美しい
『う、つ、く、し、い、そ、……ら』
辿々しくく本を読む声。
『え、……が、お、……の、せ、い、と』
文字を指で辿りながら一音ずつ文字を読む。
『お、と、の……で、……る、え、……ほ、……ん』
真剣な表情で男が呟く。
『か、……み、……な、……り、……の、お、と』
……ふう、と息を吐く。空を見上げる。遠くで乾いた連続音が鳴る。
(今更こんなことしててもどうしようもないのはわかってるんだ)
支給された袋のなかに本が入っていた。子どもの、小学一年生の国語の教科書。使い古されたものらしく、端はささくれ、ページはよれ、所々鉛筆の落書きもされている。
だが、男にとっては文字を習うのに丁度良かった。
乾いた音が続く。
(やっと文字を少し読めるようになったんだけどな)
瓦礫の陰に身を潜めて、続きを読む。
『き、の、……ぼ、……り、……で、き、た』
『く、……る、……ま、……に、ち……ちゅ、う、い』
まだ、読むだけ。書けは、しない。
『け、……ん、……だ、…ま、……』
その時、風を切る音ともに隠れていた瓦礫の端が欠けた。咄嗟に身を屈める。それまで背を向けていた方向に頭を向けると、機関銃を構えた男が立っていた。
男は先に読んでいた文章を思い出していた。
『あ、か、……る、い、あ、さ、……ひ』
……美しい、そら
凍てつく鏡
「さむっ」
板垣京子は思わず呟いた。
『最低気温は-15℃、今季一番の寒さです』出かけに見ていた天気予報のアナウンサーの言葉を思い出していた。
外はまだまだ暗い。冬至から少し経ったとはいえ、日が昇るのは数時間は先だ。
校庭を眺めて一息つく。
水道のホースを伸ばし、蛇口を捻る。勢いよく迸る水を、均等にかかるように撒く。防寒服を着てホースの口からできる限り体を離しているが、それでも水飛沫がかかる。帽子も耳当ても手袋も着けているが、それでも掛かると冷たい。
いや、痛いと言ったほうが実感に近い。
(なんでこんなことをしてるんだろう、私)
板垣京子は音楽が専門である。音楽大学でピアノと声楽を学び、その技術を活かすために教員免許を取った。本当は演奏で生きていきたかった。
(あーあ、指がかじかんじゃう。ピアノ弾く前に温めなけりゃ、これは動かなくなるな)
暫く水を撒き、懐中電灯で校庭を確かめる。
やがて、車に乗り込んで帰っていった。
あくる朝、出勤すると、もう児童たちが登校していた。椅子を押したり、手を繋いだり、自立していたりと、思い思いに滑る子供たち。自分が担当する音楽の授業では聞こえないような笑い声が響く。笑顔が眩しい、と板垣京子は感じていた。
(まあ、この光景を見られただけ、良かったことだ)
ふと水道を見返した。バケツに氷が張ってある。
(凍てつく鏡みたいだな)と覗いた先には、満足そうな自分の顔が写っていた。
消えない灯り
横殴りの風。氷の礫が容赦なく身体を叩く。もう寒いとか、そういう次元ではない。痛い。足を踏み込む度にザクザクとした感触が伝わる。膝下まで埋まり、一歩歩くだけで体力が奪われる。辛うじて覆われた程度の顔を腕で覆う。腕越しで前を見ても、白いばかりで何もわからない。
降り積もった雪と降ってくる雪とで視界は真っ白である。
だが歩くしかない。一歩、また一歩と、雪から足を引き抜いて降ろし、また片方の足を雪から引き抜いては降ろす。疲れた。痛い。しかし休むわけにはいかない。
そうして進むうちに、視界の先で赤いチロチロと揺れるものが見えた。炎の動きだ。とすると、誰かがいるのかもしれない。あそこまで行けば、この疲労から解放される。
心做しか、雪から足を引き抜くのが楽になったような気がした。
ザク、ザクと氷と雪でできた地面に足を入れる。どれくらい経ったのだろう、そうしているうちに炎が段々大きく見えてきた。近付くと、それが二本の篝火だということがわかってきた。篝火の間を覗くと、宴会が繰り広げられていた。灯りに照らされた明るい宴会場。皆酒や食べ物を楽しみ、歓談している。フラフラと入ろう、とした時に、入り口で止められた。
「いらっしゃい。あらまぁ、そんな雪まみれで。取り敢えず身体の雪をお払いなさい」
見ると細長い顔の目の細い男のようだった。柔らかな口調で話す。
雪を払うと、男は目を丸くした。
「まぁまぁ、そんな格好でこんなところまで。さぞお疲れでしょう、席にお座りなさい」
促されるまま、空いた席に腰を降ろす。
長い食卓にズラリと料理が並ぶ。あちこちで湯気が立つ。美味しそうな匂い。その時初めて自分の腹が減ったことがわかった。ぐう、と腹が鳴る。目の前の料理に箸を伸ばした、時だった。
傍らから伸びた手に掴まれた。
厶、と睨むと、傍らの女が、無言で首を横に振る。その真剣な表情に、思わず我に返る。
そうだ、俺は吹雪の中を歩いていたんだった。あんなに酷かった雪も風もここでは吹いてない。宴会なのに誰も音を発していない。そういえば、あの灯りはあの風雪の中消えることもなかった。は、と周りを見ると、みな笑顔なのに言葉を発していない。傍らの女を振り返ると、そこは、ただ白い世界だった。
「ああ、良かった、わかりますか、もう大丈夫ですからね」
雪の中から引き出される。外が眩しい。力が出ない。
見上げた空が青かった。
冬の足音
ああ、逃げなくては、逃げなくては。隠れる場所はどこだ。物置の下、駄目だ。作業小屋の中、駄目だ。大きな木の洞の中、駄目だ。駄目だ、駄目だ、見つかってしまう。どうしたら、どうしたら。ああ、すぐそこまで来ている、捕まってしまう。まだだ、まだだ、まだ何も用意していない。
薪も割り終えていない、ストーブも用意していない、椎茸も柿も干しきれていない、食べ物だってまだ十分じゃないんだ。
ああ、それなのに、それなのに。
思えば休みすぎていたんだ。夏の暑さがあまりにも酷くて。秋になってもなかなか涼しくならなくて。ようやく涼しくなって人心地つくと思っていた矢先、もう来てしまうなんて。準備なんてまだまだだと怠っていた。
もう、間に合わない。
ずしん、ずしんと音が響く。向こうに見える山はもう白くなっている。このごろ家の周りの空気も冷たくなってきた。迂闊に吸い込むと鼻の奥が冷気に叩かれる。もう間に合わない、呑み込まれる。ずしん、ずしん。
冬の足音が響いてきた。
まってたの
ずっと座ってまってたの。だれかこないかな、って。でもだれもこなかった。
あたりまえだよね、やくそくもしていないんだもの。
でも、まってたの。だれかがきてくれるんじゃないかな、って。
まって、まって、ずっとまってて、ようやくきたの、あのひとが。
やさしかったあのひと。わたしの手をとってくれた。つめたい手をつつんでくれた。
あたたかかった、あのひとの手。
うでもくんだの。ぎゅっとくっついて。あのひとは歩みをあわせてくれていた。
いっしょにお食事もしたの。いったこともない、すてきな夜景。おいしいお食事。はじめてのんだ、おさけ。
ずっとやさしかった。いつもわらっていた。わたしのかおをながめて、ほほえんでくれた。
でも、もうおしまい。だってあのひと、行っちゃうんだもの。行っちゃおうとしちゃうんだもの。もうこないって、わかってしまったから。
でも、もうだいじょうぶ。もう行かせない。どこにも行かせない。ずっといっしょよ。ずっとこのまま。