ガタガタと揺れる山道を登る。目的の建物が見え、僕は本を閉じた。
「ありがとうございます」軽く会釈をしてバスを降りる。
「すみません、今日面会予定の…」受付で名前を伝えると、
薄いピンクの服を着た看護師さんが出迎えてくれた。
「今日は調子よさそうですよ〜」
病院の奥へと進み、扉の前に立つ。
腰から鍵束をだしガチャガチャとドアノブを回した。
鉄製の重い扉を抜ける。
緑色の床、人の体臭…
足早に歩く看護師さんの後を追いながら
ちらりと横目で病室を見る。
6人の大部屋、扉は閉まっておらず、カーテンも付いていない。病室には誰もいなかった。乱れたシーツが人の気配を感じさせた。
少し進むと詰所があった。詰所の前はレクリエーションを楽しむ場になっているようで、電源のついていないテレビや机と椅子が小綺麗に並んでいた。
ネイビーの服を着た若い男性が塗り絵をする人たちと話をしていた。
そこからさらに進み、小部屋に案内される。白い床、固定された机と椅子。それ以外には何もない。
「それでは呼んできますね」
僕はバスの中で読んでいた本の内容を思い出しながら、何を話そうかと考えていた。
しばらくすると、コンコンと音が鳴り扉が開いた。
看護師さんと、歩行器を支えに立つ
「おばあちゃん」
親しげに見えるような表情をイメージして声をかける。
祖母は認知症が進み、暴言や徘徊がひどくなった。家でも施設でも見られなくなりこの病棟にいる。
いつものように、鋭い声が飛んでくると思っていた。
「よおきたなぁ」
長らく見ていなかった笑顔。動揺を隠せなかった。
信じられない気持ちで看護師さんの方を見る。看護師さんも目を見開いて祖母のことを見ていた。
僕のことがわかるのか、と聞きたかった。だけど、それを聞いたら祖母の様子が戻ってしまう気がした。何も言葉が出てこなかった。
看護師さんが助け舟を出すように、
今日は渡したいものがあるんですよね〜と祖母に話しかけた。
祖母はよくわかっていない様子だったが、看護師さんが祖母の手を開けると、
握りしめられてぐちゃぐちゃになった一枚の写真。思い出した様子で、
「もおいらんからやる」と差し出してきた。
広げてみると、祖母の結婚式の写真を縮小したものだった。先ほどの祖母の笑顔が思い出された。
「もおこやんでええ。あしたでしまいや」
祖母はそう言った。
「何言ってるの、また来るからね」
自分の声が震えている。
そこからの話はずっと宙に浮いているようだった。
いつのまにか面会は終わっていた。ふらふらと病院を出る。
バスを待ちながら、もらった写真を開いた。
白黒でよくわからないが、綺麗な白い衣装を纏っているんだろう。
ふと目をあげると、白とピンクのツツジが緑の葉の上に咲いていた。
吸い寄せられるように近付く。
みずみずしく咲く花のそばで、茶色く変色し、しおしおと力なく体を丸める花の姿があった。
(テーマ:明日世界が終わるなら)
バス停。トタン屋根にバツバツと雨が打ちつける。
幸い、備え付けの椅子はまだ濡れていなかった。
以前このバス停で見知らぬ人に話かけられた時を思い出す。
話の内容はある程度覚えているが、顔はもう覚えてない。
見知らぬ人に話しかける彼の性質や、彼がこれまでに出逢った人達に思いを馳せる。
彼との一瞬の出逢いは同時に彼の背後にいる人たちとの出逢いでもあった。
人の連なりがたまにどうしようもなく恐ろしい。
人間の円環から飛び出てまっさらになりたい。
そこまで考えて自分がどうも憂鬱になっていることに気付き、イヤホンをつけた。
(テーマ:君と出逢って)
ふっと意識が浮上する。ごつごつとした感触。
ホーホーホッホーと鳴く声がやけに鮮明に聞こえる。
そこでよくやく、キャンプに来ていたことを思い出した。
寝袋から出る。銀マットがパリパリと音を立てた。
ジジジとテントを開け、サンダルを履き、外に出る。
ひんやりとした空気が僕を包んだ。
大きく伸びをして、椅子を出す。
このキャンプ場にもこれらのキャンプ道具にも
彼の記憶がついて回る。
やっぱり新しい趣味を見つけるしかないのかも。
タープからぽとりと朝露が落ちた。
「帰りたくもないなぁ」
チクタクチクタクと等間隔で刻む音。胸を掻きむしりたくなるような訳のわからない焦燥感。
隣家の水道の音
遠くで鳴く犬の声
バイクの音
2人の時は耳を澄まさないと聞こえなかった音が1人の部屋にはよく響く。
そこまで考えて
はぁと大きく息を吐き出した。
(テーマ:耳を澄ますと)
十数年の時を埋めるように
僕らは二人で過ごした。
交友関係の広そうな彼の家に行くのは気兼ねされたが、
そんな心配をよそに、彼はいつも招いてくれた。
自分の家より彼の家が心地よく感じられ始めた頃だった。
彼の同僚らしき人が彼のネックレスに触れているのを見たのは。
慌てて踵を返す。俯きながら足早に歩いた。
ネックレスに触れているくらいで大袈裟な、とか、彼のあんな顔初めて見たな、とか、思考が確かな形を持つ前に浮かんでは消え、浮かんでは消える。
重苦しい空気が肺を満たした。喉が焼けるようだ。首元に手をやり、強く爪を立てる。
先程のまんざらでもなさそうな彼の顔を思い出す。わかっているつもりだった。僕の知らない彼の姿があることくらい。
二人で過ごした日々は、僕にとっては夢のような時間だったんだとようやく気付いた。
あのネックレスに指先が触れた瞬間、その魔法が解けた気がした。二人で過ごしたふわふわとした時間が現実に縫い留められる。
その冷たさを自覚すると体の熱も徐々に引いていった。
「帰ろう」ぽつりと呟く。あのネックレスとよく似たデザインのバングルがカチャリと冷たい音を残した。
(テーマ:二人だけの秘密)
「優しさが痛い」
そう言って困ったように笑う彼の顔を思い出す。
あの日から連絡がつかなくなった。
いつもと同じような口ぶりで、いつもと同じ表情だった。
いや、いつもそういう顔をさせていたわけではなくて、そういう顔もするだろうな、という話で…
「わかったわかった、それでどうしたいんだ?」
珈琲を挟んで向いに座る男が、いかにも面倒です、と言わんばかりの態度を見せる。
店内は控えめなジャズと、郊外店舗らしい客層で賑わっていた。
「たまたま再会した小学校の同級生だろ?気にすることもなくね?」
何も言えないでいると、
「何回でも話は聞いてやる」と言って帰り支度を始めてしまった。
店を出てその男と別れた後、
自分はどうしたいんだろうと考える。
しぶる彼に選んでもらった服やアクセサリーを身につけ、
彼に過ごしてもらいやすいよう整えた家へ向かう。
鞄から取り出した家の鍵にはチップのキーホルダーが揺れていた。
(テーマ:優しくしないで)