今を生きるってなんだろう。過去の女性を思い出さないこと? 将来は天国に行きたいとか考えないこと?
【ちゃんと今を生きるから】
「君は、ちゃんと今を生きてね。過去や未来じゃなくて」
それが、君の遺言だった。最期の言葉になる、と直感した僕は、
「わかった、きっとそうする」
なんて安請け合いをしてしまったが、君を失った僕にとって、君がいた過去や君に会えるかもしれない未来と比べると、今はあまりに色褪せていて。過去でも、未来でもいいから、ここじゃないところに行きたいなぁなんて僕が考えることを見越して、君はあんな呪いじみた約束を最期の言葉に選んだのだろうか。
「……約束、守れなそう。ごめんね」
温度のない石の前で手を合わせる。いっそここで未来を断って、過去も今もない世界に行こうか。なんて思った瞬間、冷たい風。さあと足元の草花を揺らしながら吹き抜けていく。
『私、風が吹くときに服がぶわー! ってなるのが好き』
『風によって届く草木の匂いって、なんか神秘的な感じがするね』
『風って、世界から私たちへのメッセージみたいで素敵だと思わない?』
「……あ」
僕の「今」に、君が訪れた。よみがえってきた言葉はもちろん過去のものだけれど、僕がそれを思い出したのは間違いなく今だ。
――君との約束を守れば、今を生きれば、君はちゃんと会いに来てくれるのか。過去や未来に逃げたりせず、きちんと今と向き合って生きれば……。
「また来るよ」
生きてみよう、と思った。いつか、君と天国で過ごす未来が「今」になる、そのときまで。
「ありがとう、今日は100日に一度あるかどうかの特別な日だ」
僕が会いに行くと、君はいつも決まってそう言った。
【連日連夜spacial day!】
「君はいつも大げさだね。ここのところ毎日会っているじゃないか」
「そうだよ、だからここ最近は、毎日が特別な日だ。本当に、会いに来てくれてありがとう」
感情を盛っている様子はなく、心の底からそう思っているらしい口ぶり。僕は不思議な気持ちになる。
「……不老不死になると、そういう感覚になるものなの?」
「そうだよ。心から大切にしたい人が生きていてくれるのは、私の人生からすればほんの一瞬。私は人生全体の百分の一だって、大好きな人と過ごすことはできない」
寂しそうに、君は目を伏せる。君にとっては本当に、僕と過ごす毎日がかけがえのない、特別な日なんだ。改めて実感する。
「……君にとってはそうでも、僕にとっては日常だからなあ。たまには、僕も特別なことをして過ごしたい」
「例えば?」
「君と一緒に、人魚を探すとか」
僕が言うと、
「いいね、それ」
君はふわりと笑う。一生に一度見られるかどうかというくらい美しい微笑みを、毎日でも見ていたいな、と思う。
「君にとっての夏ってどんな季節?」
嵩ばかり多く見えるかき氷に挑む君に、ふとそんなことを訊いてみたくなった。
「一番かき氷がおいしいのに、一番かき氷が溶けるのが早い季節」
「食い意地の張った返答をどうもありがとう」
【夏が燃え尽きる頃のこと】
「……別に、食い意地だけで言ったわけじゃないよ」
「部分的に食い意地ではあるんだ」
しゃく! 細いストローのスプーン一杯で食べ進められる量はたかが知れていて、確かにこのままだと食べ終わる前に溶けてしまうだろう。
「アイスやかき氷がおいしい。代わりに、すぐ溶ける。すぐ溶けるような暑さだから、おいしい。かき氷の寿命が縮むような環境で、かき氷のおいしさを知る」
「かき氷の寿命とは」
「幸せという薪を燃やして、その温かさを知る。けれど私たちがそれを知るとき、薪は黒い燃えカスになってしまっている。夏って、たぶんそんな季節」
かき氷が溶けて液体となった部分に、提灯の光が降り注ぐ。
「……どういう意味」
「映画に、水族館。スポーツ観戦にプールに、夏祭り。こんなに一気にイベントをこなしてしまって、先はあるのかな」
「……」
「私たち、かき氷を楽しむ傍らで、かき氷の一番おいしい時間を消費してしまったんじゃないかな」
スピーカーからアナウンス。もうすぐ花火が上がるらしい。
「あーあ、やっぱり間に合わなかった」
ほとんど砂糖水になりかけたかき氷。捨てられる場所ないかな、と君が辺りを見回す。
「……それ、ちょうだい」
「え? ただの甘い液体だよ?」
「僕、そういうのも結構好きだよ」
返事も待たずに君の手から容器を奪い、一気に傾ける。まだ冷気の残ったそれが全身に染み渡るような感じがして、やっぱり、そう悪くないじゃないか。
遠くの空に、蝋燭を灯したみたいな花火の光。綺麗だな、と僕らが思う頃には、それは役割を終えている。
僕が君に隠していること:僕が君を愛していること。
君が僕に隠していること:僕が君を愛していることを知っていること。
【隠された真実は暴かずに】
僕にはわかる。君が好きだからわかる。君は僕じゃない別の誰かが好きで、これは僕の片想いで、君はなんにも知らないフリで、僕の気持ちを利用しようとしている。それが真実。隠しきれなかった真実。
「えっウソ、おごってくれるの? ありがとぉ。今月ほんとにピンチでさ、助かったよ」
ベッドに寝そべる裸の男女を、毛布が覆い隠している。その、盛り上がった毛布の形が好きだ。その下に、可愛い猫が寝ているかもしれない。そうでしょ、シュレディンガー。そう想像しながら、毛布の上っ面だけをそっと撫でる。
「こんなことでよければ、いつでも頼ってよ」
「えへへ、嬉しい」
君のへたくそな演技ごと君を愛していることも、間違いなく、隠し通すべき真実だ。
「あ、風鈴」
僕の家に遊びに来た君は、めざとくそれを見つけて言った。
【風鈴の音が聞きたくて】
縁側にぶら下がった風鈴の舌はほとんど垂直の状態から動こうとせず、そのせいかただでさえ不快なべとついた空気は余計に重苦しく感じられて、君はちょっとつまらなそうだった。
「ふーっ!」
「いや何してるの」
君の吐息に対し、風鈴は気まずそうにこつんと固いもの同士がぶつかるような音を立てた。
「違う! 風鈴ならりんと鳴れ! わかったら返事!」
「人ん家の風鈴に指導しないでよ……」
風なんかなくても、君の声は鈴を転がしたような音を通り越して鈴を振り回してるみたいに騒がしい。そして別に涼しくはない。ないけど、君がいれば風鈴なんてならなくてもいいかな、とも思っているよ。絶対言ってあげないけれど。
「あ、そうだ!」
何かを思い付いたような顔で、君は僕に断りもなく風鈴を取り外し、部屋の奥へと向かっていく。
「これでどうだっ!」
りんりんりんりんりんりんりんりん。
まるで、今まで口を開かせてもらえず溜まっていた鬱憤を全部ぶつけるみたいな、風流の欠片もない音。
振り返る。得意気な表情の君と、風鈴。それと、
「扇風機は、反則じゃない……?」
扇風機の前に掲げられた風鈴は依然としてりんりんと騒がしく鳴き喚いている。確かに音は鳴ったが、君はこれで本当にいいのか。
「んー涼しー。やっぱり風鈴の音ってすごいねぇ」
いいらしい。自分が扇風機の正面に立っていることを忘れているのか、髪を床と平行に靡かせながら君は笑う。
「わーれーわーれーはー、ちーきゅーうーじーんーだー」
りんりんりんりんりんりんりんりん。
「いつもの二倍うるさい……」
暑さが裸足で逃げ出しそうなうるささではあるが、風鈴の納涼効果ってそういうことじゃないと思う。
「今私のことうるさいって思ったでしょ」
「思ったんじゃなくて言ったんだよ。口の代わりに耳が退化したの?」
「言っとくけど、私がこんなに喋るの、君の前だけだからね」
室内に設置された扇風機はきっと、縁側での風鈴の様子を知らない。今目の前で絶え間なく音を響かせる姿だけが、彼が知る風鈴の姿だ。
「……風がなくて、オブジェにしかならない風鈴でも、僕は結構好きだよ」
「えっ遠回しに黙ってろって言われてる?」
「そうじゃないよ。人工の風を当ててまで音を出させるのは不自然で、風鈴の本意ではないかもしれない」
自分で言ってから、風鈴の本意ってなんだよ、と思う。彼女も面白かったのか、風に髪をもてあそばれながらくすくすと笑う。
「風鈴は音を出すために生まれてきたし、いろんな人に自分の音を聞いてほしいんだよ! まして、目の前にいるのが大好きな相手ならなおさら!」
それなら、風鈴は扇風機のことが大好きなんだなあ。あるいは、扇風機の方が風鈴の音を聞きたくて、張り切って風を吹かせてるとか。……なんて、馬鹿なことを思う。