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僕はしばらく、その絵の前から動けなかった。

それは海の絵だった。
浜辺から見た穏やかな海ではない。
遥かな断崖の上から、どこまでも広がる大海原を見下ろした光景。
空は澄んだ青を湛え、雲の切れ間からこぼれる光が、緑がかった海面を静かに照らしていた。

その海は、絵の中に留まらず、僕の胸元にまで迫ってくるようだった。

水の冷たさが僕の首を絞めても、それでも、僕はその場を離れられなかった。

僕はまるで海坊主のように、ぬめりとした頭を海面から出し、光に照らされる波の煌めきをじっと見つめている、そんな気分だった。

我に返る。
このままここにいても、きっと満足することはない。
そう思いながらも、体は縫い付けられたように動かなかった。

ようやく絵から目を離し、次の作品へと歩を進める。
どの絵も確かに美しく、惹かれるものはあったが、心の片隅にはずっと、あの海が残っていた。

歩調を早め、展示を一巡したあと、まばらな人影の間を縫うようにして、再びあの絵の前へ戻る。

しかし、あの時感じた“海の気配”は、もうそこにはなかった。

それでも僕は、その絵と向き合い続けた。
時代も場所も超え、さまざまな人の想いが降り積もった空間で、その海と対峙する。そんな気分だった。

波のきらめきを見つめるうちに、僕の意識は少しずつ海の奥へと沈んでいく。
上から見ていたときは緑がかっていた海も、中へ潜れば澄んだ青に変わる。
水面付近で揺れる光の波が、ゆるやかに視界を揺らし、やがて光の届かぬ深みに沈んでいった。

控えめに、閉館を知らせるアナウンスが響く。

僕は出口へ向かい、迷うことなく画録を手に取った。
ポストカードも探したが、あの絵は並んでいなかった。
ぐるりと一周して、画録だけを持ち、レジへ向かった。

僕にはまだ、あの海の波音が聞こえていた。

テーマ: 青く深く

6/30/2025, 10:13:29 AM