彼女が伸ばした細い手が、今でも忘れられない。
出会ったばかりの頃、空を飛んでみたいと彼女が言った。私には理解できない望みだった。変な子だなとしか思えなかった。実際彼女はクラスに馴染んでいるとは言い難く、孤立しているようなこともなければ特別に友達と呼べるような存在もいないような可もなく不可もない存在だったと記憶している。他人事のように話しているけれどその点に関しては私も同じで、だけども私は間違いなく彼女とは違うと思っていたな、と昔の自分を恥じることが今でもある。
同級生なんてものは全員クソだと思っていた。子供じみていて、かっこいい先輩がどうだとか、流行りのリップクリームを持っている子はえらくて、しかし地味な子達がそれを持っていたら後ろ指を指されるような無価値な場所だった。
私はそこで必死に足掻いていたな、と思い返す。そしてその度に、彼女は足掻いてすらいなかったなと思う。いつだって何かを諦めていて、トン、
と肩を押せばなんの躊躇いもなく屋上から落ちていってしまいそうな危うさを含んだ子だった。
ある日、何かの授業で二人一組にならなくてはいない状況になった。運悪くそのような学校特有のお決まりの時間に私が決まってペアを組んでいる子がどちらも休んでいた。その時私はものすごく焦って(本音を言えば朝からずっとこのときをどう乗り越えるかしか考えていなかった)、仕方なくほぼ話したこともない彼女を誘ったのだ。私はその場で笑顔を貼り付けて一緒にやろうよ!と精一杯気さくに声をかけたけれど、彼女はこちらの気持ちなどお構いなしにそっけなくいいよ、と答えただけだった。
授業中、私たちは絵に描いたような寄せ集めだった。第三者にそう映らないよう必死に話しかけたりもしていたけれど無駄な努力で、結局私がどんなに考えたとてこの子に"そういう"意識がない限りは難しいのだと諦めてからは、まるで電池が切れたみたいに私から彼女に話しかけることも無くなった。勿論彼女から私に話しかけてくることも同じくなかった。
授業の終盤、彼女が突然空に手を伸ばして口を開いた。
「空を飛んでみたいんだよね」
その時は驚いた。私の中にあるイメージと、その発言があまりにもかけ離れていたからだ。私はなんと答えたらいいのかわからなくて、反射的にどうして?と問うていた。
「広くて、自由だから」
そう言うと、背伸びをして高いところの本でも取るような仕草でさらに限界まで手を伸ばした。その手は細くて、白くて、太陽に透けた血管が妙に生々しく、彼女は自分が思っている以上に、そして自分と同じくらいしっかりと生きていることを実感させた。
幼かった私には彼女の頭の中の想像はつかなくて、勿論共感もできなかった。だけど今になって思う。私だってあの無価値な場所を作り上げる材料だったこと、そしてあの子は唯一そうではなくて、もっと遠くを目指していて、空を飛びたかったこと。きっと私にはこの命が尽きるまで上手く感じ取れないものを彼女はあの幼い心で見つけていたのだと。
彼女が今、空を飛べていたらいいなと思う。だけどきっと、空を飛ぶことが一生叶わない夢でもあの子はなんとでもしてしまうのだろうな、とも思う。その夢に折り合いをつけて、諦めて、そしてそれを俯瞰して生きていくのだろう。
結局会話らしい会話なんてそれくらいしかしなかったけれど、私の人生の走馬灯に間違いなく彼女は現れる。それが、ずっと悔しい。
2025/04/02 『空に向かって』
4/3/2025, 8:07:43 AM