詩歌 凪

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 ぬるい炭酸と無口な君

 暗い森。赤い鳥居。艶めくような光。その光は提灯であり、篝火であり、彼女の髪筋である。からんころんと鳴る下駄で楽しげに私の前を歩いて行く、美しい少女の。
 人波に逆らうようにゆっくりと歩いている彼女の表情は見えない。道の先に鳥居が見え、その奥には暗闇が広がっているのだ。すれ違う人は皆綿飴やラムネ瓶を手に神社の中央へ向かっているが、彼女だけはそれと正反対の向きに進んでいる。その足元には、めらめらと紅蓮の炎。
 彼女は不意に私の方を振り返り、いたずらっぽく後ろで手を組んで微笑んだ。
「どうしたの? 歩くスピードが遅くなってる」
 何故前を見たままでわかるのか。
「……ううん、何も」
 私は首を振った。そう? と再び前を向く彼女。下駄の足を踏み出すのを見て、私は慌てて言った。
「やっぱり、ちょっと待って」
 彼女の前へ回り込むと、私はしゃがんだ。下駄の赤い鼻緒が切れそうになっていた。
「鼻緒、直してあげるから、じっとしてて」
「別にいいのに」
「よくないよ」
 思わず強い声が出た。よくない。⋯⋯よくないのだ。
「いいじゃん。どうせ、全部燃えてなくなっちゃうんだから」
「そんなこと」
 ない、とは言えなくて、私は黙った。炎に焼かれて、じりじりと指が痛む。たっぷりと時間をかけて鼻緒を結んだ後も立ち上がろうとしない私を見て、彼女は苦笑する。
 いつ見ても、笑顔が絵になる子だ。どんな笑顔も美しい。口元が緩く弧を描くだけで、何とも言えない愁いと色気が匂い立つように漂ってくる。
「ありがとう、直してくれて。でも、ここまででいいよ」
 鼻緒が、ではないのは明白だった。
「嫌だ」
 私は子供のように駄々をこねた。
「いやだ。まだ一緒にいたいよ」
「そうだね。君はずっと傍にいてくれたのにね。もっと早く、それに気づけたらよかった」
 彼女のまっすぐな黒髪が、肩の上で揺れる。私と彼女の間をぬるい風が吹き抜け、彼女は次の瞬間私に背を向けていた。
「熱いね」
「⋯⋯うん」
「林檎飴、食べようかな」
 溶けちゃうよ、なんてことは野暮だったので言わなかった。そういえば、まるで彼女そのもののように紅くて透明できらきら光る林檎飴は、彼女のお気に入りだった。
 近くの屋台から笑顔で戻ってきた彼女の手には林檎飴が握られている。
「⋯⋯二本?」
「うん。おまけしてもらっちゃった」
 嘘つき。本当はお金も払ってないくせに。渡された一本を見つめながら言葉を絞り出す。
「⋯⋯そんなことしてるから、⋯⋯地獄行きになるんだよ。ばあか」
 彼女は答えない。炎が背中を這い上がり、からんころんと音を立てて歩き出す。鳥居はもうすぐそこだ。
「懐かしいなあ。私が初めて君に会った日も、こんな暑い夜だったね」
 靡く髪。
「ねえ、私はどうすればよかったんだろうね。煤と、血の匂いが今も取れないの」
 白い頬。
「会う人みんなを破滅させて、不幸にしてきたのに。君だけはずっと平気だったね」
 最後の見物と言わんばかりに、ゆっくりと左右の風景に頭を巡らせる彼女。
「待って。やめて。私も一緒に行く」
 すがるように伸ばした手は、すぐ前を歩いていたはずの彼女を引き留められず空振りした。祭りの喧騒はいつの間にか遠ざかり、明るく照らされた参道には私と彼女の二人きりだった。
 彼女は答えない。振り返りかけぐらいの角度を保ったまま、歩いていく。地獄への道は一人分。私はついに彼女の心を覗くことができないまま、それを見送るだけ。
「置いていかないで」
 彼女は何も言わない。地獄の入り口に燃え盛る炎の中を、横顔未満の表情に微笑みだけをのせて林檎飴を口元に歩いてゆく。鳥居をくぐり、真っ赤に燃える道を進み出す。引き止められない私の前でしゅわりしゅわりと、彼女の後ろ姿が溶けては透明な光の粒になる。

8/3/2025, 3:39:10 PM