今日のテーマは『ひそかな想い』ということで。
なかなか誰かに伝えられない想い、なんでしょうね。
恋心かもしれないし、憧れかもしれないし、色々とあるわけですが、「死にたい」なんていう想いもそのひとつだと思います。
「死にたい」という想いはやたらめったら自己開示するものではないとは思いますし、どちらかといえば否定的な反応が返ってくると思います。だからこそ「ひそかな想い」になりやすいのだと思いますが。
ただ、その想いをひそかに持つこと自体は別に悪いとは思えなくて。イメージとしては、高所から柵越しに下を覗き込む行為が「死にたい」という想いを抱くこと、実際に柵を乗り越えて飛んでしまう状態がアウトなわけです。
実際に死ぬわけではないですし、そういう想いがあるからこそ生きていける人もいると思います。
良い状態かどうかは置いておいて、心の均衡を保つ機能として「死にたい」と想うことは悪いことではないのではないかな、と。
「死にたい」という想いに限らず、ネガティヴな『ひそかな想い』を抱くことは往々にしてあるわけで。
それをいちいち良いか悪いか、場合によっては自己嫌悪に陥るのはナンセンス。それもまた自分の一面なので、否定するものでもないのではないかな、と。そんな風に思います。
大体20分くらいですね。3段落目の途中あたりからあまり書くことがなく、あまりしっくりきていないのですが、そんな日もあるでしょう。
今日のテーマはこのあたりで。
今日のテーマは『輝き』ということで。
『輝き』とは何かを考えてみると、物理的な輝きを除けば、成功や功績などを指す言葉が多いように思います。身近な順風満帆そうに見える人を思い浮かべると「あぁ、あの人は輝いているな」なんて思うのではないでしょうか。
ただ、私は人間らしいと思える瞬間に『輝き』があると思っていて。例えば「非合理的な選択であっても意志を貫くとき」とか。人間の力強さのようなものを感じ、すごく輝いて見えます。
ポジティブなことに限らず、人間の弱さのような部分にも『輝き』を感じることがあり、どちらかといえばこっちの方が見る機会が多いです。例えば「何かに葛藤する様」「何か悩む様」なんかは人間らしくて私は好きです。葛藤や悩んでいる本人からしたら何を悠長なことを思っているのだと思われてしまうかもしれませんが。
葛藤できる、悩めることができる、というのは意志がある証拠ですから。人間の意志のようなものが垣間見える瞬間というのは『輝き』を感じます。
現実世界の人に限らず、漫画のキャラクターにも同様のことを思います。HELLSINGという漫画の少佐というキャラクターが「人間は魂の、心の、意志の生き物だ」というセリフを言う場面がありまして。
ネタバレになってしまうのですが、彼は人間ではないけれど、意志を持っているので「私は人間だ」「私は私だ」と力強く言い放ちます。彼が人間かどうかはさておき、私は少佐にも『輝き』を感じました。
他にも「あかね噺」のこぐまというキャラクターや、「その着せ替え人形は恋をする」の五条くんなど、自分の弱さを認めて受け入れ、それでも足掻く姿なんかに『輝き』を感じます。興味がある方はぜひ。
さて、これまでは意志が垣間見える瞬間に人間らしさと『輝き』を感じることを書いてきましたが、人間らしさに限って言えば「意志が感じられない」「意志がぶれる」のもまた人間らしさだと思っていて。
みんながみんな高尚には生きられない、自分の弱さを認めて受け入れられない、意志を貫くほどの意志がない、なんとなく惰性で生きてしまう、これもまた人間らしさであり、否定すべきものでもないのかな、と感じています。
良いこと悪いこと含めて、人間らしく生きていることを肯定する視点が持てると、ちょっと生きやすくなのかな、なんて。そんな風に思います。
はい、通話しながらダラダラ書いていたので、多分1時間ちょっとぐらいで書いたと思います。
今日のテーマはこのあたりで。
今日のテーマは『君の声がする』ということで。
はい、今日は誠に勝手ながら昨日のテーマの『ありがとう』について書いていこうと思います。
このテーマで最初に思い浮かんだことは高校の頃のエピソードでした。とある国語教諭から「感謝の反対語」について問われたことがあり、そのときはじめて感謝の反対語が「あたりまえ」であると知った...。なんてエピソードです。
言われてみればわかりますが、当時の私は言われるまでまったくわかりませんでした。無学ですね。
人間関係に軋轢を生む一つの要因に、私は「あたりまえ」というものがあると思っていまして。親しき仲にも礼儀ありなんて言葉がありますが、これは「親しいからこそ感謝を忘れがちで、だからこそ礼儀を忘れる」という無意識な「あたりまえ」に注意喚起を促す言葉に思えます。個人的には。
特に男女の仲になり、付き合いが長くなり、親しい間柄に、言ってみれば身内に近い感覚になればなるほど相手の振る舞いや存在が「あたりまえ」になり『感謝』を忘れがちになると思います。これはどちらが一方がというより、程度の違いはあれどお互いにそうなってしまう。よほどの人格者でもない限り。そういう傾向が人にはあるのではないかな、と。
そう思うわけです。
なので、感謝を忘れあたりまえに思ってしまい、無意識に粗暴な態度やリスペクトに欠けた振る舞いをしてしまうのは致し方ない部分があると思います。
ただ、相手がしてくれていることについて、相手から受け取っているものについて考えてみると、「あたりまえ」だと思っていたことが『感謝』に変わるきっかけになるのではないかな、と。
何も思いつかない場合は相手を失ったときに自分がどのように感じるのか、何を失うのか、それによってどのような困り事が生じるのか考えてみるのも良いかもしれません。
一般的にネガティブと思われる気持ちが湧いてきたのであれば、そのような気持ちになる原因が、自分が相手からもらっているものであり、感謝を忘れている部分かもしれない。
なんて、そんな風に思っております。
はい、こんな感じでしょうか。30分弱ですね。
今日のテーマはこのあたりで。
今日のテーマは『Heart to Heart』ということで。
英語には疎いので調べてみましたが「心が通じ合う」あるいは「心と心の対話」みたいな意味があるようで。
過去の投稿で何度か書いていますが、私は基本的に人は孤独なものであるという考えを持っています。もう少し砕いて言うならば「人は分かりあうことができない」そういう信念があると言って差し支えないと思います。哀れな信念です。
なので『Heart to Heart』なんてことは夢物語りではないか、なんて。そんなことを思ったりしています。
我々は他人を分かることには限界がありますから。
この限界というのは、理解はできても共感はできない、理解も共感もできるが肯定(あるいは同意)はできないなんていう事象を思い浮かべるとわかりやすいのかも。例えば、犯罪者の背景を知って、犯行動機を理解・共感できても(あるいは共感はできない)一般的な感覚を持っている人であれば犯行を肯定することは難しいわけです。
『Heart to Heart』が実際にあるのかはわかりません。あるという意見もあると思いますが、個人的にはあるように錯覚しているだけなような気がします。
ただ、その錯覚もけっして悪いわけではなくて。というのも、人は空想に縋って生きている側面があると思うので。
人と人が分かち合うことには限界がある、『Heartto Heart』が存在するのかわからない。そのように述べてきましたが、限界があるとはいえ、完全にでなくとも理解や共感をされることで救われることがあるわけで。そしてそれは理解や共感の程度にというよりも、理解や共感を示そうとしてくれる姿勢や態度に救われているのではないかな、と。
つまり何が言いたいかといえば『Heart to Heart』を試みる姿勢や態度は確かにあるので、その試みは続けた方がいいよね、なんてことを言いたかったのだと思います。
はい、今日は20分強で書きました。
今夜は寒いので、今日のテーマはこのあたりで。
今日のテーマは『やさしくしないで』ということで。
基本的に人は優しくされた方が嬉しいと思うのが一般的だと思いますが、どんな場面で人は『やさしくしないで』と思うのか、それを考えないと始まらないのかな。
ということで。
少し考えてみたのですが自分が惨めなときというのは人の優しさが沁みるといいますか、ちょっとしんどいなと思うのではないかな、と。そんな風に思いました。
私はあまりそういう経験がないのですが、片想いしているけど脈のない相手から優しくされるとか、落ち込んでいるときに励まされるとか、そういう場面を想像するとわかりやすいかもしれません。
ただ、どちらの例も嬉しく思うことだってあるはずで。
なのでもう一歩踏み込んで条件をつけるなら「誰のせいにもできない場面で、自分でも気持ちの整理がつかない状態」というのが追加されるのではないかな、と。
そういうときに向けられる優しさというのは、雑音といいますか、蛇足といいますか「んなことわかっとるわ!」ってなるのではないかな、と。個人的には思います。
けど、優しさって善意ですから。
、それが煩わしくても邪険にしづらくて、さらに自分の中にもやもやが溜まる。そんなときに思うことが『やさしくしないで』なのかな、なんて。
さて、ここまで『やさしくしないで』について考えてきたわけですが、やさしくしないのならどうしてほしいのか、ということが個人的には気になるところで。
多分『やさしくしないで』と言われた(思われた)相手の最適解は「そっとしておく」ことなのだろうと思います。
ただ、これは私の偏見ですが『やさしくしないで』というようなことを考える人というのは「そっとしておく」とそれはそれで不服そうにするんです。不思議なことに。
色々書いたことをまとめてみると『やさしくしないで』には「ただ放っておかれるのは嫌だけど、自分が惨めになるやさしさは受け取りたくない」という複雑な乙女心のようなものが含まれている。そんな感じの結論(仮)に至りました。
はい、ということで、約30分経過です。
今日のテーマはこのあたりで。