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7/23/2025, 12:22:00 AM

「またね」

 そう言って、僕は彼の背中を見送った。搭乗口のゲートが閉まり、彼はあっけなく空の向こうへ消えていった。

 当たり前のように口にした言葉だったけれど、「またね」なんて、そう簡単には叶わないこともわかっていた。彼が行くのは、海を越えた遠い国。文化も言語も気候も違う場所。数年単位の留学だとか、もう帰ってこないかもしれない、とか、いろんな話を聞いていた。

 だから、「またね」と言いながら、心のどこかでは「さよなら」だと思っていた。

 ──なのに。

 僕はいまだに、ほとんど毎日のように彼と電話している。

 夕方、バイト帰りの自転車をこぎながら、イヤホン越しに彼の声を聞く。話すことなんて、特別なことじゃない。授業が難しいとか、スーパーの袋が有料でムカつくとか、猫を見たとか、今日はパスタがうまく茹でられたとか。どうでもいいことばかり。

 それでも、彼の声はまるで隣にいるみたいに鮮やかで、あの「またね」の日から、時間が巻き戻ったみたいにさえ思える。

 「じゃあ、明後日そっちに行くから」

 そんな言葉が、ある日の電話の最後にぽろっと落ちた。

 え、と間の抜けた声を出してしまうと、彼は少し笑った。

 「いや、急に決めた。急だけど、行けそうだから行く」

 冗談のようで、本気だった。

 あのとき、「またね」と言ったくせに、叶わないだろうと僕が勝手に思っていたその約束が、ほんとうに果たされようとしている。

 駅のホームで、僕は彼を待っている。見慣れた車両がゆっくりと滑り込んでくる。そのドアの向こうから、懐かしい姿が現れる。

 「よう」

 たったそれだけの挨拶が、やけに響いた。

 そして僕は、少し照れながら言った。

 「おかえり」

テーマ:またいつか

7/21/2025, 11:32:12 AM

帰ってきたら飼い猫がいなかった。
扉も窓も、すべて閉まっていたのに、家のどこを探しても見つからない。
名を呼んでも、物音ひとつ返ってこない。

外はすっかり暗くなっていた。
それでも私は、靴を突っかけて家を飛び出した。

うちの猫は、もう先が長くなかった。
このところ食も細く、毛並みに元気もなかった。
――もしかしたら、死に場所を探して、自分からどこかへ出て行ったのかもしれない。

夜の町は、探しものをするにはあまりに不向きだった。
それでも、じっと家にとどまるなんて考えられなかった。

猫の姿はどこにもなかった。
塀の上にも、植え込みの影にも、灯りの消えた家々の隙間にも。
ただ時間だけが、ひたひたと過ぎていった。

そのとき、不意に――ガタンゴトン――と、電車の音が聞こえた。

こんな時間に?
もうとっくに終電は過ぎている。
車庫へ向かう回送列車だろうか……?
だが、そもそもこのあたりに線路はない。

不思議だったが、恐ろしさはなぜか感じなかった。
その音に導かれるように、私は音のする方へ足を進めた。

やがて、やわらかな光がにじむように浮かび上がる、小さな駅舎が見えてきた。
架空のようで、現実のようでもあった。

――あっ。

思わず声が漏れた。
駅舎の灯りの中を、見覚えのある小さな影が歩いていく。
あの歩き方、あのしっぽ――まぎれもなく、うちの猫だった。

私は駆け出した。

ホームには、夜の闇に溶けるような深い青の列車が静かに停まっていた。
車体の窓には、星々のような小さな灯りがきらきらと灯っていた。

猫はその列車の扉から、ふわりと中へと入っていった。

私も、迷わず飛び乗った。

テーマ:星を追いかけて

7/4/2025, 11:18:08 AM

青森駅へ向かう先輩の隣を歩く。
シャッターの降りた通りに、先輩の引くキャリーケースの音が反響する。

「東京って、どんな感じなんすかね。俺、遊びに行ってもいいですよね?」
「お前、そればっかだな。いいって言ってんだろ」

先輩は空いた手で俺の肩を叩いた。
冷えた体に、その手がやけに熱く感じる。

道路脇には除雪された雪が並び、冷たい三月の風が顔を突きさす。
シャッターがカタカタと揺れる音が、静かな街にさざなみのように広がった。

駅が近づくにつれ、喉の奥に言葉が詰まる。
「……俺、寂しいっす」
行かないでくれ、と言えないまま、情けない声が漏れた。

先輩は少し困ったように眉を寄せたあと、ぽつりと呟く。
「ま、俺にも色々あんだよ。事情ってやつがさ」

そして、一拍おいて控えめに言う。
「お前も俺と同じ大学、受けりゃいいじゃん」
「お前の頭なら行けるだろ」

その言葉に、思わず声が大きくなる。
「マジっすか!? いいんすか!? 行きますからね、俺!」

先輩は少し驚いた顔で、でもすぐに笑って、
「あぁ、そりゃお前の自由だろ」

同じ大学に入れたとしても、
大学生活を先に送る先輩は、きっと遠い存在になる。
今までのように1番に可愛がってもらうことはできなくなるだろう。

それでもいい。
さっきまで青く冷たかった風が、不意にやさしく頬を撫でる。
青森の春はまだ遠いけれど、その風は少しだけ温かく感じた。

テーマ:青い風

7/4/2025, 9:19:33 AM

電車の窓に、ぼんやりと自分の顔が映っていた。
昼なのか夜なのかも曖昧な空の下、線路沿いの家々がひたすら後ろへ流れていく。

ときどき、何の前触れもなく「遠くへ行きたい」と思う。
それは決まって、何かから逃げ出したいときだった。
嫌なことがあったわけでもない。大きな失敗をしたわけでもない。
ただ、今いる場所が、自分の居るべきところじゃない気がして、
その空白を埋めるために、知らない街の風を吸い込みたくなる。

僕はかつて、一度それを実行した。
父から、母から、親戚から、友達から――そして自分の名前すらも、少しずつ遠ざけるようにして、故郷を出た。
何百キロも離れた知らない街で、初めての部屋を借り、知らない駅を覚え、知らない路線に乗った。

でも、逃れられなかった。
地理を変えても、景色を変えても、考えることも、悩むことも、過去も、全部背負ったままだった。

逃げ場所なんか、きっと最初からどこにもなかったのだ。

それでも、窓の向こうに流れる知らない駅の名前を見るたびに、
心の奥が少しだけざわつく。
「次の駅で降りて、そのままどこかへ行ってしまえ」と。

逃げられないことなんて、とうの昔に知ってるのに。

テーマ:遠くへ行きたい

7/3/2025, 7:15:05 AM

どんどん遠ざかっていく本土を、ぼんやりと眺める。
磯の匂いのする、べたついた風が髪を巻き上げる。
帽子が飛ばされそうになり、慌てて手で押さえた。

この帽子は、今回の調査のために助手が買ってくれたものだ。
「先生にはこのカーキが似合うと思うんですよね!」
屈託なくそう言った助手の頭にも、同じ帽子がのっている。
「どちらがお前ので、どちらが私のものかわからなくなるじゃないか」と悪態をつきつつ、私は内心嬉しかった。

今回の調査は、本土から船で五時間の沖合に浮かぶ島。
海底から隆起した特異な地形を持ち、島の中央には大きな山がそびえている。
年中、島の西側には猛烈な風が吹き、東側は山で風を受け止めるものの、回り込む風が時折本土の風速を超えることもある。
その風が、長い年月をかけて削り、磨き、島の内陸には透明な結晶体がいくつも発見された。
陽光を受けると虹のような光を帯び、人はそれを「風のクリスタル」と呼んだ。

前回の調査で、私たちはそのひとつを山腹で発見した。
風化と浸食を重ねたそのクリスタルは、内側に淡く光を孕み、まるで消えかけた記憶のように、掴もうとすると指の隙間からこぼれ落ちるようだった。
「先生、今回もきっと、いいのが見つかりますよ」
風に負けまいと助手が声を張り上げる。
私は帽子のつばを握りしめ、本土がかすむ水平線の向こうへと視線を戻した。

テーマ: クリスタル

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