今日のテーマは『隠された手紙』ということで。
このままのテーマでは少し書きづらいので、手紙をメッセージと意訳して書いていかせていただきましょう。はい。
我々は当たり前の方に言葉を使って、人と人、あるいは自分自身とコミュニケーションを取っているわけですが、言葉というのは本当に難しいもので。
これは良い部分でもあり、悪い部分でもあるのですが、言葉として表現できるとなんかわかった気になってしまう、そういう性質が言葉にはあるのではないか、と。
なんとなくわかった気になってしまっている、そこに『隠されたメッセージ』というものがあるのではないか、なんてことを今日は綴ってみようと思います。
ということで本題です。
例えば「コミュニケーションが苦手なんです」とか「友達が少ない」という人がいたとして、我々はこの言葉通りのことは理解することができてしまいます。
ただ、自分から見てコミュニケーションが苦手には見えなかったり、友達が多そうに見える人がこの発言をしたとしたら、きっと理解し難いのではないかと思います。
この理解し難さがどこから来ているかといえば、単語の定義が人によって異なる点なのではないか、と。
というのも、上記の友達云々で言えば、友達の定義が違うということは、「どのような関係性を友達とするのか」もっと砕いていえば「友達にカウントする基準」というのが異なっているからではないかと。そう思っています。
自分の悩みや他人の理解し難さというのはこの「わかった気になって、実はわかっていない」という状態に起因していることが多いのではないかと私は思っています。
単語は非常に便利です。わざわざ言葉を尽くさなくても、単語に定義が集約されているので。
しかし、その便利さに甘んじていると、いつの間にか本当に大切なことを見過ごしてしまうのではないか、と。
自分が発した言葉に込められたものも、相手からの言葉に隠されたものも。そういう『隠されたメッセージ』に目を向けてみる、言い換えればもう少し言葉や単語の意味に注意を向けて見ると、ちょっとだけ生きやすくなるのかな、なんて思ったりします。
はい、今日は病院の待ち時間で書きました。
今日のテーマはこの辺りで。
今日のテーマは『旅の途中』ということで。
今回は以前書けなかったテーマである『羅針盤』を交えながら書いていこうかなと思います。最初に宣言しておきますが、テーマを二つ絡めるので、いつもより長文かつ散文になると思いますので、その点は悪しからず。
現在はGoogleマップをはじめにナビのアプリがあるので、『羅針盤(方位磁石・コンパス)』なんて日常では使いませんが、昔は『羅針盤』と簡易な地図を頼りに旅をしていたと思います。現在地を知り、そして目的地に向かうために『羅針盤』を使っていたわけですね。多分。
ところで、人生を長い旅路に例えることがあるわけですが、そんな旅路における『羅針盤』とはなんなのか、なんてことを私は思うわけです。
旅路の果てはきっと死なので、現在進行形で生きている状態の我々は『旅の途中』なのだろうと思います。
ただ、現在地はわからない、どこに向かっているのかもわからないという時期があると思います。特に社会人になってみるとその傾向は強く、生徒・学生だった時期がいかに現在地と目的地がはっきりしていたかを痛感します。
自分の現在の所在や目的地がわからない人は、ときに「なんのために生きるのか」「人生の意味は何か」なんてことを考える人がいたります。そして達観したように「人生に意味などない」なんて語る人もいたりいなかったり....。
どこかで見かけた台詞ですが、私は我々が人生に意味について問いかける立場なのではなく、問いかけられている立場だと思っているので、その問いかけをしたくなる気持ちは理解しつつも、ナンセンスなのではないかな、と。
同様に、未だ人生という旅路の途中であるものが人生に意味などないと断定することについても。そのように割り切った方が楽だとは思いますが。
さて、話が脱線しましたが、人生における『羅針盤』についてですが、それは信念とかポリシーとかそういうものではないかな、と。二十数年の人生を振り返り思うわけです。
何が正解かわからない、主観と客観によって決断に対する評価が異なる世界において、信念やポリシーというもので進む道を決めたものに関しては、結果はどうあれ後悔のない歩みをしてきたな、と。
ただ、結果がどうあれと書いたように、その『羅針盤』は必ずしも正確に方角を示すわけでもないし、求めた目的地に誘ってはくれないと実感しています。努力しても結果が出ないとか、努力はしたけど努力の方向性が違った、というのに似ているかもしれませんね。それでもないよりはマシなものではないかな、と。そう思っています。
あと『羅針盤』ではありませんが、知識や考え続ける姿勢は現在地と目的地を知るための一助になっているような気がします。というのも、私は専門職なので特にそのように感じますが、知識は現在地、現在の専門職としての技量を教えてくれ、考え続ける姿勢は何が自分には足りないのか、次に学ぶべき目標を知るきっかけになっているのかな、と。
ただ、色々と書いてはみたものの、結局のところ「多分、私はこの場所いる」「多分、ここに向かっている」というように「多分」というのが付き纏い続けるのが人生という旅路のなのだろう、と。だから『旅の途中』における正確さはあまり気にせず、自分だけの『羅針盤』を頼りに歩み続ければいいのではないかと、そう思っています。
はい、最初の予想通りに長い散文になりました。
書いた時間も50分と長かったです。
ちゃんとまとまったかわかりませんが、今日もテーマはこのあたりで終わろうと思います。
今日のテーマは『日陰』ということで。
私のとりとめもない文章を読んでいる方々、お久しぶりです。多忙につきなかなか投稿ができませんでした、なんてことはなく、筆がのらなかったので書いていませんでした。
「うむ、これはいかん」と思い直したので今日から再出発ということで。
はい、気を取り直して。
iPhoneやAndroidが普及して、誰もが投稿者になれる時代になり、誰もが何者かになる可能性が出てきました。
私もその一人で、こうして寝ながらぽちぽち文章を打って投稿し、よく分からないハートをもらっているわけです。
少し脱線しましたが「何者かになる」というのは、簡潔にいえば有名人になるということ、もっというならフォロワー(自分の追っかけ)がいる状態ということなのかな、と私は解釈しています。
フォロワーを得るには注目が集まる場に、今回のテーマに沿って言い換えるなら日向(ひなた)に出る必要があります。
具体的にはSNSや投稿サイト、テレビや雑誌などのメディア関係が日向なんでしょうね。多分。
対してそうでない環境、注目が集まらない場というのが『日陰』で、ただただ身近な人たちと日々を営む、そういう身近な場所を指すのだと思います。
iPhoneやAndroidがまだ普及していなくて、SNSもなくて、気軽に個人が注目の集まる場に出れなかった時代は『日陰』で生きる人たちが圧倒的に多数だったわけです。
それは今も変わらないことなのですが、いかんせん我々の手元には便利な薄い手のひらサイズの板があって、そこには日向で生きる、インフルエンサーと呼ばれる一般人か芸能人かよくわからない存在が「何者か」として活動している姿が目に入ってくる環境がある。
だからなのか、どうも「自分も何者かになれるのではないか」とか「自分も何者かになりたい」と思う人が増えているような、そんな気がします。肌感覚ですが。
それが悪いことだとは思いませんが、大抵の人は日陰ものとして日々を営みますから、何者かにはなれません。何者かになりたい渇望を抱きながら日陰ものとして日々を営むのは、きっと辛いことなのだろうな、と。そう思います。
なれるとしたら、それは日陰ものとしての自覚を持った自分でしょう。そしてその自覚を受け入れたときに、人は少し大人になるのかな、と。そう思います。
そうそう、書いていてふと私が青春時代に聴いていた「敗北の少年」と「ノンサイノ」といういうボカロ曲を思い出しまして。どちらも歌詞も『日陰』に生きることを肯定する歌詞(だと私は解釈している)ので、気になった方は聴いてみてください。
はい、書き始めて40分も経ってしまいました。
今日のテーマはこのあたりで。
誤投稿につき修正中
今日のテーマは『手のひらの宇宙』ということで。
非常に難しい。少なくとも私にとっては。
ちょくちょくそういうテーマがあって、投稿が滞ることがしばしばあるので、今回はテーマとは違う話を少しだけ。
このアプリの利用者がどのような意図で投稿をしているか分かりませんが、このアプリの名が「書く習慣」なのでそういうことを目的としている人が多いのではないかな、と。
そう考えたときに、自分にとって書くことが難しいテーマに出会したときにどうすればよいのか悩みどころです。
一つはそれでも書く。
下手な文章でも、納得がいかなくても、たった数行の文章でも、なんとか捻り出して書いて投稿する。それを継続していくことはきっと意味があることなのかな、と。
そしてもう一つは書かない。私はこちら側ですね。
理由はいくつかありますが、もっとも大きな理由は「書きたいと思わない」というところでしょう。多分。
書こうと思えば書けます。なので”書けない”ではありません、“書きたいと思わない”のです。
どんな形であれ、誰かしらの目に止まる可能性がある空間に、自分の文章が投稿され、蓄積される。そこに納得のいっていない、惰性の産物が残ることは、おそらく私は許せないのだと、そう思います。
自分のことながらめんどくさい性格です。
私の投稿したものを見ればわかるのではないと思いますが、ある程度の作風というものが確立しているわけで。
その作風を壊してまで毎日投稿する必要はないのかな、と。そのように思っています。
ただ、そういう自分のこだわりという名のしがらみを超えて書き続けられると、どんなテーマであれ自分の作風に書き上げる努力を続けられるといいのかな、なんてことは思っています。できるかどうかは別として。
はい、テーマから逸脱しましたが書きました。
スマホでぽちぽちこの文章を書いている途中で思いましたが、今日のテーマは「スマホなのではないか?」なんてことを思いましたね。今更ですが。
少しだけといってそこそこも文字数になってしまいましたので、今日のところはこのあたりで。