきっているつもりで、けれどもそんな人が現れてくれたら、私の人生はきっと今とは全く別のものになるだろうな、と妄想をする。

私はこの花屋で、人の希望を観測している。
いつか私も、観測される側になりたいと思いながら。

4/4/2025, 2:03:59 PM

私が夏目漱石なら、こう言っただろう。

「一緒に桜が見たいですね。」

今年の開花は思った以上に早かった。
きみの隣で綺麗だと微笑み合うまでは絶対に視界に入れるものか、と心に決めていたけれどそんなわけにもいかず、道端にも車窓からも望まない桃色を見つけてしまう。世の中にはこんなにも桜の木があったのかと驚きを隠せない。しかし普段はただの樹木に擬態しているので、春だけしか出番がないというのもなんだか可哀想だなと少し同情の余地すらある。

桜の木にはどうもいい思い出がない。中学生の頃、桜が満開だからと校庭でお弁当を食べる日があった。普段はその時間だけ机の頭同士をくっつけて給食を食べるタイプの学校だったけれどその日はなぜだったかお弁当持参の日であり、当時の担任の提案からそのようなイベントが発生した。外で食べるということは自分の席というものも無く、私はいつもは当たり前にいる"一緒に給食を食べる同じ班のクラスメイト"という存在を奪われた。結果担任に最大限気を遣われながら、咲き誇る桜の下でいつもと違う景色に楽しそうにお弁当をつつくクラスメイトを横目に先生とその時間を過ごした、と思う。というのも、私には肝心な食事のシーンの部分の記憶がない。おそらくあまりの惨めさに脳がその時間をどこかに葬ってしまったのだと思う、我ながら哀れな学生生活だ。

それだけではない。高校卒業とともに実家を離れる少し前、母親と家の近くの春祭りに足を運んだ。川沿いに立ち並ぶ満開の桜と、立ち込める屋台の匂い。その記憶自体は非常に明るいものだが、その話をする時母と私は決まってあの瞬間の寂しさを思い出す。楽しさや春の暖かさよりも、残りわずかな一緒に過ごせる時間を惜しんでいたことの方が色濃く残っているのだ。

そんなわけで桜は好きではない。あの姿を見るとどうも自分が不幸に感じてしまうのだ。捻くれているだけという自覚は、大いにあるけれど。

だけども私は、きみと桜が見たいと思っている。
それが私なりの最大限の愛情であり、緩みであり、油断であることはわかっている。だけど私きっとこの先何度だって、そうやって誰かに心を委ねるのだ。

4/3/2025, 8:07:43 AM

彼女が伸ばした細い手が、今でも忘れられない。

出会ったばかりの頃、空を飛んでみたいと彼女が言った。私には理解できない望みだった。変な子だなとしか思えなかった。実際彼女はクラスに馴染んでいるとは言い難く、孤立しているようなこともなければ特別に友達と呼べるような存在もいないような可もなく不可もない存在だったと記憶している。他人事のように話しているけれどその点に関しては私も同じで、だけども私は間違いなく彼女とは違うと思っていたな、と昔の自分を恥じることが今でもある。

同級生なんてものは全員クソだと思っていた。子供じみていて、かっこいい先輩がどうだとか、流行りのリップクリームを持っている子はえらくて、しかし地味な子達がそれを持っていたら後ろ指を指されるような無価値な場所だった。
私はそこで必死に足掻いていたな、と思い返す。そしてその度に、彼女は足掻いてすらいなかったなと思う。いつだって何かを諦めていて、トン、
と肩を押せばなんの躊躇いもなく屋上から落ちていってしまいそうな危うさを含んだ子だった。

ある日、何かの授業で二人一組にならなくてはいない状況になった。運悪くそのような学校特有のお決まりの時間に私が決まってペアを組んでいる子がどちらも休んでいた。その時私はものすごく焦って(本音を言えば朝からずっとこのときをどう乗り越えるかしか考えていなかった)、仕方なくほぼ話したこともない彼女を誘ったのだ。私はその場で笑顔を貼り付けて一緒にやろうよ!と精一杯気さくに声をかけたけれど、彼女はこちらの気持ちなどお構いなしにそっけなくいいよ、と答えただけだった。

授業中、私たちは絵に描いたような寄せ集めだった。第三者にそう映らないよう必死に話しかけたりもしていたけれど無駄な努力で、結局私がどんなに考えたとてこの子に"そういう"意識がない限りは難しいのだと諦めてからは、まるで電池が切れたみたいに私から彼女に話しかけることも無くなった。勿論彼女から私に話しかけてくることも同じくなかった。

授業の終盤、彼女が突然空に手を伸ばして口を開いた。
「空を飛んでみたいんだよね」
その時は驚いた。私の中にあるイメージと、その発言があまりにもかけ離れていたからだ。私はなんと答えたらいいのかわからなくて、反射的にどうして?と問うていた。
「広くて、自由だから」
そう言うと、背伸びをして高いところの本でも取るような仕草でさらに限界まで手を伸ばした。その手は細くて、白くて、太陽に透けた血管が妙に生々しく、彼女は自分が思っている以上に、そして自分と同じくらいしっかりと生きていることを実感させた。

幼かった私には彼女の頭の中の想像はつかなくて、勿論共感もできなかった。だけど今になって思う。私だってあの無価値な場所を作り上げる材料だったこと、そしてあの子は唯一そうではなくて、もっと遠くを目指していて、空を飛びたかったこと。きっと私にはこの命が尽きるまで上手く感じ取れないものを彼女はあの幼い心で見つけていたのだと。

彼女が今、空を飛べていたらいいなと思う。だけどきっと、空を飛ぶことが一生叶わない夢でもあの子はなんとでもしてしまうのだろうな、とも思う。その夢に折り合いをつけて、諦めて、そしてそれを俯瞰して生きていくのだろう。
結局会話らしい会話なんてそれくらいしかしなかったけれど、私の人生の走馬灯に間違いなく彼女は現れる。それが、ずっと悔しい。

2025/04/02 『空に向かって』

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