遠くの空へ
あの風に乗ればどこまでも行けるような気がした。
私の中の何かが、その先に行けと命ずる。
それに逆らうなんて考えたこともなかった。
翅を広げて風に乗せる。
風、というのは空気の塊だ。それがある時は海の方へ、またある時は山の方へ動く。
その塊の上側に翅を乗せると上手く翔べる、と気付いたのはつい最近のこと、それから夜が2回過ぎた。塊の上に乗せるように翅を当てると、風の勢いでどこまでも行ける。
まだそんなコツも掴めない、ようやく蛹から出てきた時には、風の塊のただ中に翅を置いてしまい、思わぬ方向に体が傾いてしまい、ホラ、翅の先がもう千切れているでしょう?少し欠けてしまった。
でも大丈夫。あの塊の上に、逆らわずに乗せることができれば、あの山の上の方にだって行けた。この翅でだって大丈夫。
私が育った近くとは違った花の蜜が吸えた。そうか、色々な所に行けば、もっと色々な花の蜜が吸えるのかもしれない。
それが目的というわけでもないけれど、楽しみはあった方がいいんじゃないかな。
あの、風、海の方に向かい、いつもより強い風。少しずつ暖かくなってきたと思うようになってから、風の勢いも強くなってきた気がする。
あっちの方向、ずっと遠く。遠くの空へ行けと私の中が命じている。
見るとチラホラと同じ仲間が風に乗っている。私も、行こうか。風に逆らわずに、翅を乗せて。
「さあ、捕まえたこのアサギマダラ、かなり長い距離を飛ぶことが知られています。こうやってマーキングすることで、次に捕まえた所で、この個体がどれだけ飛んだかが分かるというわけです。翅のこちら側に、標識コードと固体番号、反対側にも同じ標識コード・固体番号を記します。そっと、優しく、翅が傷つかないように……あれ、この個体、翅の先が少し欠けていますね。多少このように翅が損傷していても、風を上手に掴むと、2500キロまで移動する個体もいるんですよ。台帳に記録を付けたら、放してあげましょう。さて、どこまで行くのかな」
君が見た景色
「僕には友達がいて、とてもいい奴なんだけど、この頃なんか、僕に向ける態度というか、なんかヘンなんだよね、よそよそしいというか、刺々しいというか、僕、彼になんかしちゃったのかなあと悩んでいたんだけど、でも考えてもわからないよなあって、気にしないようにすることにしたんだよね、それで今朝彼に会った時に、いつも通り、やあ、って声をかけたんだけど、彼、ちらっとこっち見てすぐ目を逸らしたんだよね、見たから僕の声は聞こえてるんだと思うんだけど、ねぇ、彼どうしちゃったのかな」
「そういうのは友達に聞くもんじゃないのかい?」
「そうなのかな、でも僕友達って彼だけなんだよね、彼に彼のことを聞くの?彼はどうしたんだと思う?って」
「いや、彼はどうしたんだと思う、って……本人なんだから、君はどうしたの?って聞くといいと思うんだけど」
「あ、そうか、君は賢いね、どうしてそんなことわかるの?」
「うん、いや、ありがとう。でも今は講義中だから黙ってたほうが良いと思うよ」
教授の視線が刺さる。どうしてこの席に座ってしまったのだろうか。
前川は変わった奴だった。明るくて愛想は良いんだけど、誰彼構わずああやって話しかけてくる。話し始めると自分のことばかりで、相手の話なんか聞いちゃいない。
俺なんてオリエンテーションで話しただけなんだぜ?それも通学に使う電車が遅れた手続きを教えただけなのに。なんでこんなこと相談してくるんだよ。
橋本もよく付き合うよなと眺めてたけど、やっぱりね。
「聞いてみようと思って話しかけたんだけど、何も言わずに睨みつけるだけで行っちゃったんだよね……」
前川が報告してきた。珍しく悄気ている。
だからなんで俺なんだ。
「そうか、もう彼のことは諦めて、話しかけないほうがいいんじやないか」
「でも、僕、他に友達がいないから、どうしたらいいのかな、君、僕の友達にならない?」
冗談じゃない。
「いや、俺はそういうのはちょっと……」
「僕は誰と話したらいいんだろう」
いや、今俺と話してるじゃん、と、口に出す前に抑えられた。下手に応えて友達認定されたら面倒だ。
「他の奴に話してみなよ。話が合う奴を見つけられるかもしれないよ」
いたら、のはなしだけどな。
「僕もそう思って、色々な人に話しかけていたんだけど、最初は聞いてくれるんだけど、そのうちなんだか素っ気なくなっちゃって、もう他にいないんだよ」
え、他にって、もしかしてこれは手遅れなのでは。
「他の専攻の奴とかさ、先輩とか、いるじゃん色々。話しかけてきなよ」
「たまに怒られちゃうんだよ、どうしたんだろ、みんなそうなんだ」
そうだろうな。みんなそんな他人のどうでもいい話なんて、そうそう聞きたいとは思わない。
橋本はなんだってこんな奴とつるんでいたんだろう。
「橋本と友達になったのって、いつ?」
「彼と友達になったのは……いつだろう、僕が話しかけて、一緒にいて、いつも僕の話を聞いてくれて」
「なあ、自分のことじゃなくて相手の話も聞こうよ。相手が答えやすい内容のことを話すとかさ」
「答えやすい?君はどういうことが答えやすいの?」
「たとえばさ、天気の話とか、好きなアーティストは誰なの?って聞いたりさ、帰り道のカフェについてとかさ」
「じゃあじゃあ、帰り道のカフェってさ」
「そうじゃなくて、君自身相手のどんなことに興味があるのか、ってことだよ」
「それは、ええと、好きなアーティストって誰?」
「いやだから、そうじゃなく」
橋本もみんなも、どうしてこいつの相手をしてくれないんだ。俺にばかり来るようになっちゃってるじゃん。
……あ、そうか、橋本。
「これが……君が見た景色だったんだね……」
「ああ、そうさ。思い知ったか。」
いつの間にか橋本が、俺の後ろに立っていた。
まだ見ぬ世界へ!
僕の父さんと母さんがなかなか餌をくれなくなって何日後か。
もういよいよお腹が空いて仕方がなくなった。
たまに、父さんや母さんが近くまで来る。しかしこれまでみたく、直接巣までは来てくれなくなった。きょうだいみんなで必死に呼ぶのだけど、近くの枝だとか空中の線だとかに止まるばかり。わざわざ僕らに見えやすいところに。
もう限界だ、と僕らのうちの一羽が呟いた。一番最初に卵から出た、と聞いている。
羽を広げ、ばさばさと揺らす。
少し浮いた。これは僕らもできる。
しかし彼は、そのまま脚で巣を蹴り、ついっ、と父さんがいる枝まで飛んだ。
飛んだ……。
僕らは息を飲んで見守った。
枝に、止まろうとしてなかなか止まれない。飛び方も分からないんだ、止まり方なんてもっと分からない。
やがてなんとか枝に止まり、父さんになにか鳴いた。巣にいるときと同じ鳴き方。すると、父さんがあいつに餌をやった。
僕らは分かった。あそこまで行くと、餌がもらえる。
僕らは本当にもう限界だった。
みんな、ばさばさと羽を広げ始めた。
つい、つい、と次々と巣を飛び出していく。
僕も、と羽を羽ばたかすが、体は浮くのだが、どうしても巣を蹴れない。
風に煽られないか、真っ直ぐ飛べるのか、上手く止まれなかったらどうなるんだ。
でも、限界だ。
思い切り巣を蹴る。ついっと、空を渡った。これが、飛ぶ。羽はもうすっかり風を掴んでいた。
枝に近づき脚を伸ばし、早すぎたか枝が掴めない。なんとかもう人羽ばたき、ようやく掴めた!
体が止まった。そこには母さんがいた。
「ようこそ、まだ見ぬ世界へ!」
もらった青虫は美味しかった。
待っていた。ついにこの時が来た。
もう来ないと思っていたのに、今こそ。
俺は手を伸ばした。
もう少し、もう少し手を伸ばせば届く。
届くのに。
長らく俺は工場に勤めていた。
職人とか、そういう立派なものではなく、誰でもできる、替えの利く仕事。
いわゆるライン工というやつだ。
決められた作業を決められた分だけやることを望まれる。レベルに至らなければ即クビだし、求められる以上のものをやってもいけない。淡々と来る日も同じ作業を同じ精度でこなす。そうしていれば、長く働ける。
勉強も運動も人並み以下の俺には似合いの仕事だ。仕事が続くだけマシというもの。
そう自分に言い聞かせていた。
そんな俺にも趣味はある。
仲間とバンドを組んでいる。工業高校の友達とか後輩とか、その知り合いとか。四人でハードロックを演奏している。俺はリードギター。演奏はコピーが主だけど、自分たちの持ち歌だって5つはある。ライブハウスなんか、そこそこ人は入るんだぜ。対バンとか単独ライブとか、そこそこ活動もして、名前もぼちぼち売れている。
たまに女の子なんかからもお誘いが来る。
そんな俺達に声がかかった。今度のBroooockのライブのバックをやらないか、というのだ。Broooockは俺らもよく出るライブハウスで演奏していたバンドだ。出始めたと思ったら、あれよあれよとメジャーデビューしていった。
そなバンドと俺達が。もしかしたらどこかのレーベルの目に留まるかもしれない。
俄然やる気になった。
それからの練習にはこれまでになく熱が入った。演奏のレベルも上がったんじゃないか?なんて話をしていた矢先に、
世界中で新しい感染症が広がったのだ。
人から人に感染する病気で、人類にはまだ免疫がない。よく効く薬と予防薬が出来るまでは、感染しないように人と人とを極力接触させないようにしないといけない。
ライブなんてもってのほかだ。
それどころか、外出さえもままならなくなった。
人々が余計な物を買わなくなり、物が売れなくなった。そうなると、企業も余計に生産することも無くなる。
その結果、俺の勤めていた工場が閉鎖された。
仕事もなく、ライブもなく、それどころかバンドのメンバーとの練習だってできやしない。
俺にできることはただ一つ。ひたすらギターを練習するのみだった。
やがて感染症の治療薬も出回り、予防薬も接種されるようになった。これまでの制限も解除され、少しずつ世界が元に戻ってきた。
これで、また、バンドの活動ができる。
そんな矢先、ボーカルの工藤が死んだとの連絡が入った。
感染症によるものではなく、酔って階段から落ちて、当たりどころが悪かったらしい。
俺達の曲は工藤が書いていた。あいつがいなくなったら、新しい曲がもう作れない。
そんななか、Broooockが解散するというニュースが飛び込んできた。感染症が蔓延する中でバンドのメンバー同士の意見が合わなくなり、これ以上は一緒にできないとのことだった。
そんなニュースを、俺はテレビで知った。
もう誰も、俺達との約束なんて覚えていなかったのだ。
バックバンドの話も自然に立ち消えたことを知った。
所詮、叶わぬ夢だったな。
俺は重い腰を上げ、職安へ行くために髪を切った。
花の香りと共に奴が来た。
背が高く黒い服、スラリと伸びた脚。
長い黒髪を風に靡かせて歩いてくる。
「やあ、待たせましたかな」
穏やかな低い声。だがその目は笑っていない。
「少しね。君もどうだい?」
椅子を差し、メニューを示す。
奴は音もなく椅子に座り、ウィスキーをオーダーした。
「それにしても、君、いつもに増して香りが濃いね」
奴が入店した途端、バーは花の香でむせ返った。
「これではせっかくのウィスキーも味が分からなくなる」
「悪いですね。季節なもので」
待ち合わせ場所を間違えたか……と少し後悔する。
お互い一杯呑んだあと、店を後にする。柴泊店は客足を遠のかしてしまいそうだ。マスターへの心付を多目にしておいた。
「話というのは他でもない」
歩きながら仕事の話をする。
「君の作品、あれ、一ヶ月後に締め切りでいいかな」
奴は驚いた顔でこちらを見た。身長差があるので見下されてしまう。
「いいのですか。てっきりもっと早いものだと」
「ああ、こちらにも都合があってね」
パーティーは一ヶ月後に決まった。どうしても参加してもらわなければならない人物たちの都合を合わせた結果であった。
「一ヶ月後…というと、春半ばですね。ええと……黄色を基準にするとバリエーションも増えられそうですが」
「それでいい」
その一ヶ月後、予定通りパーティーが開催された。卒業と入学を兼ねた祝いの催しだ。
主催は一族の子供たち。この春中学や高校、大学に入学する。彼らの休みやレジャーの都合上でスケジュールが決められていた。
会場には溢れるばかりの黄色い花。クロッカスや菜の花やチューリップや。奴が言うには、冷蔵や温室で管理をしたので多少の花期のズレを合わせられたという。
奴に近づく。
「ありがとうよ。おかげでいい式になりそうだよ」
「どういたしまして。またご依頼を承りますよ」
黒尽くめの花屋は穏やかに微笑んだ。