ほたる

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3/27/2025, 12:44:51 PM

ドロップス缶が好きだ。レトロな柄の缶の中に、8色の宝石が入ったお菓子。入り口は丸くくり抜かれていて、逆さまにして上下に振ると8/1の確率で選ばれた味が食べられる。

イチゴ、レモン、オレンジ、スモモ、パイン、メロン、リンゴ、ハッカ。
全部で7色。そう、レモンとハッカが同じ色(正確には少し違うのだが)なのだ。
他の味が飴独特のカラフルな色味をしている中、この2種は二つとも薄めた水色のような、透明な雨のような色をしている。どちらかが選ばれた場合、一瞬で見分けがつく人はあまりいないだろう。

幼い頃、メロン味が一番好きだった。砂糖をまとって少し濁った緑色が綺麗だったからだ。そしてハッカ味が一番好きではなかった。だけどこれは所謂ガチャガチャなので、ハッカが出てくることだってある。私はドロップスを食べる時のルールとして、出てきた味は必ず食べる、と決めていた。その理由は一日の運試しのような要素を担っているというということと、もう一つは最後に好きな味ばかりが残るのも嫌いな味ばかりが残るのもどちらも嫌だったからだ。

どうしてハッカ味を作ったのだろう、と考えたことがあった。当時の私は、これに対して嘘つきだと思った。フルーツの飴の缶にハッカ味が入っているだなんて。しかもこれは一般的には子供のお菓子だ。ハッカ味なんて、好きな子供がいるだろうか。初めから7種類にしてしまえばよかったのにとか、8種類にしたかったのならもう一つもフルーツにするべきだったのではないだろうか。例えばぶどう味とか、ピーチ味とか。
だから私は昔からずっと、ハッカ味が出た日はハズレ。占いの最下位のような感覚で生きることにしていた。

私には当時、近所に住んでいる高校生のおねえさんがいた。おねえさんは髪が長くて、背が高くて、お母さんがあの子はいい学校にかよっているのよ、としきりに言っていたから、きっと頭も良かった。おねえさんはすれ違うといつも私に笑顔で挨拶をしてくれて、たまにお菓子をくれることもあった。もともとはおねえさんがたまにサクマドロップスをくれることがきっかけだ。まだ小学生だった私にとっておねえさんはすごく大人で、それに憧れて好きになったのだ。
ある日気づいた。おねえさんは、いつも一人だった。誰かと歩いている姿が見たことがなくて、同じ時間に通学路で鉢合わせる。加えてなんだか消えてしまいそうに儚くて、だけど私に笑いかけるその時はとても穏やかに微笑む。

そんなおねえさんがくれたお菓子がドロップスだったある日。それはハッカ味だった。その日は私が自分で出した味も同じくハッカだったので、少し機嫌を損ねたことがあった。今思えばひどく子供だった。
他のがいい、と頬を膨らませる私に、おねえさんは飴玉を空に透かしてこう言った。

「見て、綺麗。」

太陽に反射した宝石はキラキラと輝いて、おねえさんはそれを眩しそうに見つめた後、少しして私の方へと差し出した。私はそれを受け取って口に含んだ。
おねえさんの前で食べたハッカ味の飴玉は、なんだかいつもよりスーッとして美味しくなかった。だけど私は、なんだか少し大人になれたような気がして悪くない気分だった。



私は当時のおねえさんと同い年くらいになった。今でもドロップスが好きだ。昔みたいに毎日は食べないけれど、いいことがあった日も、悲しいことがあった日も、一粒口に放り込めばなんだか大丈夫な気がするのだ。
ハッカ味の飴玉を、太陽に透かしてみる。おねえさんは今いくつになっただろうか。いい大学に進学して東京に行ったと聞いた。今もおねえさんがドロップスを好きだったらいいな、と思う反面、あの宝石が必要ないくらい、おねえさんが温かい毎日を送れていたらいいなと思う。

そんなことを思いながら食べたハッカ味はあの日よりも美味しくて、ドロップスは7色じゃなくてよかったと思った。

3/26/2025, 6:03:43 AM

記憶、即ち思い出。
人の脳裏に張り付き、苦しめるものである。

あの頃は良かった、とか、あの人にもう一度会いたい、とか、そんなものは結局全て過去だ。今まで一度も望んだ未来が訪れたことはなかったし、全てが空想であり、そんな重苦しい色をした記憶だけが脳の体積を埋めていく。

幸せを感じた時、私は同時に悲しくなる。
この時間の記憶はやがて私を苦しめる。幸せなんて知らない方が幸せだからだ。だから私に幸せをくれた人たちはもれなく私を不幸にする存在になっているし、そうでなくても私を過去に縛り付ける。

しかし人とは愚かなもので、傷すら癒えていくのだ。レジリエンスという言葉がある。どんなに辛い状況下に置かれても強い憎しみを持っても、いずれは回復する能力のことらしい。それはとても素敵なことのように聞こえるが、逆に言えば忘れてしまうのだ。幸せのあとに待ち受ける苦しみにも適応し、また幸せを求めてそしてそれ故に傷つく。あまりにも滑稽である。

そんなことを思っていると、きみは私に「どうしたの?」と問う。ううん、なんでもないと笑い、次に会えた時には桜が見たいと私は言った。
桜はいずれ散ってしまう。それまでにまたきみと会えるだろうか。

幸せは、悲しみよりも記憶に残る。だからこそ悲しみよりもタチが悪い。この瞬間の記憶が、来年も再来年も桜を見るたびに自分を呪うのだろうと呆れながら、「いいね」と笑うきみを見て、幸せだなと思った。

3/24/2025, 2:19:17 PM

大切な人の明日を信じられたことは、一度もない。

また明日、ほど保証のないものもないと思う。
人は日々生きていて、ひとりひとりにそれぞれの時間が流れていて、その中で終わる命もあるのに。人はどうして明日も会えるだなんて簡単に信じられるのだろう。きっと愛する人の明日を信じるのが正解で、3時間後には生きていないかもしれない、と思う私はきっと頭がおかしいのだ。

昔から何かに執着して生きていた。
服、音楽、友達、恋人。
しっかりと認められた状態でなにかを愛していないと、生きていけなかった。

そんな私の人生にも、6ヶ月間だけなにもない時間があった。

何にも縛られず、愛さず、依存しない日々は全てから解放されたようで、ああ、こんなにも羽が生えたような気分で生きていけることがあるんだなと思った。
だけど私はその期間、全ての気持ちを飲み込んでいたように思う。愛さないということは、きっと私にとって全ての気持ちをぼかすということだった。
25年というまだ短い、そしてこの先長い人生だが、きっともう何も愛さない時間はもう二度と訪れないと思う。
あの時間には羽が生えていたけれど、私にはその羽で、一人で空を飛ぶ力はなかったのだ。

だから私は今日も、愛する人に手を振るたびに、着信の切れる音を聞くたびに、心の中身を覗くたびに、思う。

もう二度とないのかもしれないのに、私はどんな顔でどんな声で笑えばいいのだろう。

3/23/2025, 3:08:05 PM

3/23日。
今日の天気、曇り。

曇り空を見ると、心がざわめく。
晴れた空を見上げたところで元気が出るようなことはないのに、なんだか釣り合いが取れないというか、おかしな世界だなと空を見上げながら私は思った。
雨が降るかもしれないから、と朝のニュースで天気予報で確認したのに折りたたみ傘を忘れてしまったので、できれば雨は降らないでほしい。

昨日はあまりいい日ではなかった。だからあまり寝付けなかったし、今朝も気分が良くなかった。人の心というのは難解で、些細なことを喜べる日もあれば逆に同じ出来事でも過敏に悲しみに満ちてしまう日もある。
昨日に引き続き、今日は全てが哀しく見える日だ。

駅前のレストランで昼食を取る家族、犬の散歩をしているおじいさん、公園で遊ぶ子供達。全員が穏やかな顔をしているのに、それが私はすごく悲しい。心が俯いている日は、人の幸せが喜べない。そしてまたその事実に悲しみは追い討ちをかけられる。どうしてそんなことすら上手くできない人間になってしまったのだろう、と。

頬に冷たさを感じた、雨だ。
天気予報は正確だったらしい。小降りのうちに用を済ませて帰宅しようと自然と足早になる。しかし雨足はどんどんと強まり、道ゆく人たちの傘がまるで花のように咲いていく。二人で一つの傘を分け合う学生を見て、またしてもすこし哀しくなった。

仕方がない。近くにあったコンビニに入り、ビニール傘を買う。こうやって傘は増える。せっかくなら可愛い雑貨屋のものを買おうかと思ったけど今日は臨時休業らしい。コンビニの傘は、なんだか妙に大きくて開く時にバサっと音がする。私は可愛くもない、無愛想なただの透明の傘をさしながら歩き出した。

雨が傘を叩く音が耳に届き、ふとその音の方に顔をやるとビニール傘の表面にしずくがもの凄い勢いで降り注いでいる。水滴となるものから地面へとこぼれ落ちるものもある。ビニール傘を使ったことは何度もあるので、それは見慣れたもので世界の当たり前のはずだった。
だけど今日は少し違った。全てが哀しく見えていた私にとって、雨の音が響き渡るこの傘の中だけはなんだかとても温かく感じた。

心が俯いている日は、人の幸せが喜べない。
だから、きっと雨と傘の関係に寄り添えたのかもしれない。

3/22/2025, 10:58:18 AM

きみの声で世界でいちばん聞きたくなかった言葉だった。
だった4文字でわたしの心臓を切り裂いて
ぐちゃぐちゃに掻き混ぜて火をつけられる。
わたしも真似て声に出したけど、
きっとその中身には酷く違いがあっただろう。

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