明日世界が終わるなら
世界には、どこもずっと止むことなく雨が降り続いていた。雲の隙間から覗く空は濁った赤色に染まり、人の心はだんだん狂っていった。
わたしの手のひらには治ることのない傷口が口を開いていて、それはわたしにとって痛みの象徴だった。なぜなら、その傷口は他人の痛みを吸い取ることができたから。たくさんの人の痛みをわたしは自分の手のひらに移して、時にはそれで眠れぬ夜も過ごして、いつしかその疼きすら忘れていった。
ある梅雨の季節、わたしは男の子と出会った。悲しい目と、たくさんの傷を負った身体。わたしはいつものように、その男の子の痛みを吸い取って、自分の傷口に収めた。
「わっ……すごい。痛くない」
「痛くなくなっても、ちゃんと手当てはしないと駄目だよ」
男の子は笑顔で頷いた。ありがとう、と言われて、わたしは少しだけ面食らう。お礼を言われたのは随分久しぶりだった。みんな、頭がおかしくなってしまっているから。
それから数日後、また彼と会った。その身体は、新しい傷で埋めつくされていた。
わたしはまた、男の子の痛みを吸い取った。男の子は、今日もありがとう、と言った。
「あなたは、痛くないの?」
「え?」
「みんなの痛みをその手のひらだけで受け止めて、あなたの手は痛くないの?」
「……痛くないよ」
答えるのに、少し間が空いた。もう、痛くない。痛くない、はずだった。
「……痛くても、こうしなくちゃいけないんだよ。これは、わたしが授かった力なんだから」
「どうすれば、君は痛くなくなる?痛みを肩代わりすることをやめる?」
痛くないと答えたのに、男の子は言い募る。わたしは少し考え、呟いた。
「世界が終わるなら。世界が終わって、誰もいなくなったら」
明日世界がなくなれば、そうすればこの痛みは消える。……わたしごと。
だって、消えないのだ。この傷は、この痛みは、もうとっくにわたしの一部になって、どうやってもなくなることはないのだ。もう感覚もないくらい同化してしまったのだ。
男の子は「そっか」と言った。
ひょっとして、世界でも壊してくれるのだろうか。
わたしは小さく笑った。
「またおいで。何度だって痛いの痛いの飛んでいけ、してあげる」
今日の心模様
忘れられない過去がある。
意味がないと言われ、傷だらけになっても抱えてきた記憶がある。
わたしの心は今日も、誰もに忘れ去られた場所を行くあてもなく彷徨っている。
忘れられない地獄がある。
目を開けることも、瞑ることもできなかった夜があった。
狂ってしまったらと願うような地獄があった。
地獄でしか生きていけない自分がいることも、喪った後で気がついた。
忘れられない切なさがある。
改装工事がされた古い校舎の前を通ることはできなかった。
気がつけば畦道と夕日は消えていた。
大事なものと、好きなものは違うと知った。
けれど、手放せば楽になれて歩き出せるのに捨てられないものは、大事なものだから置いていけないだけだと知った。
だから、引きずっているものは抱えてしまえばいいと思った。
痛みは抱きしめたまま、笑って、それでいい。
思い出に焚べた火が燃え尽きる前に。
もしも未来を見れるなら
灰色の空。灰色の街。灰色の世界。
今日も視界は灰色に染まっている。わたしはやっと手に入れた今日の分のパンを持って、岩陰に戻ってきた。
「起きてる?」
人が二人入ればいっぱいになってしまう小さな隙間に、少年が寝ている。身体は痩せ細り、生気は薄い。かくいうわたしも似たものだ。わたしが傍に座ると、目を開けて起き上がった。
「おはよう。はい、ご飯」
「……パンじゃん」
細かい。
少年は灰色のパンを受け取ると、一口齧った。それを尻目に、わたしも自分の分を食べ始める。
世界が灰色に染まってから、既に一年が経った。もともと搾取と嘘に塗れてあんまり好きな世界じゃなかったけれど、それでも今よりはずっとマシだったらしい。だからわたしと彼は灰色になった世界を元に戻すために、こうして旅をしている。ろくに食べ物もない中。
少年は小さなパンを食べ終わると、わたしをじっと見つめ、唇に手を伸ばしてきた。
「……何」
「パン屑ついてる。勿体ない」
指先のパン屑をぺろっとなめ取る。
「……ありがと」
「今日は、どこまで行く?西?東?」
少年の問いに、わたしは少し考えた。どこまで行きたいんだろう、わたしは。思考の末に、ぽつっと零した。
「……未来を、見たい」
こんな右も左も灰色の、絶望だらけの世界じゃなくて。
どうしてそんなことを言ったのか、わたしにもよく分からないけれど。
「俺も」
少年は笑って頷いた。だから、今日のところはそれでいいと思った。
届かぬ想い
その日、わたしの世界から音が消えた。
その日、わたしの世界から色が消えた。
その日、わたしの世界から愛が消えた。
わたしの世界は、ある日すべての精彩を喪ってしまった。
朝起きて、異変に気がついた。声が出ない。朝陽に色がない。美しいものが、全部色褪せて見えるのだ。
お母さん、と呼びかける声は届かなかった。
わたしはその日の内に、自分の世界を取り戻すために旅に出ることにした。
けれど、わたしは色も音も分からない。何かを愛しいと思うこともなくなり、季節の移ろいすらも曖昧だった。
ある日、わたしの世界に一人の男の子が現れた。背が高く、整った顔つきの茶色い髪の男の子だった。
「君、全部を喪っているね。何に奪われたんだい?天使か、それとも悪魔か?」
「分からない。気がついたら、全部を失くしていたの」
男の子はふうん、と言って、少しの間の後に「そっか」と呟いた。
男の子は、それからずっとわたしの後が着いてくるようになった。わたしの旅は二人に増え、けれど楽しみは二倍に増えることはなかった。だって、わたしは感情まで失してしまったのだから。
わたし達はオーロラの揺れる氷の世界や、緑の山と強い陽射しに包まれた夏の畦道や、小さな花が咲き乱れる春の野原や、紅葉に囲まれた朱色の鳥居の向こうを、くる日もくる日も彷徨った。
彼は驚くほどなんでも知っていて、なんでもできた。彼はよく笑うことも、よく泣くこともなかった。それでもわたしは何日も彼といる内に、少しずつ世界を取り戻していけるように思った。
でも、彼は出会ってから百日後に、不意に姿を消した。
朝起きて、異変に気づいて落胆した自分に、わたしはようやく既に世界を取り戻していたことに気がついた。わたしは彼といる時だけは、世界を見ることができたのだ。
伝えたい思いがあった。
伝わらない思いがあった。
それらすべてが、彼がいないと何も意味を成さないことを、わたしは空っぽの心で知った。彼が現れて、そしていなくなった訳と共に。
春爛漫
この地では、いつも雪が降っている。それは太古の昔に冬を使命づけられたあなたが、この地をずっとずっと彷徨っているから。
わたしはそれを知っている。
あなたが悲しいくらいバラバラになった自分の心の欠片を、世界の果てであてどなく探して回っている姿をわたしは見ている。
寒い寒いこの地で、あなたは今日も吹雪の中を背中を丸めて歩いていく。そして、いつも降り積もった雪の中でうずくまる誰かを見つけては、立ち止まる。
「君……どうしたんだい?」
「左目を、失くしてしまったの」
雪に埋もれた少女が、そう答える。
「そうか。だが、君にはまだ右目が残っている。君はまだ生きていかなくてはいけない。左目を失くして死ぬのならば、右目が残っている内は生きねばならない」
少女は頷いて、雪の幕の向こうへ消えて行く。
昨日の男の子は彼の言葉で死んでしまったから、少女が生きる道を選んだことに、わたしは嬉しくなった。
春は命の誕生、秋は命の循環、夏は命の成長、そして冬は命の死を司る。
わたしは秋の使命を受け継ぐもの。わたしにあなたの春は連れて来られない。あなたはまた、涙すら凍る冬の中を重すぎる雪を背負って歩き出す。
春を遠い彼方へ攫われてしまったあなた。
あなたの冬は、いつ明けるのかしら。