「またね」
そう言って、僕は彼の背中を見送った。搭乗口のゲートが閉まり、彼はあっけなく空の向こうへ消えていった。
当たり前のように口にした言葉だったけれど、「またね」なんて、そう簡単には叶わないこともわかっていた。彼が行くのは、海を越えた遠い国。文化も言語も気候も違う場所。数年単位の留学だとか、もう帰ってこないかもしれない、とか、いろんな話を聞いていた。
だから、「またね」と言いながら、心のどこかでは「さよなら」だと思っていた。
──なのに。
僕はいまだに、ほとんど毎日のように彼と電話している。
夕方、バイト帰りの自転車をこぎながら、イヤホン越しに彼の声を聞く。話すことなんて、特別なことじゃない。授業が難しいとか、スーパーの袋が有料でムカつくとか、猫を見たとか、今日はパスタがうまく茹でられたとか。どうでもいいことばかり。
それでも、彼の声はまるで隣にいるみたいに鮮やかで、あの「またね」の日から、時間が巻き戻ったみたいにさえ思える。
「じゃあ、明後日そっちに行くから」
そんな言葉が、ある日の電話の最後にぽろっと落ちた。
え、と間の抜けた声を出してしまうと、彼は少し笑った。
「いや、急に決めた。急だけど、行けそうだから行く」
冗談のようで、本気だった。
あのとき、「またね」と言ったくせに、叶わないだろうと僕が勝手に思っていたその約束が、ほんとうに果たされようとしている。
駅のホームで、僕は彼を待っている。見慣れた車両がゆっくりと滑り込んでくる。そのドアの向こうから、懐かしい姿が現れる。
「よう」
たったそれだけの挨拶が、やけに響いた。
そして僕は、少し照れながら言った。
「おかえり」
テーマ:またいつか
帰ってきたら飼い猫がいなかった。
扉も窓も、すべて閉まっていたのに、家のどこを探しても見つからない。
名を呼んでも、物音ひとつ返ってこない。
外はすっかり暗くなっていた。
それでも私は、靴を突っかけて家を飛び出した。
うちの猫は、もう先が長くなかった。
このところ食も細く、毛並みに元気もなかった。
――もしかしたら、死に場所を探して、自分からどこかへ出て行ったのかもしれない。
夜の町は、探しものをするにはあまりに不向きだった。
それでも、じっと家にとどまるなんて考えられなかった。
猫の姿はどこにもなかった。
塀の上にも、植え込みの影にも、灯りの消えた家々の隙間にも。
ただ時間だけが、ひたひたと過ぎていった。
そのとき、不意に――ガタンゴトン――と、電車の音が聞こえた。
こんな時間に?
もうとっくに終電は過ぎている。
車庫へ向かう回送列車だろうか……?
だが、そもそもこのあたりに線路はない。
不思議だったが、恐ろしさはなぜか感じなかった。
その音に導かれるように、私は音のする方へ足を進めた。
やがて、やわらかな光がにじむように浮かび上がる、小さな駅舎が見えてきた。
架空のようで、現実のようでもあった。
――あっ。
思わず声が漏れた。
駅舎の灯りの中を、見覚えのある小さな影が歩いていく。
あの歩き方、あのしっぽ――まぎれもなく、うちの猫だった。
私は駆け出した。
ホームには、夜の闇に溶けるような深い青の列車が静かに停まっていた。
車体の窓には、星々のような小さな灯りがきらきらと灯っていた。
猫はその列車の扉から、ふわりと中へと入っていった。
私も、迷わず飛び乗った。
テーマ:星を追いかけて
青森駅へ向かう先輩の隣を歩く。
シャッターの降りた通りに、先輩の引くキャリーケースの音が反響する。
「東京って、どんな感じなんすかね。俺、遊びに行ってもいいですよね?」
「お前、そればっかだな。いいって言ってんだろ」
先輩は空いた手で俺の肩を叩いた。
冷えた体に、その手がやけに熱く感じる。
道路脇には除雪された雪が並び、冷たい三月の風が顔を突きさす。
シャッターがカタカタと揺れる音が、静かな街にさざなみのように広がった。
駅が近づくにつれ、喉の奥に言葉が詰まる。
「……俺、寂しいっす」
行かないでくれ、と言えないまま、情けない声が漏れた。
先輩は少し困ったように眉を寄せたあと、ぽつりと呟く。
「ま、俺にも色々あんだよ。事情ってやつがさ」
そして、一拍おいて控えめに言う。
「お前も俺と同じ大学、受けりゃいいじゃん」
「お前の頭なら行けるだろ」
その言葉に、思わず声が大きくなる。
「マジっすか!? いいんすか!? 行きますからね、俺!」
先輩は少し驚いた顔で、でもすぐに笑って、
「あぁ、そりゃお前の自由だろ」
同じ大学に入れたとしても、
大学生活を先に送る先輩は、きっと遠い存在になる。
今までのように1番に可愛がってもらうことはできなくなるだろう。
それでもいい。
さっきまで青く冷たかった風が、不意にやさしく頬を撫でる。
青森の春はまだ遠いけれど、その風は少しだけ温かく感じた。
テーマ:青い風
電車の窓に、ぼんやりと自分の顔が映っていた。
昼なのか夜なのかも曖昧な空の下、線路沿いの家々がひたすら後ろへ流れていく。
ときどき、何の前触れもなく「遠くへ行きたい」と思う。
それは決まって、何かから逃げ出したいときだった。
嫌なことがあったわけでもない。大きな失敗をしたわけでもない。
ただ、今いる場所が、自分の居るべきところじゃない気がして、
その空白を埋めるために、知らない街の風を吸い込みたくなる。
僕はかつて、一度それを実行した。
父から、母から、親戚から、友達から――そして自分の名前すらも、少しずつ遠ざけるようにして、故郷を出た。
何百キロも離れた知らない街で、初めての部屋を借り、知らない駅を覚え、知らない路線に乗った。
でも、逃れられなかった。
地理を変えても、景色を変えても、考えることも、悩むことも、過去も、全部背負ったままだった。
逃げ場所なんか、きっと最初からどこにもなかったのだ。
それでも、窓の向こうに流れる知らない駅の名前を見るたびに、
心の奥が少しだけざわつく。
「次の駅で降りて、そのままどこかへ行ってしまえ」と。
逃げられないことなんて、とうの昔に知ってるのに。
テーマ:遠くへ行きたい
どんどん遠ざかっていく本土を、ぼんやりと眺める。
磯の匂いのする、べたついた風が髪を巻き上げる。
帽子が飛ばされそうになり、慌てて手で押さえた。
この帽子は、今回の調査のために助手が買ってくれたものだ。
「先生にはこのカーキが似合うと思うんですよね!」
屈託なくそう言った助手の頭にも、同じ帽子がのっている。
「どちらがお前ので、どちらが私のものかわからなくなるじゃないか」と悪態をつきつつ、私は内心嬉しかった。
今回の調査は、本土から船で五時間の沖合に浮かぶ島。
海底から隆起した特異な地形を持ち、島の中央には大きな山がそびえている。
年中、島の西側には猛烈な風が吹き、東側は山で風を受け止めるものの、回り込む風が時折本土の風速を超えることもある。
その風が、長い年月をかけて削り、磨き、島の内陸には透明な結晶体がいくつも発見された。
陽光を受けると虹のような光を帯び、人はそれを「風のクリスタル」と呼んだ。
前回の調査で、私たちはそのひとつを山腹で発見した。
風化と浸食を重ねたそのクリスタルは、内側に淡く光を孕み、まるで消えかけた記憶のように、掴もうとすると指の隙間からこぼれ落ちるようだった。
「先生、今回もきっと、いいのが見つかりますよ」
風に負けまいと助手が声を張り上げる。
私は帽子のつばを握りしめ、本土がかすむ水平線の向こうへと視線を戻した。
テーマ: クリスタル