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7/2/2025, 10:19:05 AM

地下鉄のホームからエスカレーターに乗る。
ひんやりとした空気の層を抜け、地上へ出た瞬間、むわりとした熱気が肌にまとわりついた。
車内の快適さが、現実味のない夢のようだ。

夏はこんなにも暑かっただろうか。夏が来るたびに同じことを思う。

夕方の空は薄曇り。
それでも太陽は、名残惜しそうに熱を撒き散らしている。

本格的な夏はまだ遠いはずなのに、空気だけは何もかもを焼き尽くしてしまいそうだ。
改札を抜け、人の波に紛れる。

喉の奥が渇いた。
だけど、何も買う気になれず、俯きながら足早に歩く。
家までは約15分。
途中の石畳の歩道は、遠目に見ても熱を帯びて歪んでいるようだ。この六月の夕方も、このままここに捨てていけたらいいのに。

道中、アイスクリーム屋の、去年と同じ看板が風に揺れていた。
少しだけ甘ったるいバニラの匂い。

僕はぼとりと落ちる蝉を思い出していた。

テーマ:夏の匂い

6/30/2025, 11:25:13 AM

暑い。

一服しようとベランダに出たが、こうも暑いとは。
すぐに吸って、早く部屋に戻ろう。

そう思いながら火をつける。

ふと、視界の端に何かが映った気がして目を向ける。
そこには、隣の家から伸びてきた緑の茎があった。

大きな葉には細かい産毛のような毛がふわふわと揺れている。
思わず手を伸ばす。

ふわふわしていそうに見えたそれは、触れてみると意外にざらざらしていて、軽く撫でただけでも少し痛いくらいだった。

くるくると巻いた蔓にも指を絡める。
ためしに引っ張ると、思いのほか長く伸びて、これで支柱に巻きついていくのかと思うと、不思議な気持ちになった。

ひとしきり触ったあと、空を見上げ、煙草を吸う。

そろそろ部屋に戻ろうかと腰を上げかけたとき、隣の家のベランダの戸が開く音がした。

思わず動きを止めると、隣のベランダから、ひょいと隣人が顔を覗かせた。

相手は俺以上に驚いたようで、目を見開いたが、すぐに持ち直し、

「こんにちは!すみません、そちらまで伸びてしまって」

眉尻をわずかに下げながら、顔や体格に似合わないくらい、はきはきとした口調で言った。
そう言いながら、茎に手を伸ばし、自分のベランダ側へ慣れた手つきで戻していく。

「いえ、大丈夫ですよ」

「何を育ててるんですか?」俺はつい尋ねた。

「きゅうりです。緑のカーテンにするつもりなんですけど、まだ準備が整ってなくて」

そう言ってから、照れたように笑い、

「気温が上がって、急に伸びちゃったんです」

と付け加えた。

テーマ: カーテン

(ここから、きゅうりをお裾分けして仲良くなっていく王道展開)

6/30/2025, 10:13:29 AM

僕はしばらく、その絵の前から動けなかった。

それは海の絵だった。
浜辺から見た穏やかな海ではない。
遥かな断崖の上から、どこまでも広がる大海原を見下ろした光景。
空は澄んだ青を湛え、雲の切れ間からこぼれる光が、緑がかった海面を静かに照らしていた。

その海は、絵の中に留まらず、僕の胸元にまで迫ってくるようだった。

水の冷たさが僕の首を絞めても、それでも、僕はその場を離れられなかった。

僕はまるで海坊主のように、ぬめりとした頭を海面から出し、光に照らされる波の煌めきをじっと見つめている、そんな気分だった。

我に返る。
このままここにいても、きっと満足することはない。
そう思いながらも、体は縫い付けられたように動かなかった。

ようやく絵から目を離し、次の作品へと歩を進める。
どの絵も確かに美しく、惹かれるものはあったが、心の片隅にはずっと、あの海が残っていた。

歩調を早め、展示を一巡したあと、まばらな人影の間を縫うようにして、再びあの絵の前へ戻る。

しかし、あの時感じた“海の気配”は、もうそこにはなかった。

それでも僕は、その絵と向き合い続けた。
時代も場所も超え、さまざまな人の想いが降り積もった空間で、その海と対峙する。そんな気分だった。

波のきらめきを見つめるうちに、僕の意識は少しずつ海の奥へと沈んでいく。
上から見ていたときは緑がかっていた海も、中へ潜れば澄んだ青に変わる。
水面付近で揺れる光の波が、ゆるやかに視界を揺らし、やがて光の届かぬ深みに沈んでいった。

控えめに、閉館を知らせるアナウンスが響く。

僕は出口へ向かい、迷うことなく画録を手に取った。
ポストカードも探したが、あの絵は並んでいなかった。
ぐるりと一周して、画録だけを持ち、レジへ向かった。

僕にはまだ、あの海の波音が聞こえていた。

テーマ: 青く深く

1/1/2025, 8:27:08 AM

「良いお年を」
そう言って25日に別れたはずなのに……

「お前なんでここにいんだよ」
「んふふ……来ちゃった」
気持ち悪い笑みをながら手を振る友達の姿があった。

今日は今年最後のバイトの日。22時をまわり暗闇の中、ぶかぶかのスーツをだらしなく着た男が街頭に照らされぼんやりと浮かんでいた。

「来ちゃった、じゃねーんだよ。その格好、お前だってバイト終わりだろ。早く帰れ」
「そんなこといって〜、嬉しいくせに」
がしりと抱きつき、ぎゅうぎゅうと体重をかけてくる。
隣の家の黒い大きな犬みたいだ。

「おい、メガネが顔に食い込む。いてーんだよ」
引き離そうともがくと、より一層力をかけてくる。観念して力を抜くと、ようやく体が離れた。

「お前、ほんとどうした」
ズレたメガネを直しながら聞くと、
「んー?鐘つきに行こ」肩に腕を回しながら言う。

「は?お前今日30日だよ、鐘なら明日だろ」
反射的にそう答えると、にやっと笑みを深めて、
「じゃあ明日な、明日お前の家まで迎えに行く」

それだけ言うと、じゃあと走り去って行った。
そのあまりの素早さに呆然と見送ることしかできなかった。

10/16/2024, 12:12:41 PM

「ほら、あそこ」
強い風に巻き上がる長い髪を押さえながら、もう一方の手で山肌を指さした。
この風で雲も吹き飛ばされているのか、青空が広がり、太陽は真上に差しかかろうとしていた。白く細い指が示す先はちょうど陰になっており、私は目を細めた。
私がその辺りに目をやったのを確認すると、
「まわりと比べて茶色になっている場所があるだろう?あそこまで行く。」
片道3時間といったところだろうか。
斜め前に立つ彼にチラリと目をやる。山に入るにしては軽装すぎる草履と服。取った山菜を入れる竹籠以外、似つかわしくない格好だ。
じっと見下ろしていると、視線に気づいたのか彼は顔を上げ首を傾げた。いっそう強く風が吹き付け、押さえていた薄茶色の髪が彼の顔にかかる。
「どうした?」
私は首を横に振った。
無意識に、事前に渡された鉈の柄をするりと撫でると、
「あそこまでの道は整備されているから心配いらないよ」と彼は軽やかに笑った。
その笑みに縫い付けられたような錯覚を覚える。
春の日差しのようなやわらかさに、つい目を逸らしたくなるというのに。
私は帯に入れていた麻紐を出し、彼の肩を叩いた。
先に行こうとした彼は振り向き、私の手にある麻紐を不思議そうに見やった後、「結んでくれるのか?ありがとう」と私に背を向けた。
その無防備な仕草に、苛立ちに似た翳りを感じ首を傾げる。
私と比べると随分と細身だが、彼のしなやかな身のこなしは彼の生き様をうつしているようで美しい。露わになった彼の細い首元を見ながらそんなことを思った。
                    (テーマ: やわらかな光)

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