届かぬ想い
その日、わたしの世界から音が消えた。
その日、わたしの世界から色が消えた。
その日、わたしの世界から愛が消えた。
わたしの世界は、ある日すべての精彩を喪ってしまった。
朝起きて、異変に気がついた。声が出ない。朝陽に色がない。美しいものが、全部色褪せて見えるのだ。
お母さん、と呼びかける声は届かなかった。
わたしはその日の内に、自分の世界を取り戻すために旅に出ることにした。
けれど、わたしは色も音も分からない。何かを愛しいと思うこともなくなり、季節の移ろいすらも曖昧だった。
ある日、わたしの世界に一人の男の子が現れた。背が高く、整った顔つきの茶色い髪の男の子だった。
「君、全部を喪っているね。何に奪われたんだい?天使か、それとも悪魔か?」
「分からない。気がついたら、全部を失くしていたの」
男の子はふうん、と言って、少しの間の後に「そっか」と呟いた。
男の子は、それからずっとわたしの後が着いてくるようになった。わたしの旅は二人に増え、けれど楽しみは二倍に増えることはなかった。だって、わたしは感情まで失してしまったのだから。
わたし達はオーロラの揺れる氷の世界や、緑の山と強い陽射しに包まれた夏の畦道や、小さな花が咲き乱れる春の野原や、紅葉に囲まれた朱色の鳥居の向こうを、くる日もくる日も彷徨った。
彼は驚くほどなんでも知っていて、なんでもできた。彼はよく笑うことも、よく泣くこともなかった。それでもわたしは何日も彼といる内に、少しずつ世界を取り戻していけるように思った。
でも、彼は出会ってから百日後に、不意に姿を消した。
朝起きて、異変に気づいて落胆した自分に、わたしはようやく既に世界を取り戻していたことに気がついた。わたしは彼といる時だけは、世界を見ることができたのだ。
伝えたい思いがあった。
伝わらない思いがあった。
それらすべてが、彼がいないと何も意味を成さないことを、わたしは空っぽの心で知った。彼が現れて、そしていなくなった訳と共に。
春爛漫
この地では、いつも雪が降っている。それは太古の昔に冬を使命づけられたあなたが、この地をずっとずっと彷徨っているから。
わたしはそれを知っている。
あなたが悲しいくらいバラバラになった自分の心の欠片を、世界の果てであてどなく探して回っている姿をわたしは見ている。
寒い寒いこの地で、あなたは今日も吹雪の中を背中を丸めて歩いていく。そして、いつも降り積もった雪の中でうずくまる誰かを見つけては、立ち止まる。
「君……どうしたんだい?」
「左目を、失くしてしまったの」
雪に埋もれた少女が、そう答える。
「そうか。だが、君にはまだ右目が残っている。君はまだ生きていかなくてはいけない。左目を失くして死ぬのならば、右目が残っている内は生きねばならない」
少女は頷いて、雪の幕の向こうへ消えて行く。
昨日の男の子は彼の言葉で死んでしまったから、少女が生きる道を選んだことに、わたしは嬉しくなった。
春は命の誕生、秋は命の循環、夏は命の成長、そして冬は命の死を司る。
わたしは秋の使命を受け継ぐもの。わたしにあなたの春は連れて来られない。あなたはまた、涙すら凍る冬の中を重すぎる雪を背負って歩き出す。
春を遠い彼方へ攫われてしまったあなた。
あなたの冬は、いつ明けるのかしら。
沈む夕日
すべての罪悪は意思から生まれる。だからあたしは何も考えない。
あの日、山の稜線に日が昇るころ、あたしとあの人はここで出会うはずだった。あたしは、いつもこの世界の仕組みを知りたがっていた。そしてあたしはあの人に「とっておき」のいいものを見せてあげると言われて、まだ日も差さない時間にここで待っていたのだ。
しかしどうだろう。いつまで経ってもやってこない彼女に痺れを切らせて、あたしは辺りを探しに出た。少し探して、そこで見たのは数人の男と彼女の変わり果てた姿だった。
あたしの頭に血が上ったのはあの一度切りだ。
ちゃんと意識はあった。あたしは自分の意思で、自分の手で、その男達を殺した。あたしが待っていた場所も含めてそこ一帯は立ち入り禁止の禁域で、あの人はただ掟破りで殺されたと知ったのはそのすぐ後だった。
罪を犯したのはあの人を殺した男達ではなく、あの人だった。それを知った時、あたしも罪人になったのだ。
同時に、あの人が立ち入り禁止区域なんかに呼び寄せた理由も永遠に分からなくなってしまった。
あたしは罪人だ。だからあの日からあたしは何も考えなくなった。すべての罪悪は意思から生まれると知ったから。
そしてあたしはもうずっと朝日を見ることもできず、今もこうして暮れなずむ禁域で金色の夕日を眺めている。懺悔の代わりとでも言うのだろうか。とても馬鹿馬鹿しい。
星空の下で
その時は私は血みどろだった。暗闇の中、大きな木の下で束の間の休息を取ろうとしていた。
遠くには、夜でも警戒を怠らない私の国の大規模な本陣。何十年も前に始まった隣国との戦争は年が経つに連れて激化し、そして膠着していった。もう国は戦のことを忘れてしまっているようだった。“いつものこと”になった戦いに、戦う理由すら忘れていった。
その日の“いつものこと”じゃないことは、たった一つだけだった。
秘密の場所だと思っていた木の下に、一人の男の子が座っていた。一目で敵方だと知れる出で立ちをしていたので、私は気がつかれる前に立ち去ろうと踵を返したが、その時。
「今日は、月が綺麗だな。お前もそう思うだろ?」
声を掛けられた。声変わりしたばかりの、少年のようだった。……仕方ない。
「あなた、戦だっていうのに空なんて見上げるのね」
「戦だからこそさ。美しいものの一つくらいないと、やっていけない」
じゃあ、私がどんどんおかしくなっていくのは空を見てないからだろうか。試しに上を見上げると、月が見えるどころか曇り空だった。
「何も見えないじゃん。ばっかみたい」
「そんなことない。よく見てみろ。ほら、あそこ……あっちにも」
この人、戦争で頭がおかしくなっているのだろうか。やっぱり、空を見るなんて意味ない。
けれど、もう一度上を向いたのは、目を凝らしたのは、やっぱり私もおかしくなっていたからなのかもしれない。
「……あ」
「な?見えるだろ?」
空には煌々と輝く明るい満月と、空いっぱいの満天の星空。
「すごい。綺麗」
彼はいつもこんな景色を見ているのだろうか。彼を見ると、こちらを向いてにやっと得意げに笑っていた。
何かが変わる音がした。
「一緒に逃げよう」
どちらが先に言ったのか分からない。私達は笑ってどちらからともなく互いの手を取った。
もう法螺貝と銅鑼の音に怯えながら生きなくてもいい。3日ぶりに食べたご飯を吐くことも無い。
降るような星の下、私は未来を見ていた。
それでいい
その日の任務は、とある少女を殺すことだった。お得意様の食べかけの硬いパンと引き換えに、僕は彼女の命を奪うことに決めた。
目に染みるような夕焼けに染まる、高い鉄塔が聳える美しい丘で、僕は少女を見た。
清純そうな少女だった。
僕のように、生きるために盗みを働いたり人を殺したりするようなこととは無縁なのだろう。澄んだ瞳も風にそよぐ白い髪も夕焼けの橙色に染まって、どこまでも清らかだった。
「そこにいるのは、誰?」
気がつかれた。少女はこちらを振り向いて、目を丸くする。僕は、そんなに酷い顔をしていただろうか? 自分の顔などとうに忘れたので、分からない。
「あなた、すごく不幸なのね」
「……いきなり、何なんだ」
「だってあなた、どこからも“心”が感じられないもの」
出し抜けに不幸だと言われて−−−不幸だと見抜かれて、僕は、
「仕方ないじゃないか」
と返す。少し怒ったような口調になったかもしれない。僕が生まれて初めて殺したのは、自分の心だ。心があっては、明日どころか今日もしれない身なのだから。あってはいけないし、生涯殺し続けないといけないのだ。なのに、
「駄目よ。生きるためにしていることで、心を殺してしまっては」
少女は、あろうことか僕に近寄って来て、後ろ手にナイフを隠しているのと逆の手を取った。
「ほら、とっても冷たい」
少女の手は、温かかった。
生きるために温もりが必要なんだと、その時初めて知った。
忘れていた痛みも、繕っていた心も、何もかもが息を吹き返した。それが僕は怖くて堪らなくて、咄嗟に掌に握っていたナイフで少女の胸を刺した。
目を見開く少女。それでも、刺した僕より刺された彼女の方が状況を理解するのが早かった。
少女は自分を刺した姿勢のまま動かない僕に微笑みかけ、震える手を伸ばして僕の頭を撫でる。
「……いじょうぶ……だい、じょうぶ……」
僕は、はっとして手を引っ込めた。それがいけなかった。血が傷口から溢れ出し、少女はがくりと僕の胸に倒れ込む。
なす術もなく呆然とする僕の胸の中で、少女の温もりはゆっくりと死んでいった。僕の心と一緒に。