間が持たなくて口をつけた炭酸は、爽快さとは無縁なほどにぬるかった。思わず眉をひそめる僕の隣で、君は顔色一つ変えずにそれを飲み干した。
【ぬるい炭酸と無口な君と頼りない僕】
夏祭り。いつもと違う空間に、いつもなら話しかけないような関係値の同級生がいて、いつもと違う気分になって、声をかけてしまった。間違いだった。屋台で買ったサイダーはほとんど冷えていなくて、君の中で、これを奢った僕の好感度まで下がっていそうだ。
「……」
僕と話す気がないのか、元々無口なのか。君は飲み終わったサイダーの缶をぼんやり見つめている。僕は沈黙が怖くて、かといってこれといった話題もないから、手元のぬるい液体だけが生命線だ。
缶で口が塞がっているから。話したくないわけじゃないですよー。免罪符のように、少しずつ、少しずつ飲む。
「……」
君が、サイダーの缶を傾ける。もう中身なんて残っていないだろうそれを、ほとんど垂直に。そんな、最後の一滴まで飲み干したいようなものじゃないだろうに。
……ああ、違うか。君も、沈黙が怖いのか。そのくせ、サイダーを少し残しておく程度の狡猾さもないのか。君は強いから何も気にしていない、だなんて、僕の都合のいい思い込みじゃないか。
「かわいいね」
「……は?」
「今日の君は、かわいい。誰が何と言おうと」
「……楽しいはずの祭りの日に彼氏の浮気現場に出くわした、惨めな女でも?」
「うん、かわいい。かわいい」
ぬるいサイダーに縋りたくなるほどに僕の語彙は少なくて、でも、おいしくないからこれ以上はいらない。爽快さのない炭酸にも劣るような言葉でも、間を埋めることくらいはできる。
「……」
君はふわりと立ち上がった。やっぱり僕じゃ駄目だったか、これなら一人の方がマシだよな……と僕が思った直後、振り返って
「これ、バカぬるいね」
と、想像もしなかった乱暴な語彙が飛んでくる。
「お返しに、私がもう少しマシなもん奢ってあげる」
なんて笑ってくれるから、ぬるいサイダーでも君の心を埋められたのだろうか、なんて信じてみたくなる。
「何をしているんですか?」
僕が訊くと、
「失恋に蹴りをつけているんです」
会話をしたこともなかったクラスメイトは、紙切れの入った瓶を片手に言った。
【波にさらわれた手紙の行方】
「情けないと思いますか?」
君は自嘲気味に笑った。
「このボトルの中、お察しの通り、今日黒板に晒されていたものです」
泣きたそうな顔だった。
「ゴミ箱に捨てるには、思い入れがありすぎて。おかしいですよね。クラス中、学校中から笑われるきっかけになったものなのに」
君が瓶を持った手を振りかぶった。僕は何もできない。君がいじめ紛いの仕打ちを受けるのを、どうにもできなかったように。見ていることしかできない。
「……ずっとずっと海の向こうに行って、二度と、返ってこないでね」
瓶が君の手から離れる。どこか既視感がある光景だった。聞き覚えのある言葉だった。
君から誰かに向けたラブレターが晒されていた時、僕は心配より先に、悲しかったのだ。僕の気持ちは一方通行だと知って。なんて身勝手な話だろう。
「……えっ!?」
だから、海に向かって走った。波によって取り返しがつかなくなる前に、着衣のまま水面に潜って、死に物狂いで瓶を掴む。
「え、な、何して……」
僕には君の気持ちが分かる。……なんて言うとおこがましいけれど、僕も君が来る直前、同じことをしていた。だから、分かる。押しては返す波に、「好きだよ」の言葉に「好きだよ」を返してくれるような、そんな展開を期待してしまう気持ち。二度と返ってくるなと思いながら、報われることを望んでしまう気持ち。
「……こんなに綺麗なものが波なんかに取られるのは、もったいないでしょう」
僕のような身勝手な人間が海に放ったものなど、返ってこなくてもいい。けれど君は、愛した分だけ愛されるべき人だから。波が、駆け寄ってきた君の爪先を撫でた。
「8月って、一年で一番、会えない人に会いたくなる月だよね」
「この恐ろしい暑さの中で、よくそんな叙情的なことを考えられるね。絶対そんなロマンチックな月じゃないよ。暑くて死にかけるだけの月」
「そっかぁ」
――君がいなくなって初めての8月。彼女言葉の正しさを思い知る。
【恐ろしく暑い8月にこそ、近くの空の君に会いたい】
人生で初めて、精霊馬なんて作っちゃった。そんなことをしても、
「不器用だなあ、足の長さが揃ってないじゃん」
と笑ってくれる君もいないのに。……それでも。
「これじゃあ乗り心地が悪いじゃない。来年はもっとマシなのを頼むよ?」
と叱ってくれたら、なんて妄想してしまうのも、8月の魔力のせいなのかな。
「……それか、僕が迎えに行けたらな」
吸い込まれそうな太陽。今なら、何も特別なことをしなくても、外に立っているだけで君の元へ行けるだろう。
「……ああ、だから8月に会いたくなるのか。こんなに空が近いから」
本当に、君の言う通りだったな。
どく、どく。鋼鉄のように重くなった心臓が、周囲の血管を巻き込むみたいに強く、強く拍動する。
「……ああ、いい音」
僕の胸に耳を当てて、君はうっとりと呟いた。
【冷たくて熱い鼓動】
「……羨ましいな」
僕に密着したまま、君はぽつりと言った。
「にんげんの熱。にんげんの鼓動。私にはないもの。羨ましいなぁ」
そう言って僕と触れ合う君の胸は、だけど確かに熱を帯びていた。
「私の鼓動は、いつも硬くて、冷たくて。血液を模した冷たいオイルを機械的に流すだけ。氷みたいな作動音が、ずっとコンプレックスだった」
君――人間型アンドロイドM2778の胸にある、オイルを送り込む器官がオーバーヒートする。かたかたかた、機械的な作動音。人間のそれを超える体温。
「……最期に、貴方と同じになれて、嬉しい」
人は死ぬと冷たくなる。アンドロイドは、死ぬときに熱くなるらしい。君の熱い、熱い鼓動が冷えきった結末を引き連れて、密着した僕の体にまで響き渡っていた。
「僕、もう君無しじゃ生きていけないよ」
「情熱的だね」
「君は僕のオアシスだ」
「今まで君からもらった言葉の中で、一番嬉しいよ」
【オアシスが先か砂漠が先か】
「人は、水がないと生きていけない」
「そうだねえ」
「水も持たずに砂漠を歩いたら、人は簡単に死んでしまう」
「その通りだ」
「だから、人は砂漠に囲まれたオアシスから離れることはできない」
「離れなければ、砂漠で苦しい思いをしなくても生きていける」
「……僕、オアシスっていうのは、まず砂漠が先にあって、そこに地下水が噴き出したりして生まれるものだと思ってた」
「地理の難しい話はよくわからないけど、そうかもしれないね」
「でも、僕が迷い込んだオアシスは、元々森だったのかもしれない」
「……」
「最初は綺麗な森がどこまでも広がっていたはずなのに、気がついたら僕が今いる場所を除いて一面砂漠で、逃げ場がなくなってしまった」
「それは災難だね。でも、私だけはずっと君のオアシスでいるから大丈夫だよ」
「そう、君は僕のオアシス。だから僕はきっと、もうどこにも行けないね」
「どこにも行かなくていいんだよ」