ぎゅう、と君に抱きすくめられる。誰よりも優しい君。誰よりも愛しい君。
――そんな君に抱きしめられるのが、僕は本当に嫌だった。
【棘ごとそっと包み込んで】
「なんで嫌そうな顔するの」
心を読んだみたいに、君は言う。
「……君が」
「ん?」
「君が僕にこうするのは、僕じゃなくて、世界のためじゃないか」
「どういうこと?」
僕のちょっと下で君の頭が動いて、首を傾げたのだとわかる。
「例えば、苦い薬をオブラートでそっと包み込むみたいに。例えば、飛び出た針金で怪我をしないよう、テープをぐるぐる巻くみたいに。君が僕にしているのは、つまりそういうことでしょ?」
オブラートで包んで飲めば、苦い薬は人間を害することができなくなる。棘だらけの僕を綿で包めば、僕は世界を傷つけることができなくなる。きっと、それだけなのだ。
「違うよ」
密着しすぎてわからない表情は、でも多分、笑っていた。
「棘が刺さって抜けなくなれば、君は私から逃げられないでしょう? 私は力が弱くて、そっと包み込むことはできても、放さないよう締め付けることはできないから」
……「本当に嫌」とまで思っておいて、君のことを力ずくで振り払えない自分に、今更気がついた。
「毎日、昨日と違う私になれたら、素敵だと思わない?」
「全く思わないな」
君の問いに、僕はそう即答した。
【昨日と違う私と、世界】
「なんでだよ、思えよぉ」
「そう思ってほしいなら、疑問文の形なんて取らずに『素敵だと思って』って頼んでくれればよかったのに」
「乙女心の分からん奴だなあ」
「悪かったね」
言いながら、コンビニのショーケースにあるプリンを一つ手に取った。
「変わんないより、変わる方が絶対いいでしょ」
「ええ、でも」
無駄に高級路線のプリンを、見つめる。
「変化って、大抵劣化のことじゃん」
『おいしくなって新登場! お子さまや女性の方でも食べやすい!』と銘打たれたそれは、手に馴染むのを通り越して物足りないようなサイズと重量感。
「でも、世界の経済って緩やかにインフレしていくものだって言うじゃん」
「はあ……?」
君個人の変わる変わらないの話に、なぜ世界の経済が巻き込まれるのか。と思ったが、一旦聞き手に徹することにした。
「今ら私は君にその二百円ちょっとのプリンを買ってあげるかどうかで悩んでいるわけだけど」
「そうなの? 別に買ってくれなくてもいいのに。見てただけだし」
「君が大人になったとき、君の周囲の人たちは君に二万円の時計を買ってあげるかどうかで悩んでいるかもしれない」
「ごめん、何その仮定」
「そのとき、私がまだ二百円のプリンを買う買わないで悩んでたら、そんなの勝ち目がないでしょ?」
「はあ……」
わかるような、わからないような。
「だから、私は私が君に対して抱いているこの愛を、緩やかにインフレさせていく必要があるわけ。アンダスタン?」
「アンダスタン、と言われても……。量だけ増えて、質が落ちるんじゃ意味ないんじゃない?」
かといって、量が減ったら寂しいし。我ながら、なかなか面倒くさいことを言ってるな。
「でも、変わるリスクを取らないと手に取ってすらもらえないかもだよ。『おいしくなりました!』って、『変わりました、だからこっちを見て!』って、ポップを貼って目立たせる理由になって、それで君に手に取ってもらえるなら、それでいいじゃん」
君は、僕の手からプリンをするりと奪い取った。
「そういうわけだから、これは私が買ってあげよう。意外と、本当にちゃんと『おいしくなって新登場』してるかもよ」
だから別にいいって、という言葉を飲み込む。ポップが貼ってないと手に取る気も起きないなら、それって、最初から好きじゃないじゃん。僕は、僕がいつも食べているメーカーのプリンなら、どんなに雑然としたショーケースからでも見つけ出せるのに。
どんな朝も平等に日は上る。夜の闇を振り払うため。
どんな朝にも平等に日は上る。草木の成長を促すため。
どんな朝にも平等に日は上る。雨に濡れた大地を乾かすため。
どんな朝にも平等に日は上る。君が好きだと言った花を見つけやすくするため。
どんな朝にも平等に日は上る。小鳥の鳴き声を世界に響かせるため。
どんな朝にも平等に日は上る。涙の跡を乾かすため。
どんな朝にも平等に日は上る。長く伸びる影が、昨日と違って一人分しかないことを浮き彫りにすふため。
テーマパークで、綺麗な水色の風船をもらった。最初は本当に嬉しくて、風船の紐をぎゅっと握って意気揚々と歩いていたのだけれど、ふとその風船と、その背景に広がる青空を見たとき、思った。
この風船が空に溶けて、僕の手元から失われてしまうんじゃないか……って。――子供の頃の思い出だ。
【空に溶ける色なんて】
「ねえ見て、この服、色味が気に入って買っちゃった」
水色の服を着る君が嫌いだ。昼下がりの青空に溶けてしまいそうだから。
「普段あんまり選ばないデザインなんだけど、似合う?」
橙色の服を着る君が嫌いだ。黄昏時の夕焼けに溶けてしまいそうだから。
「どう? ちょっと地味すぎるかなあ……」
黒い服を着る君が嫌いだ。真夜中の暗闇に溶けてしまいそうだから。
「可愛いでしょ、この服」
黄色い服を着る君は……黄色い空はないから、大丈夫か……? でも、それならどうして、心が不安でざわつくんだろう。
「あ、見て!」
君が指差す先は、空。僕の怯えも知らずに、と理不尽な怒りと共に見上げた先には
「虹……」
「綺麗でしょ」
なぜか得意気な君の声が、隣から響く。
「あ、見て、あの色! 虹の黄色い部分! 私が今着てる服とおんなじ色じゃない?」
言われて、ようやく気づいた。ああ、空の上には、全部の色があるのか。君が溶けてしまわない色なんて、ないのか。
「わ、急に何するの」
手を繋ごう、と思った。風船の紐を握れば飛んでいかないように、そうしていれば、君が空に溶けずに済む。と、信じたい。
「……もぉ~、君はいつも行動が急なんだよ」
君の頬は朝焼けに溶けてしまいそうな桃色に染まっていたけど、もう嫌いだとは思わなかった。
「どうしても、私と付き合ってほしいです!」
と君が懇願するので、僕は君と付き合うことにした。
【どうしても、「どうしても……」には抗えない】
「どうしても、私の作ったお弁当を食べてほしいの!」
と君が懇願するので、僕は購買でパンを買うのをやめた。
「どうしても、一緒に帰りたいの!」
と君が懇願するので、僕はレギュラーになれそうだった部活をやめた。
「どうしても、この鞄がほしいの!」
と君が懇願するので、僕はアルバイトを始めた。
君の「どうしても……」は、僕が全部叶えてあげたかった。だから、
「どうしても、私と別れてほしいの」
という君の言葉に、どうしても抗うことができなかった。