下品、絶対に叫びません。
幼稚園に入園する少し前に引越した家の、本当に目の前くらいに空き地があって、
広さは家10軒分くらい。そこには多種多様な雑草が生えていて、魚を採る網がひと塊、無造作に放置されていた。
魚取りの網と言っても、小さな家1軒分くらいの体積がある。子供たちはそこに集まって、マットやトランポリン代わりに使って、空宙回転したり「ライダーキィーック!!」なんて叫びながら飛んでいた。
畳んだ網の上なので、頭から落ちてもボヨンボヨンして、ぜんぜん痛くなかった(海からかなり離れた空き地だったのだが)(後に網の持ち主から厳重注意があって、更に網は撤去された)。
雑草には沢山の虫が棲息しており、各種のバッタ、コオロギは幼稚園児の私の恰好の獲物となっていた。
そういう中、モンシロチョウはふわふわと良く飛んで来たが、当たり前過ぎて何とも思わなかった。
モンシロチョウは飛ぶ速度も遅いし、捕虫網があれば簡単に捕まえられるが、野球帽でも捕まえられるし(なんなら手掴みでも)、要するにあまりにも珍しくなく、簡単過ぎて、獲物としての対象にならなかったのである。
改めて見れば、シンプルで、可憐で、美しい。その羽根の白は太陽光を受けて輝き、草のグリーンに1番良く映える。
でも食指は動かなかった。もっと珍しいものでないと。アゲハやクロアゲハ、クワガタやオニヤンマも時々飛んで来たのだから。
当時の実家のすぐ近くには、その空き地があり、私はそこを「野原」と呼んでいた。
野原を突っ切って、更にまっすぐ歩くと小川が流れていて、さらに進むと牧場があり、牛がいて牛乳を生産していた。
私は『ファーブル昆虫記』を読んでいたが、牛の糞にはそれに集る甲虫も見かけられた。
小川に入って、ザルで闇雲に泥をさらうと、イトヨ(トゲウオ)が入った。それはすぐ後に天然記念物に指定されてしまった。
「野原」を表側とすると、裏手には高校のグランドが何面もあってそこでも野球などして遊んだが、グランドを良く見れば無数の小さな穴が開いていて、それはハンミョウの幼虫の巣なのであった。
朝、グランドに行くとカッコウが良く鳴いていた。雉も見た事がある。
グランドから少しそれれば林があった。クワガタ、セミなどはそこで捕まえた。ここにも細々とした水が流れていて、そこにはトビケラの幼虫が沢山いた。
自分が入る筒状の巣を作り、枯葉や小石(砂)で美しい巣を作るのだが、彼等が澄んだ水の中をゆっくりと動く様は、まるで万華鏡を覗いたように幻想的で、彼らが妖精のように思えた。
後に自転車に乗るようになれば、本格的に魚を釣れる川もあり、池もあった。もちろんトンボもミズカマキリもゲンゴロウもいた。
こんなに恵まれた環境だったが、誰も彼もが私のように昆虫少年になった訳ではない、そう呼べるのは、多分、クラスに1人か2人いるくらいで、大抵の男の子は野球を中心とした遊び方だった。
このような環境では、モンシロチョウが居ても目に入らなかったと言っても仕方あるまい。学校の教材にもなった気がするが、当たり前過ぎて今さら習う事は何もなかった。
けれど、私は運が良かったのか?トゲウオが採れたと言ったが、後に天然記念物になったのは、子供が採りすぎたせいでは、ない。
当時、行き過ぎた護岸工事が始まって、川がすべてコンクリートで固められてしまったから、環境が激変してトゲウオが絶滅に瀕したのである。
道路も、どんどんアスファルトで固められてしまった。
牧場も、小5くらいの時閉鎖され、後に整備され普通の住宅地になった。
手塚治虫の作品では環境破壊や、自然保護を訴えているものも見られるが、私の子供の頃に自然は無造作に整備されて、かなり失われてしまった。
モンシロチョウは、今年も何度か見かけた覚えがある。
これが「珍しい」だなんて言われる時代が来ない事を願っている。
絨毯の細かい目に溜まった埃のように、たくさんの記憶が溜まりに溜まっている、
というのが、私の抱いている記憶のイメージである。
それらは、普段は忘れているけど、どうかすると、ふと思い出してしまう、とても鮮明に。
先日ここに書いた、中学時代に異性の先輩と相合傘をした話など、
他人からしたら、なんのハプニングも起こらないし、変化球もないストレートボールで、
「金返せ!!」「告れや!!」「押し倒さんかい!!」などと野次が飛んでもおかしくないのだが、
書いた当人にとっては、これでも珠玉のように美しい記憶なのである。
その時の記憶では、私はいつまでも中学生だし、たった1つ歳上の先輩が、すごく大人に見えているのだ。
21歳か22歳の時、映画『マルサの女』が公開された。たまたまその日は「成人の日」に重なったのだろう、
伊丹十三監督が1人で舞台挨拶に現れて、作品については一切触れず、何故だか成人に向けたスピーチみたいな話をし出した。
たまたま私は若かったが、劇場(シアターアプル)の観客の年齢は様々だったのに。
伊丹十三は、映画監督の伊丹万作の息子である。
万作の家には多種多様な人が頻繁に訪れたが、ある日、学生服を着た青年数人がやって来て、十三の母は彼らにご馳走を振舞ったという。
当時は戦争真っ只中、戦局は悪い方へ悪い方へと傾いて、如何に万作の家でも贅沢な物は口に入らなかったのに、伊丹家では、たぶん精一杯のもてなしをしたのである。
十三は訳が分からなかったが、彼らのお相伴をし、しばらくは遊び、やがて彼らは礼を述べ、爽やかに帰って行ったという、
後で分かった事だが、その青年達は
神風特別攻撃隊のパイロット達だったそうで、
出陣前にせめてもの慰労をしたという事情だった。
だから、その時の青年達はすごく立派に大人びていたけれど、本当はかなり若かった筈なのである。
舞台挨拶をする監督は「自分はいま55歳ですが」当時の青年達を思い出す時、彼らが子供だったとは、到底思えない、55歳の私よりも、ずっと彼らの方が大人に感じてしまうのです。
と語っていた。
『マルサの女』と本当に関係のない、そんな話をして、伊丹十三はまた何処かの劇場へ向かった。
監督の深いシワを私はかなり至近距離で見ていた。
そして、この話をする私も、いつの間にか、当時の監督の年齢を越えてしまった。
到底、彼が私よりも年下とは思えない。たぶん、私が80歳になっても、伊丹十三のイメージは、
いつまでも私よりずっと上なのだろう。
「桃栗三年柿八年」という諺がある。
何かの結果を出すには、早くても2年、3年くらい待たなくてはならないのだと戒めたものだろう。
その続きには「梅はすいすい十三年、柚子の大馬鹿十八年、林檎にこにこ二十五年、銀杏のきちがい三十年」なんてのもあって、どこかで聞いた事がある。
でも、覚える必要はない。多分ゴロが良いから調子に乗って誰かが付け足したのだろう、意味はないのだ。だいたい柚子も林檎もそんなに長くはかからないらしい。
私の経験を話せば、
商売で見事に失敗したのだが、ついウカウカと7年も粘って、傷口を拡げてしまった。
1年くらいでは、物事の判断ははや過ぎるが、3年もやってダメだと思ったら、方向転換を考えるべきだと思う。
この諺は、その戒めでもあるだろう。
そう、粘れば成功する保証はどこにもないのだから、自分を疑う事も大切だ。来た道を引き返す勇気も必要なのである。
これに似て、「石の上にも三年」というのもある。
由来は、インドのバリシバ尊者という人が、80歳から出家して、3年石の上で座禅を組んで悟りを開いた逸話から来ているそうだ。
間違ってはいけない、彼は3年間もずっと座り続けたのである。その間は横になって寝た事はなかったそうだ。
因みに、私も商売していた7年の間働き通した。もちろん寝る時間はあったが、充分とは言えなかった。ひと月休まない事はザラにあった。
3ヶ月間1日も休まないで働いた事もある。その間読書も、映画も、旅行も、楽しむ時間は無かった。・・・・でも、結局は失敗に終わってしまうのである。
私は今月から通信教育を始める。これは最速でも卒業までに4年かかるのである。
もしかして、ここへの投稿も毎日出来なくなるかも知れないが、なるべく続けたいと思ってはいる。
だが、何教科もあって、正直どうなる事やら分からない。
一年後の事なんか考えちゃいないのである。
4年、5年先を計算しているのだ。
小1の頃、好きだった娘はいた。名前も今でも覚えてる。漢字で書ける。
けど、それは何となく自分で思い込んでいただけで、何のアクションもとらなかったし、想い焦がれて煩悶した、などという記憶もない。
これは昭和40年代1965~74年くらいの話となるが、我が家では父母から一切の性教育を受けた覚えがない。(他家の事情は知らない)
昭和のテレビ番組では、女性の裸を結構見せていたし、濡れ場も大胆だった。茶の間で家族でテレビドラマを見ていて、そういうシーンになると気まずくなるという、シチュエーションはよくあった。
時々行く銭湯には、堂々と日活ロマンポルノのポスターも貼られていたと思う。
でも、私は性に関する知識がほとんどなかったのだ。そうと知ったのは、小6とか、中学に入ってからだった。
だから、女の子と話をした記憶すらほとんどなかった。奥手も奥手だった。
中学の時、私は水泳部に入った。水泳部は人気はなく、私を入れて男子6人、女子3人だった。
その女子の中の1人が、1学年上だったが、可愛くて、優しくて好きだったが、
それとても「いいよなー」と何歩も離れた所から見ていただけで、ほとんど話もしなかった。
ある日、部活が終わって帰えろうとすると雨が降って来て、
その先輩は傘を持っておらず、帰り道が同じだったので、図らずも相合傘で帰る事になったのである。
中学から家までの道のりは結構長いのであった。
しかし、先輩は静かな人だったし、私も年上の女性に提供する話題が見付からなくて、何も話せず、
それでも気まずいから、何かどうでもいい事を話したような気もするが、ほほ、お互いが無言で歩いていたのであった。
本当は嬉しくて、ドキドキしていたのだが、何もせず、家に送り届けて、絶好の機会は終わってしまった。
いや、絶好の機会も何も、もし間違って仲良くなれたとしても、当時の私では何も出来なかったから、
やっぱり関係は続かなかったと思う。
あれで良かったのだろう、奥手の男の子を哀れと思し召し、神様がくれた贈り物のような、青春の、貴重な一コマだった。