帰り道、泣いていた。
きっと出会ってしまった以上、この場所は私の傷になる。そのことにふと気づいてしまったのだ。
今日の私もこれ以上のことを記す気力がない。
仕事をやめたい。辞めたくない。好きなことで生きていきたい、そんなことはきっと到底できない。悔しい。
この25年間で蓄積された汚れはもうきっと一生落ちないこと、このままこべりつき私を蝕むのだと察して、その事実に泣いていた。
誰か私を救ってくれないかな、と毎晩日記に書いている。
救うってなんだ、救われるってなんだ、とおもいながら。私はそんなことを思わなくなりたいのだ。睡眠薬も、暗い日記も、狂気的に必要な音楽や人間も全て必要なくなりたい。
今日もなんの納得もいかない創作だ。ただ、苦しい。
小さなしあわせ
それを感じられるということは、心身ともに非常に健康であることが条件であるように思う。
このお題を受けて、私にはなにも書けることがない。
恐らく探せば1日に3個くらいは見つかりそうなものだが、辺りを見渡すと鼓動が速くなり、待ちゆく人々が楽しそうに歩いている景色を疎ましく感じ、唯一愛する人すらもなんだか遠く感じてしまう。
つまりきっと、今の私にそんなものはないのだということだ。
早く明るい文字列を綴れるようになりたい。
毎晩睡眠導入剤をルイボスティーで飲み込み、霞んだ記憶の中で悲しみを書き綴る日々がもうずっと続いている。
その時間だけが私の楽しみであり、その日記の中だけが私がありったけ不幸でいられる場所なのだ。
私は結局自分で自分を幸せではないという景色に縛り付けいる、それは私にある程度近づいた人間ならばすぐに気づくことで、その度に伸ばされた手を振り払い、大切な人、もしくはいずれ大切になるはずだった人たちを遠ざけているのだ。
早く普通になりたい。
普通が何かなんてわからない。そんな人種がいるのかも、わからない。
だけど、休日に友達と遊びに行ったり、本を読んだり、テレビゲームをしたり、そういう日々が、私は欲しい。
それがきっと、私の想像する小さな幸せなのだ。
本当に、何にも気づけない。
もっとそばにある温もりを抱きしめていたいのに。
はるらんまん
一文字ずつからエネルギーを感じていやになる。
春と聞けば桃色が真っ先に浮かぶが、
春から水色を感じる人間しか好きになれそうにない。
今日はそんなことしか書く気力になれない。
春爛漫。
この言葉を好きになれる日が早くこればいいのにと思う。
ドロップス缶が好きだ。レトロな柄の缶の中に、8色の宝石が入ったお菓子。入り口は丸くくり抜かれていて、逆さまにして上下に振ると8/1の確率で選ばれた味が食べられる。
イチゴ、レモン、オレンジ、スモモ、パイン、メロン、リンゴ、ハッカ。
全部で7色。そう、レモンとハッカが同じ色(正確には少し違うのだが)なのだ。
他の味が飴独特のカラフルな色味をしている中、この2種は二つとも薄めた水色のような、透明な雨のような色をしている。どちらかが選ばれた場合、一瞬で見分けがつく人はあまりいないだろう。
幼い頃、メロン味が一番好きだった。砂糖をまとって少し濁った緑色が綺麗だったからだ。そしてハッカ味が一番好きではなかった。だけどこれは所謂ガチャガチャなので、ハッカが出てくることだってある。私はドロップスを食べる時のルールとして、出てきた味は必ず食べる、と決めていた。その理由は一日の運試しのような要素を担っているというということと、もう一つは最後に好きな味ばかりが残るのも嫌いな味ばかりが残るのもどちらも嫌だったからだ。
どうしてハッカ味を作ったのだろう、と考えたことがあった。当時の私は、これに対して嘘つきだと思った。フルーツの飴の缶にハッカ味が入っているだなんて。しかもこれは一般的には子供のお菓子だ。ハッカ味なんて、好きな子供がいるだろうか。初めから7種類にしてしまえばよかったのにとか、8種類にしたかったのならもう一つもフルーツにするべきだったのではないだろうか。例えばぶどう味とか、ピーチ味とか。
だから私は昔からずっと、ハッカ味が出た日はハズレ。占いの最下位のような感覚で生きることにしていた。
私には当時、近所に住んでいる高校生のおねえさんがいた。おねえさんは髪が長くて、背が高くて、お母さんがあの子はいい学校にかよっているのよ、としきりに言っていたから、きっと頭も良かった。おねえさんはすれ違うといつも私に笑顔で挨拶をしてくれて、たまにお菓子をくれることもあった。もともとはおねえさんがたまにサクマドロップスをくれることがきっかけだ。まだ小学生だった私にとっておねえさんはすごく大人で、それに憧れて好きになったのだ。
ある日気づいた。おねえさんは、いつも一人だった。誰かと歩いている姿が見たことがなくて、同じ時間に通学路で鉢合わせる。加えてなんだか消えてしまいそうに儚くて、だけど私に笑いかけるその時はとても穏やかに微笑む。
そんなおねえさんがくれたお菓子がドロップスだったある日。それはハッカ味だった。その日は私が自分で出した味も同じくハッカだったので、少し機嫌を損ねたことがあった。今思えばひどく子供だった。
他のがいい、と頬を膨らませる私に、おねえさんは飴玉を空に透かしてこう言った。
「見て、綺麗。」
太陽に反射した宝石はキラキラと輝いて、おねえさんはそれを眩しそうに見つめた後、少しして私の方へと差し出した。私はそれを受け取って口に含んだ。
おねえさんの前で食べたハッカ味の飴玉は、なんだかいつもよりスーッとして美味しくなかった。だけど私は、なんだか少し大人になれたような気がして悪くない気分だった。
私は当時のおねえさんと同い年くらいになった。今でもドロップスが好きだ。昔みたいに毎日は食べないけれど、いいことがあった日も、悲しいことがあった日も、一粒口に放り込めばなんだか大丈夫な気がするのだ。
ハッカ味の飴玉を、太陽に透かしてみる。おねえさんは今いくつになっただろうか。いい大学に進学して東京に行ったと聞いた。今もおねえさんがドロップスを好きだったらいいな、と思う反面、あの宝石が必要ないくらい、おねえさんが温かい毎日を送れていたらいいなと思う。
そんなことを思いながら食べたハッカ味はあの日よりも美味しくて、ドロップスは7色じゃなくてよかったと思った。
記憶、即ち思い出。
人の脳裏に張り付き、苦しめるものである。
あの頃は良かった、とか、あの人にもう一度会いたい、とか、そんなものは結局全て過去だ。今まで一度も望んだ未来が訪れたことはなかったし、全てが空想であり、そんな重苦しい色をした記憶だけが脳の体積を埋めていく。
幸せを感じた時、私は同時に悲しくなる。
この時間の記憶はやがて私を苦しめる。幸せなんて知らない方が幸せだからだ。だから私に幸せをくれた人たちはもれなく私を不幸にする存在になっているし、そうでなくても私を過去に縛り付ける。
しかし人とは愚かなもので、傷すら癒えていくのだ。レジリエンスという言葉がある。どんなに辛い状況下に置かれても強い憎しみを持っても、いずれは回復する能力のことらしい。それはとても素敵なことのように聞こえるが、逆に言えば忘れてしまうのだ。幸せのあとに待ち受ける苦しみにも適応し、また幸せを求めてそしてそれ故に傷つく。あまりにも滑稽である。
そんなことを思っていると、きみは私に「どうしたの?」と問う。ううん、なんでもないと笑い、次に会えた時には桜が見たいと私は言った。
桜はいずれ散ってしまう。それまでにまたきみと会えるだろうか。
幸せは、悲しみよりも記憶に残る。だからこそ悲しみよりもタチが悪い。この瞬間の記憶が、来年も再来年も桜を見るたびに自分を呪うのだろうと呆れながら、「いいね」と笑うきみを見て、幸せだなと思った。