詩歌 凪

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8/3/2025, 3:39:10 PM

 ぬるい炭酸と無口な君

 暗い森。赤い鳥居。艶めくような光。その光は提灯であり、篝火であり、彼女の髪筋である。からんころんと鳴る下駄で楽しげに私の前を歩いて行く、美しい少女の。
 人波に逆らうようにゆっくりと歩いている彼女の表情は見えない。道の先に鳥居が見え、その奥には暗闇が広がっているのだ。すれ違う人は皆綿飴やラムネ瓶を手に神社の中央へ向かっているが、彼女だけはそれと正反対の向きに進んでいる。その足元には、めらめらと紅蓮の炎。
 彼女は不意に私の方を振り返り、いたずらっぽく後ろで手を組んで微笑んだ。
「どうしたの? 歩くスピードが遅くなってる」
 何故前を見たままでわかるのか。
「……ううん、何も」
 私は首を振った。そう? と再び前を向く彼女。下駄の足を踏み出すのを見て、私は慌てて言った。
「やっぱり、ちょっと待って」
 彼女の前へ回り込むと、私はしゃがんだ。下駄の赤い鼻緒が切れそうになっていた。
「鼻緒、直してあげるから、じっとしてて」
「別にいいのに」
「よくないよ」
 思わず強い声が出た。よくない。⋯⋯よくないのだ。
「いいじゃん。どうせ、全部燃えてなくなっちゃうんだから」
「そんなこと」
 ない、とは言えなくて、私は黙った。炎に焼かれて、じりじりと指が痛む。たっぷりと時間をかけて鼻緒を結んだ後も立ち上がろうとしない私を見て、彼女は苦笑する。
 いつ見ても、笑顔が絵になる子だ。どんな笑顔も美しい。口元が緩く弧を描くだけで、何とも言えない愁いと色気が匂い立つように漂ってくる。
「ありがとう、直してくれて。でも、ここまででいいよ」
 鼻緒が、ではないのは明白だった。
「嫌だ」
 私は子供のように駄々をこねた。
「いやだ。まだ一緒にいたいよ」
「そうだね。君はずっと傍にいてくれたのにね。もっと早く、それに気づけたらよかった」
 彼女のまっすぐな黒髪が、肩の上で揺れる。私と彼女の間をぬるい風が吹き抜け、彼女は次の瞬間私に背を向けていた。
「熱いね」
「⋯⋯うん」
「林檎飴、食べようかな」
 溶けちゃうよ、なんてことは野暮だったので言わなかった。そういえば、まるで彼女そのもののように紅くて透明できらきら光る林檎飴は、彼女のお気に入りだった。
 近くの屋台から笑顔で戻ってきた彼女の手には林檎飴が握られている。
「⋯⋯二本?」
「うん。おまけしてもらっちゃった」
 嘘つき。本当はお金も払ってないくせに。渡された一本を見つめながら言葉を絞り出す。
「⋯⋯そんなことしてるから、⋯⋯地獄行きになるんだよ。ばあか」
 彼女は答えない。炎が背中を這い上がり、からんころんと音を立てて歩き出す。鳥居はもうすぐそこだ。
「懐かしいなあ。私が初めて君に会った日も、こんな暑い夜だったね」
 靡く髪。
「ねえ、私はどうすればよかったんだろうね。煤と、血の匂いが今も取れないの」
 白い頬。
「会う人みんなを破滅させて、不幸にしてきたのに。君だけはずっと平気だったね」
 最後の見物と言わんばかりに、ゆっくりと左右の風景に頭を巡らせる彼女。
「待って。やめて。私も一緒に行く」
 すがるように伸ばした手は、すぐ前を歩いていたはずの彼女を引き留められず空振りした。祭りの喧騒はいつの間にか遠ざかり、明るく照らされた参道には私と彼女の二人きりだった。
 彼女は答えない。振り返りかけぐらいの角度を保ったまま、歩いていく。地獄への道は一人分。私はついに彼女の心を覗くことができないまま、それを見送るだけ。
「置いていかないで」
 彼女は何も言わない。地獄の入り口に燃え盛る炎の中を、横顔未満の表情に微笑みだけをのせて林檎飴を口元に歩いてゆく。鳥居をくぐり、真っ赤に燃える道を進み出す。引き止められない私の前でしゅわりしゅわりと、彼女の後ろ姿が溶けては透明な光の粒になる。

3/29/2025, 11:34:14 AM

 涙

 冬が終わった。
 日差しが暖かく大地に降りそそぎ、蕾はほころび、雪は溶けた。
 わたしは、そのやわらかな優しさに対して、ふんっとそっぽを向いた。一体何が違うのやら、わたしの季節である月と涼風の秋は春よりも劣るらしい。絶対にそんなことないと思うのだけれど。
 わたしが歩くと、若草はいっせいに少し冷たい風にそよいだ。
 春は秋から一番遠い。だから、わたしの力も少し弱い。
「あ⋯⋯」
 前を見ると、広大な地の果てに吹きすさぶ雪と厚い厚い雲が見えた。あのひとは今日も、春を奪われて吹雪の中を一人彷徨っている。あの地はずっと雪が積もり、北風が荒れ狂い、悲しみと虚無の帷に閉ざされている。
 春は意地悪だ。彼に、この温もりを分け与えてあげたらいいのに。なんて。
 春にもどうしようもないことはわかっている。
 わたしの周りを小さな紅葉が、ひらひらとはらはらと無常に舞っている。
 涙が出るほど切ない春の匂いの中、わたしは立ちすくんだ。遠い冬のあなた。巡る季節からはぐれ、涙すら凍る冷たい世界を、たった一人で孤独に歩き続けるあなた。
 春が意地悪なら、わたしはなんなのだろう。
 冬を生み出したのは、このわたしだ。
 遥か昔、遠い遠い太古の時、繰り返す輪廻と循環に霞んだ記憶の向こうで、わたしは。

 あなたの凍った涙を溶かして拭ってくれる人は、どこまで歩けば見つかるのだろう。

12/13/2024, 3:13:25 PM

 愛を注いで

 最後の日だ。ぬるい、甘い、透明な液体が唇を濡らす。それをペロリと舐めて、手元の水晶を瓦礫の欠片で粉々に割ると、ケタケタという笑い声が聞こえた。
 いや、それは空耳だ。実際上がったのは呆れ声。掌に乗るくらいの小さな骸骨の声だ。
「馬鹿か、お前。その水晶」
「うるさい。いいでしょう、わたしのものなんだから」
「そりゃあそうだ。お前のものはお前のものであって、他の誰のものでもない。けど、孤独な魔女さんよ。それはお前の大事なものだったんじゃないのかい?」
 あなたに何が分かるの、と言いかけてやめる。
「⋯⋯いいの。これには、わたしが望む力はなかった」
「だとしても、お前がそれを大事に思う気持ちは別物だ」
 食い下がる骸骨。ケタケタ笑ってる、ように見える。あくまでそう見えるだけなのがうざいったらない。
「今ならまだ直せるが?」
 うるさい骸骨だ。どうして三百年前に捨てておかなかったのだろう。そんな後悔をしてももう遅いのだけれど。
 この高く高く聳え立つ時計塔には、魔女と骸骨が住んでいる。
 世界は既に荒廃しきり、その上には長らく灰色の空が重く横たわっている。もうどれだけ青い空を見ていないことか。青色など、古い魔女はもう忘れた。
 今日は太古の昔に預言書に記された、世界が生まれ変わる日だ。まあ神様なんて、わたしは全然信じていない。なので明確な【終わり】が浮かび上がった水晶を、むしゃくしゃして割った。預言なんかに従いやがって、この野郎と思って。
 頬杖をついて小さな窓から灰色の世界を眺める。
 きっと、骸骨も同じことを思っているに違いない。と思ったのだけど。
 骸骨はどうも違ったらしい。もっともらしく真面目な顔でわたしの顔を見上げてくる。見返すと、顎骨を動かした。
「世界が生まれ変わったら」
「うん」
「俺の顔を見てくれるか?」
「⋯⋯うん」
 ばか。
 ーーーーー世界はもう終わったのに。生まれ変わる日なんて、永遠に来ないのに。神様は間違えたのに。
 言うに事欠いて、そんなこと。
「ねえ、ひとつだけ、頼みがある」
 わたしは物憂げに溜息をついて、骸骨に最後の頼み事をすることに決めた。
 何百年もこの塔で一緒に過ごした骸骨には伝わったらしい。わたしがしようとしていること。
「孤独な魔女。……孤高の魔女。三百年前、あの大厄災のときから、」
 それ以上は聞かなかった。
 ケタケタ笑う骸骨。
 真っ黒い空虚な眼窩の穴を見つめる。
 その目であなたが何を見ているのか、ついに知らないままだった。

 その日、昨日と変わらない顔をして、同じ匂い、同じ風、同じ色のまま、世界は静かに終わった。
 
 柔らかなまま、温かいまま、綺麗なままで。
 世界は終わった。
 そして。

 ーーーーーーその日、昨日と変わらない顔をして、同じ匂い、同じ風、同じ色のまま、世界は静かに生まれ変わった。

 骸骨と魔女の、全部を注いだ“魔法”で。
 何もかも同じように生まれ変わった。ただその空の色だけは、一人の魔女が願い続けた、抜けるように深い青色だった。


 

9/20/2024, 5:00:23 PM

 大事にしたい

 闇夜を切り裂く、一振りの刃があった。
 わたしは、はっとして暗い夜空を見上げた。カーカーと醜い鳴き声を上げて飛び去っていく二羽の鴉。番だろうか、鳴き声というより泣き声という感じの声で、互いを呼びあっている。
 刃に見えたのは、鴉の黒い羽の影だった。
「ーーーちゃん」
 ……み、ちゃん。
 誰、だっただろうか。記憶の中の彼女は。
「ーーーちゃん」
 誰だったのだろうか。わたしを置いて消えてしまった彼女の名は。
 あなたは残酷な世界に裏切られて、わたしの前から姿を消してしまった。はずなのに、わたしの脳裏には振り返り様に笑う彼女の無邪気な笑顔だけが焼き付いている。他は何も覚えていない。
 会いたいよ。ーーーちゃん。
 声を出しても虚しいだけだから、心の中で呟いた。
「……どうして、置いていったの」
 返事は返ってこない。
 わたしは、あの日からずっと、一人ぼっちなのだ。
 その時、ふわりと懐かしい匂いが漂った。わたしは、はっとして顔を上げる。
 ああ、その顔は。その笑顔は。
「もういいんだよ。……ちゃん」
 一言そう言うと、彼女の姿は白く透き通っていく。
 嫌だ。よくなんてない。
 あなたのいない世界なんて、わたしは嫌だ。
 何も持っていないわたしの、これが唯一の宝物だった。彼女との思い出だけがわたしの生きる寄す処だった。
 ーーーちゃんが消えた世界で、わたしは微かな残り香だけを頼りに、いつまでも暗闇を見つめていた。

7/27/2024, 2:55:43 PM


 神様が舞い降りてきて、こう言った

 わたしは影法師。いつも冷たい目をした少女の後ろをくっついている。いつも無愛想だから、少女はひとりぼっちだけど、本当は優しいんだって知っている。
 わたしは、彼女を絶対に裏切らない。
 けれどある日、わたしは言った。
「このままじゃ、ずうっとひとりぼっちだよ。ずうっとずうっと、おとなになっても」
 なんて残酷なことを言ったのだろう。彼女とずうっとずうっと一緒にいるのがわたしのはずだったのに。
「いいの。だって、わたしには一人でくぐるべき狭き門があるのだもの」
「わたしは影法師、ただの黒い輪郭よ。でもわたしは知っている。あなたは太陽だわ。一人で輝けるのにひとりぼっちで、一人で進めるのに誰も追いついてくれない」
「わたしが太陽なら、あなたは月よ。あなたはわたしの影」
 影は光の後ろにできる。わたしは確かにあなたがいないと存在できないけれど、あなたを世界から隠せるのはわたしだけだ。
 わたしは言う。
「あなたは寂しいわ。寂しくて、とても強い人。けれど、この世は一人で進むには寒すぎる」
 彼女の足音は冷たい。彼女の通る道は暗い。彼女の後ろは悲しいくらいに綺麗。
 影法師のわたしにさえ、彼女の考えていることは分からない。分かっていると思っていたけれど。
 だってあの時、影法師のわたしに微笑みかけてくれたあなたは、まるで神様だった。
「生意気な影法師ね」
 彼女は冷たく吐き捨てた。
「裏切り者」
 そう言ってからは一瞬だった。彼女の掌で鈍い光がきらめいて、そしてわたしのくるぶしから下がすっぱりと切り落とされた。
 彼女は踵を返し、もはや後ろには一瞥もくれずに歩き去る。
 ああ、これでとうとうあなたは一人ぼっちになってしまった。
 あなたの行く道から、闇が消えてしまった。
 影すら切り捨てて、あなたはどこへ行こうとしているの。わたしはあなたにずっと着いて行きたかった。並んではくぐれない狭き門も、後ろからなら一緒にくぐれる。
 けれど、これがあなたの選んだ道ならばそれでいい。わたしはあなたの影だから。
 わたしは彼女の暗いものを、全部知っている。
 彼女が薄闇とさよならできるのなら、わたしはそれでいい。

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