空気が張り詰めているような朝。冷気が肌を刺す。足元には霜柱。ザクザクと音を立てながら進む。
ふ、と空を見上げると、雲一つない青い空が広がっていた。空色が少し薄い。冬晴れである。
「コラ、そこ、何をよそ見している!」
すかさず怒鳴り声が上がる。よろよろと前を向いて進む。足に着けられた重りが重い。
捕らえられてここにきて、もう何ヶ月にもなる。あのころは台風がよくきていたのに、今は冬空になってしまった。
「鉄道を作るんだと」
同じく囚人の仲間が教えてくれた。針葉樹の広がる森を、ひたすら開拓している。太い木を斬り倒し、岩がゴロゴロと混じる土を慣らす日々。
「なあ、逃げないか?」
囚人同士の会話は禁止されている。だが、監視の目が届かない場所では別だ。藪の中に入った一人一人を常に監視することはできない。
「逃げるって、どうやって」
宿舎では監視の目が鋭いし、周りは原生林が広がるし、だいたい足に繋がれているこの鎖は外せない。
「藪の中では目が届かないだろ。この隙にそっと抜け出すのさ。足は、ほら、これで」
缶の切れ端。支給されたものを密かに隠していたという。
「ここ5日ほど同じところで作業してただろ。その間に、見張りの位置を確かめて、経路を見つけたんだ。お前もどうだ」
もちろん、こんな所からは一刻も早くおさらばしたい。だが、見つかったら半殺しにされてしまう。そうなると、解放される日まで生き残れるか不安だ。
だが。
「やる。俺も交ぜてくれ」
そうときまれば、と男は缶の切れ端を鎖に宛てがい、支給されている斧の刃の付け根を打ち付ける。二度、三度、五度ほど打ち付けて鎖が千切れた。
「味噌汁とかスープとか、支給されたものを少しずつ鎖に付けてたのさ。錆びないかって」
次は俺の番。今度は九度ほど打ち付けてようやく切れた。
藪に身を潜めて進む。森の中、開発しているルートと直角に進む。
「お前ら!」
見つかった!監視が声を上げると、男は俺を突き飛ばして転ばせた。そうして、自分は走った。
俺を誘ったのはこれが目的か。囮だ。
くそ、思い通りになるものかよ。
必死に立ち上がり、男を追う。凍った地面が滑る。
ようやく落ち着いた襟を掴み、思い切り引く。後頭部を打ち付けてのたうつ男を尻目に、走る。走る。
そうして辿り着いたのが山小屋だった。どのくらい走ったろうか。もう足が動かない。
扉を開けて中に入ると、暖炉に火がかけられていた。暖かい。久し振りに感じる暖かさだ。竈には大きな鍋がかけられていて、グツグツと音を立てている。美味そうな匂い、腹が鳴る。
フラフラと鍋に近づいたところ、扉を開けて入ってきた者がいた。大きな犬のような顔をした生き物だった。だが、二本足で立っている。
「これはこれは……お客様でしたかな?ようこそ」
流暢に話す。俺の国の言葉だ。どういうことだ。
「あの」と話そうとしたところで、思い切り腹が鳴った。
目を丸くした生き物は、すぐに微笑んで鍋の中のスープを出してくれた。
美味い。暖かい食べ物なんて、何ヶ月ぶりだろう。夢中で食べた。
一息いれていると、生き物が話しかけてきた。
「見たところ、どこかに捕らえられていたようですね。他の国の方のようだ。もしよろしければ私の手伝いをしていただけますか。お食事と寝るところ、服だって用意します」
通報されてもおかしくない状況だというのに、願ってもない条件を提示される。
話がうますぎないか、と疑念が過るが、提示された話を飲む以外に俺には道はない。
「なんの手伝いだ」
「なに、簡単です。あなたは私が外に出ている間、家の中の用事をしてくださるだけでいいのです。掃除して、食事を作って、暖炉に薪を焚べて。そうしていただくと、私の仕事も捗るので」
「仕事、とは、なんだ」
「大したものではありません。この国の在り方を変えようと思っているだけで。ただ、そうすると今までのように人間の皆さんだけの世界ではなくなってしまいますが」
驚いて生き物の顔を見る。穏やか笑みを浮かべるが、目の奥の表情は知れない。
「……いいだろう、手伝うよ」
どのみち、俺もこの国を変えようとして捕まったんだ。少し違う変え方だろうが、目的は同じだ。
囚人をあんな扱いする国なんて滅びてしまえ。少しはマトモになるだろう。
イブの夜
しんしんと雪が降り積もる。近くの街路樹には電飾が光り、行き交う人々のざわめきが響く。
今はクリスマスイブの夜だそうだ。
しかしその子犬には知る由もない。
ただただ寒さが体に滲みる。脂っこいが美味しそうな匂いのものが、いつもより多く捨てられているので辛うじて腹は膨れた。
フラフラと子犬がこの場所に辿り着いたのは3日ほど前のことである。このあたりには小さな飲食店が多い。烏やネズミ、猫やハクビシンといったライバルも多いが、餌には困らない。たどり着いた当初よりは少し身体もしっかりしてきたようだ。
これからどうするか。
他の場所に行っても今のように餌に不自由しない保証はない。この場所に逗まるか。
そう考え始めた矢先のクリスマスイブである。
「それにしても寒いなぁ」
子犬は呟いた。親や兄弟のことを探すのはとうに諦めている。乳離れしていたのは幸いだった。
空腹を感じたので、いつものように餌を探そう、と歩き始めた時だった。
「やい、お前。いつまでいる気だ」
隻眼の猫が話しかけてきた。大きな顔の大柄な雄の猫だった。
「なんであなたは犬の言葉が話せるのです?」
子犬が尋ねた。種の違う者同士は話ができない。体の構造が違うから発音が異なるし、なにより話す文法も全く違う。だがこの大猫は、子犬にもわかる言葉を話した。
「ふぅん、それがわかるのか。大したもんだな、お前」
大猫は少し面白そうな目で子犬の値踏みを始めた。
「賢い奴は好きだぜ。生き抜く力が持てる。着いて来な」
大猫が歩き始めた。子犬も後を着ける。どのみちこのままだと後の生命も保証はないし、逗まる意味も特にない。なにより、子犬は出会ったばかりのこの大猫が、なぜだか信頼に足るものだと感じていた。
なぜそんなことを感じたのかはわからない。
大猫は店の裏道を通り抜け、塀を歩き、空き地を貫いた。子犬にとっては少し難しい行程だったが、なんとか着いて行った。
やがて、二匹は広場に着いた。周囲の木々にはキラキラとした電飾が施された、眩しさに目眩を起こしかけた。
子犬は、その中心に人間がいることに気が付いた。あの大猫は人間の側にいた。
人間は子犬にとって危険な存在だった。見つかると追い回され、危うく捕まりそうになったこともある。身を捩って暴れ、その時には逃げおおせた。
だが今向き合っている人間には、不思議と危険は感じなかった。それよりも生きているものかどうかすら危うかった。人間が放つ匂いが感じられない。
人間の周りには他にも色々な動物がいた。見たことがある種類も、見たことがない種類もいた。
やがて人間は口を開いた。
「ようこそ、君たち。よく今まで生きてこられたね。今日は特別、プレゼントだ」
そう言ったかと思うと、あたりはさらに眩い光が広がっていった。
気付くと光の中だった。他の動物たちもいる。光の中で、子犬は幻を見た。山の中、知らない犬たちと共に駆けている。互いに鳴きかわし、匂いを嗅ぎ、喧嘩したりジャレたり怒られたりもしている。
こうあるべきだ、と体の底から思いが湧き上がる。僕はこうありたい。
やがて光が収縮した。元の広場の中心だった。電飾も動物たちも人間もかわらずいた。
動物たちは皆呆然としていた。
「君たち、希望を見ただろう。君たちならば可能だろう。今見た希望に向けて行きたまえ」
この人間も自分たちにわかる言葉で話している。子犬だけでなく、ここに集まっている様々な動物たちに向けて。果たして、言葉を話しているのか。そもそも本当に人間なのか。
「今日は私の産まれた日だからね。君たちにささやかなプレゼントだよ。グッドラック。メリークリスマス」
その後、犬は都市を抜けて森へ向かった。あの時見た幻想によく似た風景。山の中の野犬の群れに出会い、仲間入りした。仲間と共に狩りをし、遊び、群れの掟に従う日々。こうあるべきと願った通りに。
今でも森を駆けている。
踏み固められた土の道を通る。背中の荷物が重く感じてきた。足も痛い。ふぅ、とため息をついて、傍らの石に座り込んだ。水筒の水はぬるくて臭いが、しかたない。一息つく。懐の兵糧丸は、今は食べどきではないかもしれない。でも疲れたしなぁ……。
ふと漂う匂いに顔を上げる。わずかに風に混じるこの匂いは、醤油かな?わざわざ風に乗せる、ということは、客寄せ、つまり店だ。団子やかな。助かった。
よっこら、と重い腰をなんとか上げて、歩みを続ける。もう足が動かないと思っていたけど、少し進めば食べ物にありつけるとなると歩けるのは不思議だ。
つくづく人間の原動力は希望だ。
団子屋で水筒に水を入れてもらえるかもしれない。
僕の仕事は諜報である。市井に紛れて人々の様子を伺い、異常はないか、危険な行動はないか、藩の方針に逆らう動きがないか、を調べる。藩の舵取りに不満を持つ者は、その思いを訴える手段を考えるだろう。いざその行動に移す前には色々な兆候がある。噂だとか集まりだとか道具を揃えるだとか。その動きをいち早く察知して報告することが任務である。農民や町民にも言い分はあるだろう。だが彼らとは違う理屈で暮らす僕らにはその思いは今ひとつわからない。そんな僕らだからこそ、非情に彼らを取り締まれるのだそうだ。
そんなもんかね。
あの匂いはやはり団子屋だった。醤油の効いた甘辛いたれが美味い。熱い茶なんて何日ぶりだろう。水筒に水も入れてくれた。
ようやく一息つける。
他の客のおしゃべりに、つい自然に耳を向けてしまう。路の険しさ、家族の愚痴、名物の批評、子供の自慢、旅籠の質、女郎の良し悪し、などなど。
故郷の作付けについての話があると、つい聞き入ってしまう。良いか悪いか、悪ければどうするつもりか、どうしようと相談しているのか。
特に気になる兆候もなかったので、そろそろ出発しようと腰を浮かしかけた瞬間、ある話が耳に入った。
この間の梅雨時に大雨が降って川が増水し、畑が流れたというのだ。このままでは作物が採れない、なのに年貢はいつも通りだ、お代官には情けがないのか、といった会話だった。
果たしてどこの話か。会話の特徴、抑揚とか単語とかを手掛かりに探る。遠江か三河か、もしくは信州伊那の南か……確か今年の梅雨は、伊那の駒ヶ根で川が氾濫したと聞いた。もしかしたら。
だが、僕の管轄は関八州だ。伊那で一揆が起ころうが、むしろ藩主にとっては好都合だろう。山を越えるが、近くの藩が弱体化するのは良いことだ。
ふう、と空を見た。
ゆずの香りがした。ふと見上げると、ゆずがたわわに実っていた。
「ひょっとしたら、風邪をひいたのかもしれない」
僕が呟くと即座に
「んなわけないだろ」
と応える。
「だってさ、寒いよ?なんだか体が冷たくなったし」
「じゃあ俺も風邪かなぁ?」
もう一人が尋ねるが
「だからそんな事ありえないだろ」
と応える。
先日美術館に向かってるであろう人達が
「寒い寒い」「こんなに冷えちゃって」「風邪ひいたよ」などと口々に話していた。
(体が冷えると風邪をひくのか)と思って言ってみたのだが、違ってたらしい。
「じゃあ風邪ってなに?」
「しらないよ。ニンゲンのビョウキの一つだろ」
「じゃあ俺達もかかるかもしんないねぇ」
「かからないよ、ニンゲンじゃないから」
「僕達ニンゲンじゃないの?体はそっくりだよ?」
「じゃあ俺達はなんなんだよ」
「チョウコクだよ」
僕たちは美術館の前にいる。ずっといる。朝も昼も夜もいる。暑くても寒くても暖かくても雨でも。かれこれ百年近く前にオーギュスト・ロダンという人が作った彫刻の型から、僕らは作られた。生まれたときから三人だ。膝のあたりまで落した拳を三人で突きつけている。膝を曲げ、合わせた拳に目を向ける。自然と首は項垂れる。
僕の右隣はいつも冷静だ。現実を解き、事実を重んじる。
対して左隣はいつも陽気だ。なんでも思ったことを口にしては右隣に窘められる。
僕は……僕はなにも知らない。わからない。世界のことを知りたいとは思うのだが、こうして固定されているから周りのことしかわからない。聞いたことや起こったことで図ろうとするが、よく間違えるらしい。右隣に窘められる。
世界のことを知りたいのは他の二人も同じようで、左隣は「お、鳥が止まった」「なんか落ちてきた。木ノ実かな?」「虫がぶつかった」などと、自分に起こったことを呟いている。右隣はどうしてこんなに冷静でいられるのだろう。
「君は世界をどうやって知ろうとしているの?」
と尋ねると、右隣は
「考えているのさ。思考こそが世界を知る唯一の方法だ」
と応える。
考えるにしても材料が無いことには考えられない。
「僕はどうやって世界を知ればいいのだろう……」
思わず呟くと、
「お前、気づいていないのか?お前がそうやって色々知ろうとしているから、こいつは自分に起こったことを受け止めて、それを元に俺が考えているんだ。忘れたのか?俺達は三人で一つなんだ」
ああ、そうだった。僕が関心を外に広げているから、自分に起こったことを考えられるんだった。
僕達は今も美術館の前にいる。どうか皆さん、良い鑑賞を。
兎は雪を待っていた。近所の幼稚園児のためにそのお父さんが作った雪の兎。耳は大きな竹の葉で、目は公園のピラカンサスでできていた。鼻と口も雪を削ってできている。おかげで息ができるようになっていた。
雪は前日の夕方に振り始め、朝になる頃には止んでいた。雪が止むと途端に雲が去り、太陽が照らし始める。冬とは言え、太陽からの熱は容赦なく兎の体を溶かす。既に背中の形は崩れ始めていた。
「あ、おとしゃんの兎さん!」
兎を作ってもらった幼稚園児が駆け寄る。制服の上に暖かそうな上着を着ていた。寒さで鼻が赤い。兎を連れて登園しようとして説得され、トボトボと去っていった。
朝が過ぎ昼になると、さらに日差しは強まった。周りを覆っていた雪も溶け出し地面が顔を出し始めいた。兎の体も心做しか少し小さくなったようだ。
(ああ、これまでか)
せめてあの幼稚園児の帰りを待ちたかったが、段々体が溶けていく。
夕方が近付き、帰りの幼稚園児を迎えることはできたが、体の形は崩れ、一見して雪の山のようになっていた。
それでも兎は雪を待つ。そうすれば、あるいは元に戻れるかもしれない。
夕方になり、雲が広がってきた。日が落ちるころに降りはじめた雨は、夜になると雪に変わっていた。
しんしんと降る雪。
あれだけ待ち望んていた雪だが、兎は雨で溶けてしまっていた。
勤め先から帰る途中の父親が、兎だったものを手に取った。新しい雪を手で固め、耳だった竹の葉と目だったピラカンサスを再びつける。口と鼻も雪を削って作り上げた。
新たに作られた兎も、息をつけるようになった。
朝になれば、またあの幼稚園児に会えるだろう。それまでは、よい夜を。
雪を待つ