誰か
誰か いないか どうか 気付いてくれ 私は 間違っていた 望みなど 捨てるべきだったんだ 決して 不満なわけではなかった なのに なのに なんで
捨てるつもりは なかったんだ 仕事も あった 友達も いた 恋人も いた いた欲しかった いたのに
確かに 収入は 少なかった 買いたいと思っても やりたかったことも 諦めたものもある だが 生活するだけならば 十分だったんだ
欲しかった 物があったんだ こんなに欲しくなるなんて 初めてだったんだ フェンダーの エレキギター 本当に いい音だったんだ あの音で 私は 夢を みてしまったんだ
今までの 収入では 買えなかった 仕事は フルタイムだから ダブルワークは無理だった 働いたさ 働いたけど 足りなかった
だから あの男の 言うことを 聞いてしまった 何が 高収入だ 何が 簡単な仕事だ 何が スキマ時間だ 何が 君には才能があるだ
何が 行けなかったのか あの男を信じてしまった ことなのか あのギターの 音を聞いてしまったことなのか それとも 夢を見てしまったことなのか
仕事は、電話をかけることだった。用意された、台本を読んでさえすればよかった。何十軒電話しただろうか、百軒超えていただろうか。台本の内容なんて気にしていなかった。ガチャ切りされるのが常だったが、話を聞いてくれる時もあった。
優しそうな声だった。
部屋に閉じ込められ、スマホも免許証も保険証も取り上げられ、朝起こされ、昼食を取らされ、夕食を取らされ、寝るまで、ひたすらに、ひたすらに、電話をかけていた。
あの日、までは。
本日県内◯◯市の▲▲マンションで特殊流動型犯罪グループ、いわゆるトクリュウの拠点とみられるマンションが警察に摘発されました。室内では掛け子とみられる男女10人ほどがおり………
足音
は、と気がついて振り返った。
足音がする。
どういうことだ?
足音がしていたことに今気がついたのだ。それがおかしい、と。
足音がすること自体はすこしもおかしくない。ただし、普通の場所ならば。
いま僕は船の上にいる。1人用のプレジャーボート。明石池に船を浮かべて魚を釣ろうかと係留している。
つまりここは池の上である。
足音は、どこで鳴っている?船、はありえない。僕しか乗っていない。船の上には釣り具はあるが、ボートのトランザムボートに船外機がある単純な作り。船の上は全て見渡。せる。足音を立てるものなんてどう見てもいない。
ならば……池?たとえそうであっても、この足音はまるで板の間を歩いてくるようではないか。足音は大きくなってきている。どんどん近づいてきているらというこたか?それに伴い、足音のたびにカチャカチャと何かが硬い床に当たるような音も聞こえてくる。
池は霧で覆われていた。ようやく日が昇り、気温が上昇してくると、池からの水蒸気が増えてくる。海霧と同じ原理だろう。ここは池だけど。
ともかく、霧で視界もあまり効かない。静まり返った池の上で、足音だけが近づいてくる。
釣り糸がひかれ、竿がしなるが、それどころではない。僕は足音が聞こえる方から目が離せない。
やがて。
足音と共に、荒い息遣いまで聞こえてきた。ハッハッハッ、同時に匂いもしてくる。嗅ぎ覚えのある匂い、これは、どこで。
やがて霧の中から黒いものが飛び出した。その付け根の茶色っぽいものも。そう思うまもなく、ぬ、と顔が出てきた。
犬、それも、ロジャー!五年前に死んだ、レトリバーとコリーのミックス。タレ目と鋭いマズル。その頭をよく撫でていた。
驚くとか怖いとか、そういうことを感じる間もなく、僕は手を伸ばした。
マズルから額へ。額から耳の付け根へ。頭、首、肩。ああ、この感触。しばらく忘れていた感触が蘇る。
ひとしきり撫でて気が付く。ここは池の上だ。おい、ロジャー、お前、何処から来た?
ロジャーが顔を上げ、彼が来た方へ振り向く。ロジャーの頭越しに見ると、プレジャーボートとグッタリと倒れ込んでいる男。僕だ。
あれ、それじゃあ僕は、今いるこの僕は。
ロジャーは僕を振り返り、舌を出して息をする。ハッハッハッ。
ああそうか。お前が迎えに来てくれたんだな。一緒に行こう。
「この池はなあ、よく人がいなくなるんだよ、神隠しっていうの?子供の頃から、爺さんや婆さんに、あそこには近づくなって言われるんだけど、新しく来た人はしらないんだろうなあ……」
終わらない夏
青い空に入道雲が浮かぶ。アブラゼミの声が二重、三重に響く。照りつける太陽が肌をジリジリと焼く。偶に吹く風は熱気を運ぶだけだ。熱い空気が一瞬かき混ぜられ、また止む。上空だけでなく、足元のアスファルトからも反射された熱気が襲う。逃げ場のない暑さ。熱気だけならばまだ耐えられるが、息を吸うのも苦痛になるほどの湿度が辛い。
堪らず林の中に入り込むも、日差しから解放されるだけで熱気は変わらない。加えて待ち構えていた蚊からの猛攻撃を受ける。
痒さか暑さか。
なぜこんな選択を迫られなくてはいけないのだ、とふと見た足元に、小さな丸い石が設置されていた。赤ん坊の頭ぐらいの大きさだろうか、完全な球形ではないが歪んだ丸い石。その前には萎れた花と中身が蒸発した茶碗が供えてあった。
この石、さっきも見なかったか。
は、と気付いて見回してみる。右に迫る林地と左に広がる水田。林地に沿って右に左に蛇行するアスファルトの道。道に沿って上空を這う二本の電線、電柱、畦道。
畦道に乗り捨てられたあの白い車はさっきも見なかったか。
後ろを振り返ると、さっきまで歩いてきた道が延びている。左の林地に沿い蛇行するアスファルト、水田に青い空。
行く道も来た道も代わり映えのしない風景だが、この、人気のない道は何処から延び、何処へ続くのか?そうだ、僕はいつから歩いていたか?どこへ行くつもりだったのか?水分も食事も、いつから摂っていないのか?
暑さも忘れ、僕は恐怖の中にいた。
僕は誰か、どんな人間か、誰か僕を知った人はいるのか。
空を見上げると、二羽の鳥が黒い影を見せて飛んでいる。それよりも低いところにトンボが飛び交う。一足踏み出すと無数のバッタが水田に逃げ込む。道を横切る蜥蜴。アスファルトの割れ目。
何より暑い。蚊に噛まれたところが痒い。汗だって流れている。
僕は生きている。ならばここはどこだ。僕は誰だ。なぜこんなところにいるのか。このままこの道を進んでいいのか、戻るべきなのか。
僕は僕を見失ってしまい、すっかり立ち止まっている。汗が滴る。被っている帽子が辛うじて影を落とす。
とにかくここにいても仕方がない。道を進んでいたからには、このまま進もう。何かわかるかもしれない。
僕はそのまま道を進む。道に沿って右へ左へ。蛇行しながら進んでいく。
やがて空を見上げると、青い空に入道雲が浮かぶ。アブラゼミの声が二重、三重に響く。照りつける太陽が肌をジリジリと焼く。偶に吹く風は熱気を運ぶだけだ。熱い空気が一瞬かき混ぜられ、また止む。上空だけでなく、足元のアスファルトからも反射された熱気が襲う。逃げ場のない暑さ。熱気だけならばまだ耐えられるが、息を吸うのも苦痛になるほどの湿度が辛い。
終わらない夏の中にいつまでもいる。
遠くの空へ
あの風に乗ればどこまでも行けるような気がした。
私の中の何かが、その先に行けと命ずる。
それに逆らうなんて考えたこともなかった。
翅を広げて風に乗せる。
風、というのは空気の塊だ。それがある時は海の方へ、またある時は山の方へ動く。
その塊の上側に翅を乗せると上手く翔べる、と気付いたのはつい最近のこと、それから夜が2回過ぎた。塊の上に乗せるように翅を当てると、風の勢いでどこまでも行ける。
まだそんなコツも掴めない、ようやく蛹から出てきた時には、風の塊のただ中に翅を置いてしまい、思わぬ方向に体が傾いてしまい、ホラ、翅の先がもう千切れているでしょう?少し欠けてしまった。
でも大丈夫。あの塊の上に、逆らわずに乗せることができれば、あの山の上の方にだって行けた。この翅でだって大丈夫。
私が育った近くとは違った花の蜜が吸えた。そうか、色々な所に行けば、もっと色々な花の蜜が吸えるのかもしれない。
それが目的というわけでもないけれど、楽しみはあった方がいいんじゃないかな。
あの、風、海の方に向かい、いつもより強い風。少しずつ暖かくなってきたと思うようになってから、風の勢いも強くなってきた気がする。
あっちの方向、ずっと遠く。遠くの空へ行けと私の中が命じている。
見るとチラホラと同じ仲間が風に乗っている。私も、行こうか。風に逆らわずに、翅を乗せて。
「さあ、捕まえたこのアサギマダラ、かなり長い距離を飛ぶことが知られています。こうやってマーキングすることで、次に捕まえた所で、この個体がどれだけ飛んだかが分かるというわけです。翅のこちら側に、標識コードと固体番号、反対側にも同じ標識コード・固体番号を記します。そっと、優しく、翅が傷つかないように……あれ、この個体、翅の先が少し欠けていますね。多少このように翅が損傷していても、風を上手に掴むと、2500キロまで移動する個体もいるんですよ。台帳に記録を付けたら、放してあげましょう。さて、どこまで行くのかな」
君が見た景色
「僕には友達がいて、とてもいい奴なんだけど、この頃なんか、僕に向ける態度というか、なんかヘンなんだよね、よそよそしいというか、刺々しいというか、僕、彼になんかしちゃったのかなあと悩んでいたんだけど、でも考えてもわからないよなあって、気にしないようにすることにしたんだよね、それで今朝彼に会った時に、いつも通り、やあ、って声をかけたんだけど、彼、ちらっとこっち見てすぐ目を逸らしたんだよね、見たから僕の声は聞こえてるんだと思うんだけど、ねぇ、彼どうしちゃったのかな」
「そういうのは友達に聞くもんじゃないのかい?」
「そうなのかな、でも僕友達って彼だけなんだよね、彼に彼のことを聞くの?彼はどうしたんだと思う?って」
「いや、彼はどうしたんだと思う、って……本人なんだから、君はどうしたの?って聞くといいと思うんだけど」
「あ、そうか、君は賢いね、どうしてそんなことわかるの?」
「うん、いや、ありがとう。でも今は講義中だから黙ってたほうが良いと思うよ」
教授の視線が刺さる。どうしてこの席に座ってしまったのだろうか。
前川は変わった奴だった。明るくて愛想は良いんだけど、誰彼構わずああやって話しかけてくる。話し始めると自分のことばかりで、相手の話なんか聞いちゃいない。
俺なんてオリエンテーションで話しただけなんだぜ?それも通学に使う電車が遅れた手続きを教えただけなのに。なんでこんなこと相談してくるんだよ。
橋本もよく付き合うよなと眺めてたけど、やっぱりね。
「聞いてみようと思って話しかけたんだけど、何も言わずに睨みつけるだけで行っちゃったんだよね……」
前川が報告してきた。珍しく悄気ている。
だからなんで俺なんだ。
「そうか、もう彼のことは諦めて、話しかけないほうがいいんじやないか」
「でも、僕、他に友達がいないから、どうしたらいいのかな、君、僕の友達にならない?」
冗談じゃない。
「いや、俺はそういうのはちょっと……」
「僕は誰と話したらいいんだろう」
いや、今俺と話してるじゃん、と、口に出す前に抑えられた。下手に応えて友達認定されたら面倒だ。
「他の奴に話してみなよ。話が合う奴を見つけられるかもしれないよ」
いたら、のはなしだけどな。
「僕もそう思って、色々な人に話しかけていたんだけど、最初は聞いてくれるんだけど、そのうちなんだか素っ気なくなっちゃって、もう他にいないんだよ」
え、他にって、もしかしてこれは手遅れなのでは。
「他の専攻の奴とかさ、先輩とか、いるじゃん色々。話しかけてきなよ」
「たまに怒られちゃうんだよ、どうしたんだろ、みんなそうなんだ」
そうだろうな。みんなそんな他人のどうでもいい話なんて、そうそう聞きたいとは思わない。
橋本はなんだってこんな奴とつるんでいたんだろう。
「橋本と友達になったのって、いつ?」
「彼と友達になったのは……いつだろう、僕が話しかけて、一緒にいて、いつも僕の話を聞いてくれて」
「なあ、自分のことじゃなくて相手の話も聞こうよ。相手が答えやすい内容のことを話すとかさ」
「答えやすい?君はどういうことが答えやすいの?」
「たとえばさ、天気の話とか、好きなアーティストは誰なの?って聞いたりさ、帰り道のカフェについてとかさ」
「じゃあじゃあ、帰り道のカフェってさ」
「そうじゃなくて、君自身相手のどんなことに興味があるのか、ってことだよ」
「それは、ええと、好きなアーティストって誰?」
「いやだから、そうじゃなく」
橋本もみんなも、どうしてこいつの相手をしてくれないんだ。俺にばかり来るようになっちゃってるじゃん。
……あ、そうか、橋本。
「これが……君が見た景色だったんだね……」
「ああ、そうさ。思い知ったか。」
いつの間にか橋本が、俺の後ろに立っていた。