詩歌 凪

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 届かぬ想い

 その日、わたしの世界から音が消えた。
 その日、わたしの世界から色が消えた。
 その日、わたしの世界から愛が消えた。
 わたしの世界は、ある日すべての精彩を喪ってしまった。
 朝起きて、異変に気がついた。声が出ない。朝陽に色がない。美しいものが、全部色褪せて見えるのだ。
 お母さん、と呼びかける声は届かなかった。
 わたしはその日の内に、自分の世界を取り戻すために旅に出ることにした。
 けれど、わたしは色も音も分からない。何かを愛しいと思うこともなくなり、季節の移ろいすらも曖昧だった。
 ある日、わたしの世界に一人の男の子が現れた。背が高く、整った顔つきの茶色い髪の男の子だった。
「君、全部を喪っているね。何に奪われたんだい?天使か、それとも悪魔か?」
「分からない。気がついたら、全部を失くしていたの」
 男の子はふうん、と言って、少しの間の後に「そっか」と呟いた。
 男の子は、それからずっとわたしの後が着いてくるようになった。わたしの旅は二人に増え、けれど楽しみは二倍に増えることはなかった。だって、わたしは感情まで失してしまったのだから。
 わたし達はオーロラの揺れる氷の世界や、緑の山と強い陽射しに包まれた夏の畦道や、小さな花が咲き乱れる春の野原や、紅葉に囲まれた朱色の鳥居の向こうを、くる日もくる日も彷徨った。
 彼は驚くほどなんでも知っていて、なんでもできた。彼はよく笑うことも、よく泣くこともなかった。それでもわたしは何日も彼といる内に、少しずつ世界を取り戻していけるように思った。
 でも、彼は出会ってから百日後に、不意に姿を消した。
 朝起きて、異変に気づいて落胆した自分に、わたしはようやく既に世界を取り戻していたことに気がついた。わたしは彼といる時だけは、世界を見ることができたのだ。
 伝えたい思いがあった。
 伝わらない思いがあった。
 それらすべてが、彼がいないと何も意味を成さないことを、わたしは空っぽの心で知った。彼が現れて、そしていなくなった訳と共に。

4/15/2024, 3:17:26 PM