愛を注いで
最後の日だ。ぬるい、甘い、透明な液体が唇を濡らす。それをペロリと舐めて、手元の水晶を瓦礫の欠片で粉々に割ると、ケタケタという笑い声が聞こえた。
いや、それは空耳だ。実際上がったのは呆れ声。掌に乗るくらいの小さな骸骨の声だ。
「馬鹿か、お前。その水晶」
「うるさい。いいでしょう、わたしのものなんだから」
「そりゃあそうだ。お前のものはお前のものであって、他の誰のものでもない。けど、孤独な魔女さんよ。それはお前の大事なものだったんじゃないのかい?」
あなたに何が分かるの、と言いかけてやめる。
「⋯⋯いいの。これには、わたしが望む力はなかった」
「だとしても、お前がそれを大事に思う気持ちは別物だ」
食い下がる骸骨。ケタケタ笑ってる、ように見える。あくまでそう見えるだけなのがうざいったらない。
「今ならまだ直せるが?」
うるさい骸骨だ。どうして三百年前に捨てておかなかったのだろう。そんな後悔をしてももう遅いのだけれど。
この高く高く聳え立つ時計塔には、魔女と骸骨が住んでいる。
世界は既に荒廃しきり、その上には長らく灰色の空が重く横たわっている。もうどれだけ青い空を見ていないことか。青色など、古い魔女はもう忘れた。
今日は太古の昔に預言書に記された、世界が生まれ変わる日だ。まあ神様なんて、わたしは全然信じていない。なので明確な【終わり】が浮かび上がった水晶を、むしゃくしゃして割った。預言なんかに従いやがって、この野郎と思って。
頬杖をついて小さな窓から灰色の世界を眺める。
きっと、骸骨も同じことを思っているに違いない。と思ったのだけど。
骸骨はどうも違ったらしい。もっともらしく真面目な顔でわたしの顔を見上げてくる。見返すと、顎骨を動かした。
「世界が生まれ変わったら」
「うん」
「俺の顔を見てくれるか?」
「⋯⋯うん」
ばか。
ーーーーー世界はもう終わったのに。生まれ変わる日なんて、永遠に来ないのに。神様は間違えたのに。
言うに事欠いて、そんなこと。
「ねえ、ひとつだけ、頼みがある」
わたしは物憂げに溜息をついて、骸骨に最後の頼み事をすることに決めた。
何百年もこの塔で一緒に過ごした骸骨には伝わったらしい。わたしがしようとしていること。
「孤独な魔女。……孤高の魔女。三百年前、あの大厄災のときから、」
それ以上は聞かなかった。
ケタケタ笑う骸骨。
真っ黒い空虚な眼窩の穴を見つめる。
その目であなたが何を見ているのか、ついに知らないままだった。
その日、昨日と変わらない顔をして、同じ匂い、同じ風、同じ色のまま、世界は静かに終わった。
柔らかなまま、温かいまま、綺麗なままで。
世界は終わった。
そして。
ーーーーーーその日、昨日と変わらない顔をして、同じ匂い、同じ風、同じ色のまま、世界は静かに生まれ変わった。
骸骨と魔女の、全部を注いだ“魔法”で。
何もかも同じように生まれ変わった。ただその空の色だけは、一人の魔女が願い続けた、抜けるように深い青色だった。
大事にしたい
闇夜を切り裂く、一振りの刃があった。
わたしは、はっとして暗い夜空を見上げた。カーカーと醜い鳴き声を上げて飛び去っていく二羽の鴉。番だろうか、鳴き声というより泣き声という感じの声で、互いを呼びあっている。
刃に見えたのは、鴉の黒い羽の影だった。
「ーーーちゃん」
……み、ちゃん。
誰、だっただろうか。記憶の中の彼女は。
「ーーーちゃん」
誰だったのだろうか。わたしを置いて消えてしまった彼女の名は。
あなたは残酷な世界に裏切られて、わたしの前から姿を消してしまった。はずなのに、わたしの脳裏には振り返り様に笑う彼女の無邪気な笑顔だけが焼き付いている。他は何も覚えていない。
会いたいよ。ーーーちゃん。
声を出しても虚しいだけだから、心の中で呟いた。
「……どうして、置いていったの」
返事は返ってこない。
わたしは、あの日からずっと、一人ぼっちなのだ。
その時、ふわりと懐かしい匂いが漂った。わたしは、はっとして顔を上げる。
ああ、その顔は。その笑顔は。
「もういいんだよ。……ちゃん」
一言そう言うと、彼女の姿は白く透き通っていく。
嫌だ。よくなんてない。
あなたのいない世界なんて、わたしは嫌だ。
何も持っていないわたしの、これが唯一の宝物だった。彼女との思い出だけがわたしの生きる寄す処だった。
ーーーちゃんが消えた世界で、わたしは微かな残り香だけを頼りに、いつまでも暗闇を見つめていた。
神様が舞い降りてきて、こう言った
わたしは影法師。いつも冷たい目をした少女の後ろをくっついている。いつも無愛想だから、少女はひとりぼっちだけど、本当は優しいんだって知っている。
わたしは、彼女を絶対に裏切らない。
けれどある日、わたしは言った。
「このままじゃ、ずうっとひとりぼっちだよ。ずうっとずうっと、おとなになっても」
なんて残酷なことを言ったのだろう。彼女とずうっとずうっと一緒にいるのがわたしのはずだったのに。
「いいの。だって、わたしには一人でくぐるべき狭き門があるのだもの」
「わたしは影法師、ただの黒い輪郭よ。でもわたしは知っている。あなたは太陽だわ。一人で輝けるのにひとりぼっちで、一人で進めるのに誰も追いついてくれない」
「わたしが太陽なら、あなたは月よ。あなたはわたしの影」
影は光の後ろにできる。わたしは確かにあなたがいないと存在できないけれど、あなたを世界から隠せるのはわたしだけだ。
わたしは言う。
「あなたは寂しいわ。寂しくて、とても強い人。けれど、この世は一人で進むには寒すぎる」
彼女の足音は冷たい。彼女の通る道は暗い。彼女の後ろは悲しいくらいに綺麗。
影法師のわたしにさえ、彼女の考えていることは分からない。分かっていると思っていたけれど。
だってあの時、影法師のわたしに微笑みかけてくれたあなたは、まるで神様だった。
「生意気な影法師ね」
彼女は冷たく吐き捨てた。
「裏切り者」
そう言ってからは一瞬だった。彼女の掌で鈍い光がきらめいて、そしてわたしのくるぶしから下がすっぱりと切り落とされた。
彼女は踵を返し、もはや後ろには一瞥もくれずに歩き去る。
ああ、これでとうとうあなたは一人ぼっちになってしまった。
あなたの行く道から、闇が消えてしまった。
影すら切り捨てて、あなたはどこへ行こうとしているの。わたしはあなたにずっと着いて行きたかった。並んではくぐれない狭き門も、後ろからなら一緒にくぐれる。
けれど、これがあなたの選んだ道ならばそれでいい。わたしはあなたの影だから。
わたしは彼女の暗いものを、全部知っている。
彼女が薄闇とさよならできるのなら、わたしはそれでいい。
街
夕日が照る。
わたしは空を見上げて、顔を顰めた。光は、嫌い。白骨化した街の輪郭がくっきりと際立って見えるから。
一年前の今日、わたしの街は死んだ。真っ白な光が、砂が押し寄せるように突如として建物や植物や人を飲み込んだ。遠い学校に通っていたわたしはかろうじて生き延び、そしてその日の内逃げるように街を出た。いや、白骨化した街は到底住めないし、いつまたあの光に襲われるとも知れない街からなど、逃げるほかなかったろう。
とまあ、これがわたしの現状だ。
ここからがわたしの独白だ。
結論から言おう。わたしは恐ろしくも、あの光を学校の窓から見て美しいと思ってしまったのだ。家族や友人を飲み込んだ光に、わたしは見惚れてしまったのだ。街が骸骨になる様を見ながら驚嘆の溜息をついてしまったのだ。
わたしは恐ろしかった。おぞましかった。一瞬、あの光に飲まれて骨になってもいいと思った自分から逃げるしかないと思った。
きっと、あの時わたしと同じように街にいなかった住民は悲しみに暮れただろう。光を恨んだだろう。
光に見惚れていたわたしは、彼らとは会えない。だから逃げた。わたしは、自分が途方もない異端者に思えたのだ。
そして今日わたしは戻ってきた。この街に。わたしの街に。
光は美しかったけれど、やっぱり、とりどりの色に溢れて回る世界の方が、ずっと美しかったのだろう。それでもあの白く輝く光は、わたしの脳裏に焼き付いて離れない。
わたしはあの日、光と共に何かを喪った。己の中の何かを。
一つだけ言える。
わたしの愛した街は、もうどこにもない。
突然の別れ
三千四百十円。なんとも収まりの悪い金額だ。
私は手にした財布を仕舞い、隣を見た。
「いくら?」
「ハズレだった。千円ちょっと」
淡い金髪のセミロングをふんわり肩にかけた彼女は、悔しそうにそう言うと、同じように財布を仕舞う。高級そうな革財布。恐らく、高い財布なら金額もリッチだと思って選んだのだろうが、見事に当てを外したようだ。中身より入れ物の方が高い。
「あーあ。最近みんな持ち歩くお金少なくない?ペイペイのせい?」
「そんなことないと思うけど」
むくれる彼女に苦笑して、私は立ち上がった。コンビニにご飯を買いに行くのだ。水は公園にある。
週に一度、私達は財布を盗む。奪ったお金でご飯を買って、二人で食べて、毎日あてどなく歩き回る。
「今日は何食べるの?」
「パン。千円じゃあ、贅沢できないし」
彼女は答える。盗んだお金は互いにあげない。それが私達が決めたルールだ。犯罪は犯罪だから、自分で盗んだお金は責任を持って自分で使う。そんなルールしか私達に守れるものはない。
陽射しの降り注ぐ河原を歩きながら、私は思う。かつて地獄の底から私を救ってくれた彼女の姿を。一緒に逃げようと言って、赤く汚れた手を差し出した彼女の笑った顔を。
私は彼女がいればそれでいい。身一つで、財布を盗んで、公園の温い水を飲む生活だって構わない。彼女が隣で笑ってくれるなら、そこが私の天国だ。
今日は後ろがうるさい。通行人のひそひそ話。あの子、ニュースの−−−−同級生を刺したっていう−−−−本当かしら−−−−−
そんな声が聞こえたのだろうか。
「行こう!」
いきなり、彼女が笑って駆け出した。
人が追って来る気配がした。彼女は止まらない。汗が飛び散り、息が上がり、不規則に足音が鳴り響く。春の終わりの熱い日の下を、私の手を引いて、どこまでも走っていく。
−−−―-−−~〜〜−−ーーーーーーーー……………
それは、私の最後の記憶だ。二人きり、小さな旅の最後の一日の、最後の思い出だ。
彼女はいなくなった。私達は捕まって彼女と引き離され、彼女は泣き喚いて、私はどんな顔をしていたのか覚えていない。
何年経っても、金色の髪を揺らして私に微笑みかけた彼女の神々しいまでの美しさを、私は反芻している。彼女の手がまだ赤く染まっているのも知っている。
あなたがいなくなった日、私は人生を歩くことに決めた。あなたの人生を歩むことに決めた。広い世界が好きだったあなたは、まだ暗く狭い部屋にいる。
人生は選ぶものだ。そうあるべきだ。少なくとも私はそう思っている。