らんげるはんす

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今日のテーマは『日陰』ということで。

私のとりとめもない文章を読んでいる方々、お久しぶりです。多忙につきなかなか投稿ができませんでした、なんてことはなく、筆がのらなかったので書いていませんでした。
「うむ、これはいかん」と思い直したので今日から再出発ということで。

はい、気を取り直して。
iPhoneやAndroidが普及して、誰もが投稿者になれる時代になり、誰もが何者かになる可能性が出てきました。
私もその一人で、こうして寝ながらぽちぽち文章を打って投稿し、よく分からないハートをもらっているわけです。
少し脱線しましたが「何者かになる」というのは、簡潔にいえば有名人になるということ、もっというならフォロワー(自分の追っかけ)がいる状態ということなのかな、と私は解釈しています。

フォロワーを得るには注目が集まる場に、今回のテーマに沿って言い換えるなら日向(ひなた)に出る必要があります。
具体的にはSNSや投稿サイト、テレビや雑誌などのメディア関係が日向なんでしょうね。多分。
対してそうでない環境、注目が集まらない場というのが『日陰』で、ただただ身近な人たちと日々を営む、そういう身近な場所を指すのだと思います。

iPhoneやAndroidがまだ普及していなくて、SNSもなくて、気軽に個人が注目の集まる場に出れなかった時代は『日陰』で生きる人たちが圧倒的に多数だったわけです。
それは今も変わらないことなのですが、いかんせん我々の手元には便利な薄い手のひらサイズの板があって、そこには日向で生きる、インフルエンサーと呼ばれる一般人か芸能人かよくわからない存在が「何者か」として活動している姿が目に入ってくる環境がある。
だからなのか、どうも「自分も何者かになれるのではないか」とか「自分も何者かになりたい」と思う人が増えているような、そんな気がします。肌感覚ですが。

それが悪いことだとは思いませんが、大抵の人は日陰ものとして日々を営みますから、何者かにはなれません。何者かになりたい渇望を抱きながら日陰ものとして日々を営むのは、きっと辛いことなのだろうな、と。そう思います。
なれるとしたら、それは日陰ものとしての自覚を持った自分でしょう。そしてその自覚を受け入れたときに、人は少し大人になるのかな、と。そう思います。

そうそう、書いていてふと私が青春時代に聴いていた「敗北の少年」と「ノンサイノ」といういうボカロ曲を思い出しまして。どちらも歌詞も『日陰』に生きることを肯定する歌詞(だと私は解釈している)ので、気になった方は聴いてみてください。

はい、書き始めて40分も経ってしまいました。
今日のテーマはこのあたりで。

1/29/2025, 3:10:24 PM