どんどん遠ざかっていく本土を、ぼんやりと眺める。
磯の匂いのする、べたついた風が髪を巻き上げる。
帽子が飛ばされそうになり、慌てて手で押さえた。
この帽子は、今回の調査のために助手が買ってくれたものだ。
「先生にはこのカーキが似合うと思うんですよね!」
屈託なくそう言った助手の頭にも、同じ帽子がのっている。
「どちらがお前ので、どちらが私のものかわからなくなるじゃないか」と悪態をつきつつ、私は内心嬉しかった。
今回の調査は、本土から船で五時間の沖合に浮かぶ島。
海底から隆起した特異な地形を持ち、島の中央には大きな山がそびえている。
年中、島の西側には猛烈な風が吹き、東側は山で風を受け止めるものの、回り込む風が時折本土の風速を超えることもある。
その風が、長い年月をかけて削り、磨き、島の内陸には透明な結晶体がいくつも発見された。
陽光を受けると虹のような光を帯び、人はそれを「風のクリスタル」と呼んだ。
前回の調査で、私たちはそのひとつを山腹で発見した。
風化と浸食を重ねたそのクリスタルは、内側に淡く光を孕み、まるで消えかけた記憶のように、掴もうとすると指の隙間からこぼれ落ちるようだった。
「先生、今回もきっと、いいのが見つかりますよ」
風に負けまいと助手が声を張り上げる。
私は帽子のつばを握りしめ、本土がかすむ水平線の向こうへと視線を戻した。
テーマ: クリスタル
地下鉄のホームからエスカレーターに乗る。
ひんやりとした空気の層を抜け、地上へ出た瞬間、むわりとした熱気が肌にまとわりついた。
車内の快適さが、現実味のない夢のようだ。
夏はこんなにも暑かっただろうか。夏が来るたびに同じことを思う。
夕方の空は薄曇り。
それでも太陽は、名残惜しそうに熱を撒き散らしている。
本格的な夏はまだ遠いはずなのに、空気だけは何もかもを焼き尽くしてしまいそうだ。
改札を抜け、人の波に紛れる。
喉の奥が渇いた。
だけど、何も買う気になれず、俯きながら足早に歩く。
家までは約15分。
途中の石畳の歩道は、遠目に見ても熱を帯びて歪んでいるようだ。この六月の夕方も、このままここに捨てていけたらいいのに。
道中、アイスクリーム屋の、去年と同じ看板が風に揺れていた。
少しだけ甘ったるいバニラの匂い。
僕はぼとりと落ちる蝉を思い出していた。
テーマ:夏の匂い
暑い。
一服しようとベランダに出たが、こうも暑いとは。
すぐに吸って、早く部屋に戻ろう。
そう思いながら火をつける。
ふと、視界の端に何かが映った気がして目を向ける。
そこには、隣の家から伸びてきた緑の茎があった。
大きな葉には細かい産毛のような毛がふわふわと揺れている。
思わず手を伸ばす。
ふわふわしていそうに見えたそれは、触れてみると意外にざらざらしていて、軽く撫でただけでも少し痛いくらいだった。
くるくると巻いた蔓にも指を絡める。
ためしに引っ張ると、思いのほか長く伸びて、これで支柱に巻きついていくのかと思うと、不思議な気持ちになった。
ひとしきり触ったあと、空を見上げ、煙草を吸う。
そろそろ部屋に戻ろうかと腰を上げかけたとき、隣の家のベランダの戸が開く音がした。
思わず動きを止めると、隣のベランダから、ひょいと隣人が顔を覗かせた。
相手は俺以上に驚いたようで、目を見開いたが、すぐに持ち直し、
「こんにちは!すみません、そちらまで伸びてしまって」
眉尻をわずかに下げながら、顔や体格に似合わないくらい、はきはきとした口調で言った。
そう言いながら、茎に手を伸ばし、自分のベランダ側へ慣れた手つきで戻していく。
「いえ、大丈夫ですよ」
「何を育ててるんですか?」俺はつい尋ねた。
「きゅうりです。緑のカーテンにするつもりなんですけど、まだ準備が整ってなくて」
そう言ってから、照れたように笑い、
「気温が上がって、急に伸びちゃったんです」
と付け加えた。
テーマ: カーテン
(ここから、きゅうりをお裾分けして仲良くなっていく王道展開)
僕はしばらく、その絵の前から動けなかった。
それは海の絵だった。
浜辺から見た穏やかな海ではない。
遥かな断崖の上から、どこまでも広がる大海原を見下ろした光景。
空は澄んだ青を湛え、雲の切れ間からこぼれる光が、緑がかった海面を静かに照らしていた。
その海は、絵の中に留まらず、僕の胸元にまで迫ってくるようだった。
水の冷たさが僕の首を絞めても、それでも、僕はその場を離れられなかった。
僕はまるで海坊主のように、ぬめりとした頭を海面から出し、光に照らされる波の煌めきをじっと見つめている、そんな気分だった。
我に返る。
このままここにいても、きっと満足することはない。
そう思いながらも、体は縫い付けられたように動かなかった。
ようやく絵から目を離し、次の作品へと歩を進める。
どの絵も確かに美しく、惹かれるものはあったが、心の片隅にはずっと、あの海が残っていた。
歩調を早め、展示を一巡したあと、まばらな人影の間を縫うようにして、再びあの絵の前へ戻る。
しかし、あの時感じた“海の気配”は、もうそこにはなかった。
それでも僕は、その絵と向き合い続けた。
時代も場所も超え、さまざまな人の想いが降り積もった空間で、その海と対峙する。そんな気分だった。
波のきらめきを見つめるうちに、僕の意識は少しずつ海の奥へと沈んでいく。
上から見ていたときは緑がかっていた海も、中へ潜れば澄んだ青に変わる。
水面付近で揺れる光の波が、ゆるやかに視界を揺らし、やがて光の届かぬ深みに沈んでいった。
控えめに、閉館を知らせるアナウンスが響く。
僕は出口へ向かい、迷うことなく画録を手に取った。
ポストカードも探したが、あの絵は並んでいなかった。
ぐるりと一周して、画録だけを持ち、レジへ向かった。
僕にはまだ、あの海の波音が聞こえていた。
テーマ: 青く深く
「良いお年を」
そう言って25日に別れたはずなのに……
「お前なんでここにいんだよ」
「んふふ……来ちゃった」
気持ち悪い笑みをながら手を振る友達の姿があった。
今日は今年最後のバイトの日。22時をまわり暗闇の中、ぶかぶかのスーツをだらしなく着た男が街頭に照らされぼんやりと浮かんでいた。
「来ちゃった、じゃねーんだよ。その格好、お前だってバイト終わりだろ。早く帰れ」
「そんなこといって〜、嬉しいくせに」
がしりと抱きつき、ぎゅうぎゅうと体重をかけてくる。
隣の家の黒い大きな犬みたいだ。
「おい、メガネが顔に食い込む。いてーんだよ」
引き離そうともがくと、より一層力をかけてくる。観念して力を抜くと、ようやく体が離れた。
「お前、ほんとどうした」
ズレたメガネを直しながら聞くと、
「んー?鐘つきに行こ」肩に腕を回しながら言う。
「は?お前今日30日だよ、鐘なら明日だろ」
反射的にそう答えると、にやっと笑みを深めて、
「じゃあ明日な、明日お前の家まで迎えに行く」
それだけ言うと、じゃあと走り去って行った。
そのあまりの素早さに呆然と見送ることしかできなかった。