付き合って一年の記念にプレゼントしようと、マグカップを一つ買った。
どうやら君も同じことを考えていたようで、テーブルの上にラッピングされたマグカップが二つ並んだ。
僕らは笑って、それを交換した。
【自己都合のマグカップ】
僕が買った飲み口の厚いマグカップでココアを飲む君が好きだった。両手でカップを包み込んで、その縁に小さな口をつける姿。その隣で、僕は君からもらったマグカップを片手で持ち、少し物足りない量のコーヒーを飲み干す。
幸福な時間だった。愛おしい時間だった。
今、この家にマグカップは一つしかない。
私は君の水分になりたいと、いつか君は言っていた。変なことを言うなあとあの時は聞き流したが、記念日にわざわざマグカップを買うあたり、僕も心のどこかで同じようなことを思っていたのかもしれない。
生きている限り喉は乾く。まして、思いっきり泣いた直後ならなおさら。
そのときに思い出してもらえるように、なんて無意識に考えていたのかもしれない。
あのときから、僕らは終わりに向かって歩いていたのかもしれない。
だってこの先も二人で生きていくつもりだったら、記念日のあの時、テーブルの上にマグカップは四つ並ぶべきだったのだ。
僕が君に買ったマグカップは小柄な君が扱いやすいようにもっと軽く、飲み口の薄いものであるべきだった。君が僕に買ったマグカップは僕が飲む量に合わせてもっと容量の多いものであるべきだった。
お互いに、相手に呪いを残すことしか――自分のことしか――考えていなかったのだ、結局。
僕ら二人、どっちにとっても使いやすいマグカップを二つ買って「これからもよろしくね」と言うだけで、回避できた程度の別れだったのではないか。
君と過ごした日々の残滓が両目から溢れて、だから僕は、今日も君からの呪いに手を付けるのだろう。
もしも君が天使だったら、君に追い付くために善行という善行を積むだろうな。
もしも君が死神だったら、僕の魂をあげるだろうな。
【ねえ、もしも君が……】
もしも君が蝶だったら、僕は君のためだけの花になりたいな。
もしも君が花だったら、僕は君を照らす一瞬の光になろうかな。
もしも君が泣いていたら、僕は黙って隣にいたい。
もしも君が困っていたら、僕は君の道具になろう。
もしも君が笑ってくれたら、僕は目をカメラにするつもりでその一瞬を焼き付けるよ。
もしも君が僕より先に死んだら、僕は残りの人生を人形として生きるだろうな。
もしも僕が君より先に死んだら、君の最期の瞬間に僕は寄り添えないってことになるから、それはすごく嫌だな。
もしも君と僕が同じタイミングで死んだら、「奇跡だね」ってあの世で笑い合いたい。
――もしも君が僕の恋人だったら、こんな他愛ない「もしも」を分かち合えたのだろうか。
「そう、それでさあ……あ」
休み時間、十分の刹那。友人との談笑に興じていた僕はしかし、彼らに「ごめん」と一声かけ、廊下へと駆け出した。
「あ、やっぱり君だった」
「待って、今足音だけで私だって判断して教室から出てきた?」
【僕だけが知る君だけのメロディ】
「だって君、足音わかりやすいじゃん。すごく独特のメロディを刻んでる」
「今までの人生で一度も言われたことないよ、それ」
なんてやり取りをそばで見ていた、恐らくは君の友人が「彼氏さん?」なんて笑い混じりに彼女に確認する。
「もぉー……。友達といるときは出てこないでよ、恥ずかしいじゃん」
「そんな思春期の娘みたいな態度を取られると、少し傷つくなあ。せっかく君の顔が見られる機会なんだから、教室くらい飛び出すでしょ」
「ぐぬぅ……。今度から君の教室の前だけ三三七拍子で歩こうかな」
「そんなリズミカルに歩いてる人がいたら、僕じゃなくても見に行くと思うけど」
斜め上の方法で問題の解決をはかろうとするところが可愛らしい。
「私、この子の足音なんて気にしたことないや。愛されてるんだね」
彼女の横にいた友人がそう言ってころころと笑う。鈴の音みたいに美しく響くそれはだけど、たぶん明日には忘れてしまうだろう音だ。
「私の足音を気にする奴がこの世に二人もいてたまるか。一人だって抱えきれないのに……」
君の言葉に、心の中で同意する。僕だけでいいのだ。君が奏でる旋律、その価値を知っているのは。
「思うに、選択にこそ人格が宿るんじゃないかな」
「何急に。持って回った言い方しちゃって」
「つまり僕は、君の人格を愛してるってことだ。イカの塩辛が好きな君が好きってこと」
君が、買い物かごに入れようとしていた塩辛をさっと背中に隠した。
【I love what you love.】
「隠すことないじゃん。僕は君のそういう、若い女性らしからぬ選択が好きだと主張してるんだ」
「いっそストレートにおっさん臭いって言ってよぉ……」
「別に、いわゆるおっさんと取る選択が類似しているのは重要じゃないよ。君の選択は、『好き』は唯一無二だ」
「……難しい言い回ししないで。よくわかんない」
「うーん……」
僕は少し考えて、続ける。
「チョコミントのチョコ抜きみたいなアイスを好んで食べる君が好き。昔大炎上した歌い手のことを今でも好きな君が好き。エメラルドゴキブリバチの話を目を輝かせながらするほど好きな君が好き」
「悪趣味としか言われたことないなあ……」
「君の『好き』をジグソーパズルみたいに全部集めて並べたら、その中心に空洞の君――君の型みたいなものが現れる。その輪郭が、好き」
淀みなく言いきってから君の表情をうかがう。君はちょっと困ったような、でも嫌がってはいなそうな顔をしていた。
「君も、私を形作る選択の……『好き』の一つだからね」
びっ、と人差し指を立てて、まるで啖呵を切るみたいに君は言った。
「……この趣味嗜好を持った人に好かれてるのかあ、僕」
「ちょっと! やっぱり君も悪趣味だと思ってるんじゃん!」
頬を膨らませる君の抗議を笑って受け流しながら、君が選んだ僕も持っているはずの、君の断片を思った。
雨音が、耳に手を沿えるみたいに優しく、さあっと僕らを包み込む。だから、
「嫌い」
って君の言葉は、聞こえなかったことにするね。
【雨音に包まれていたから】
「大嫌い、どっか行ってよ!」
「聞こえないなあ、雨音がうるさくて」
「うそつき。こんな小雨に、言葉を掻き消す力なんてないよ」
でも、言い訳くらいにはなる。
「泣かないでよ」
「泣いてないっ! 雨のせいだよ!」
「こんな小雨で、そんなに濡れるわけないでしょ」
「うるさいなあ! せっかく雨が降ってるんだから、言い訳くらいさせてよっ!」
なんだ、君だって雨を都合よく言い訳に使うんじゃないか。
「僕のために嘘なんてつかなくていいんだよ。君の本音を聞かせて」
「……私は」
――どこにも、行かないでほしい。
「……ごめん、やっぱ嘘。雨で聞こえなかったことにしてよ」
伝えるつもりでなかったことを言ってしまった、とばかりに、君は首を横に振った。
「無理だよ。こんな小雨に、言葉を掻き消す力なんてない」
「ずるい、さっきと言ってること違うじゃん」
「君こそね」
聞こえるけど聞こえない。聞こえないけど聞こえる。
僕らは、雨音の中ではいくらでも卑怯に、身勝手になれるのだ。それすらも全部、優しく包んでくれるから。