それでいい
その日の任務は、とある少女を殺すことだった。お得意様の食べかけの硬いパンと引き換えに、僕は彼女の命を奪うことに決めた。
目に染みるような夕焼けに染まる、高い鉄塔が聳える美しい丘で、僕は少女を見た。
清純そうな少女だった。
僕のように、生きるために盗みを働いたり人を殺したりするようなこととは無縁なのだろう。澄んだ瞳も風にそよぐ白い髪も夕焼けの橙色に染まって、どこまでも清らかだった。
「そこにいるのは、誰?」
気がつかれた。少女はこちらを振り向いて、目を丸くする。僕は、そんなに酷い顔をしていただろうか? 自分の顔などとうに忘れたので、分からない。
「あなた、すごく不幸なのね」
「……いきなり、何なんだ」
「だってあなた、どこからも“心”が感じられないもの」
出し抜けに不幸だと言われて−−−不幸だと見抜かれて、僕は、
「仕方ないじゃないか」
と返す。少し怒ったような口調になったかもしれない。僕が生まれて初めて殺したのは、自分の心だ。心があっては、明日どころか今日もしれない身なのだから。あってはいけないし、生涯殺し続けないといけないのだ。なのに、
「駄目よ。生きるためにしていることで、心を殺してしまっては」
少女は、あろうことか僕に近寄って来て、後ろ手にナイフを隠しているのと逆の手を取った。
「ほら、とっても冷たい」
少女の手は、温かかった。
生きるために温もりが必要なんだと、その時初めて知った。
忘れていた痛みも、繕っていた心も、何もかもが息を吹き返した。それが僕は怖くて堪らなくて、咄嗟に掌に握っていたナイフで少女の胸を刺した。
目を見開く少女。それでも、刺した僕より刺された彼女の方が状況を理解するのが早かった。
少女は自分を刺した姿勢のまま動かない僕に微笑みかけ、震える手を伸ばして僕の頭を撫でる。
「……いじょうぶ……だい、じょうぶ……」
僕は、はっとして手を引っ込めた。それがいけなかった。血が傷口から溢れ出し、少女はがくりと僕の胸に倒れ込む。
なす術もなく呆然とする僕の胸の中で、少女の温もりはゆっくりと死んでいった。僕の心と一緒に。
1つだけ
バシュッ、という音がした。次いで、びしゃっという水音。
「……っつう……」
彼女は小さく呻いた。左腕が千切れ、手の届かないところに飛んで行った。
もうこれを抱える腕もない。
彼女の目や、鼻や、唇はもうなかった。地獄の業火は彼女の身体のあらゆる部位を溶かしてしまったのだ。そして今、辛うじて残っていた左腕もなくなった。
それでも地獄の火は彼女を端から燃やしていく。これは、神へ逆らった罪。純白の羽を切り取られ天使の名を失っても、決して圧倒的な美や知や力に屈しなかった罪。そしてその罰。
たったひとつを守り抜くために、彼女は翼も、称号も、身体も、全てを喪った。
けれど、これさえあれば構わない。
わたしという存在が消えて無くなっても、それでもいい。罪悪の裁きは受けよう。
「わたしは……すべてなくしても、それでも、いい……。あなたより、だいじなものが、……なににも、かえられない、ものが、あるから……」
かつては彼女を愛し、そして今彼女を業火に包む神へ、彼女は囁く。
孤独な神へ、……彼女が一時愛した、ひとりぼっちの神へ、彼女は復讐の楔を打ち込む。
全てを焼かれ、失くして、最後に残った紅く熱く脈打つ心臓。これだけだ。彼女が手足と顔と、全てを失っても守りたかったものは。
大切なもの
春の温かい陽射し。透明に流れる川。いっぱいに香る花。
少女の髪は若草の上に揺蕩うように広がり、瞳は真っ直ぐに空を見上げているのにどこか物憂げだ。
「やっと見つけた。まったく、いい加減にしてよね。君だけなんだよ、自分の想いを一つも手放さないで後生大事にしてるの。そろそろ掟に従ってわたしに預ける気にならない?」
突如聞こえた声。少女は自分の横に降り立った彼女−−−“悪魔”の方を見もせずに答える。
「預けるじゃなくて、明け渡すんでしょう。自分の中から想いが消えるより、好きなままで失くす方がずっといい」
「だから、君が胸に抱いているそれ、ずっと持っていくって?」
「そうだよ」
頷いた少女の顔は、黒く塗り潰されている。少なくとも“悪魔”にはそう見える。彼女の精神と身体がどうしようもないほど侵食されているのが−−−『愛』によって蝕まれているのが。人の心は弱いと人類が気づいたのはいつだっただろう。
少女の胸の膨らみに手を当てると、弱い鼓動が手のひらを打った。
人の心は『愛』という重さに耐えきれなかった。『愛』は憎しみや闇よりもずっと重く、痛く、哀しいのだ。
“悪魔”は少女に再び語りかける。
「君は弱い。ひとであるにはあまりに弱い。その弱さこそが、君が愛するものから手を離すことを妨げている。そしてその弱さこそが、君を『愛』という地獄の中で生きるまでに強くしている」
「だからなに」
少女が不意に、絞り出すように呟いた。その目に、涙が浮かんでいる。黒い染みのような顔でも“悪魔”にはそれが知れた。
「……何かを好きでいることって、それだけなのに、死んじゃいそうなくらい苦しいんだよ。わたしの命を救ってくれたものを好きになったら、今度はそれのせいでおかしくなっちゃうんだよ」
少女は涙をこぼす。見えない顔から、空虚な瞳から透明な水を流す。
「だから、いっそわたしをこの心ごとぐしゃぐしゃに壊してよ。愛してるって、わたしにはもうそれだけなんだよ。だからあなたがこんなわたしを裁いてよ」
少女は醜い顔を晒し、汚れた愛を叫びながらあれほど逃げてきた“悪魔”に縋る。少女は好きなものを好きでいることしかできないのだ。潰れた心を支え続けているのは今でも愛なのだ。好きという気持ちに殺されても、やっぱり少女はそれを捨てられない。
自分の胸に縋り付く少女の手に“悪魔”はそっと自分の手を重ねる。
「……『わたし』のことを、今でも好きでいるなんてあんただけなんだよ……」
その言葉は少女に届かない。これまでも、これからも。
だからこそ、少女は“悪魔”から逃げ続けなければいけないのだ。“悪魔”を−−−大事なものを手放さないように。
そうと知らぬまま。
幸せに
「もう行くの」
薄茶の頭とすらっとした背中に声を掛けると、「ああ」と振り返らないまま返事が返ってきた。
「何処へ行くの。……何を探しに行くの」
「分かんねえ」
彼はいつもどこか遠くを見ていた。大事な何かを無くして、当て所なく探して彷徨っているような、そんな眼差しで。彼の欲しいものは多分永遠に手の届かないところにあって、それを知ってなお渇望は癒えなかった。わたしは、ゆっくりとかつて彼と不器用に繋いだ左手の温もりを思い出す。
不規則に揺れる灯籠の火影、青い空に突き立つ送電塔、濃密な夏の風、珍しくわたしから顔をそらす、僅かに頬を染めた彼。
それはわたしの記憶の中で呼吸をする、“人間”の彼。
今ここに立っているのは、世界の禁忌に踏み込もうとする、感情も情緒も美しいものも残らず屑籠に捨てたひとりの探求者だ。彼は“人間”の自分と“ひとではない”自分を右手と左手に片方ずつ携えて生きるつもりは、既にないのだ。
「……そっか」
名前を付けるには、あまりに未熟な想いだった。彼はとうとう自分の見たいものや知りたいことを捨てられなかった。わたしはきっと、そんな彼に傷ついていたのだ。そしてその気持ちを消すことも飲み込むこともできなかった。今この瞬間さえも。
「なあ」
初めて振り返った彼は、痛みもやるせなさも全部知った顔をしていた。わたしも同じ顔をしているのだろうか。
「なに?」
「お前は……俺にとって、ひとの世界で生きていくための重りだった。お前がいたから俺はひとでいられたんだ。お前のことだけは、俺は忘れないから」
「ばか」
よりによって、それを既に闇に半分半身を突っ込んでから言うなんて。
でもそれでいい。
明けない夜を歩いていくと言うのなら、わたしがあなたの太陽になる。
何気ない振り
昏い世界の片隅で、やけに大粒の雨が降りしきる廃工場の中、少年がひとり立っていた。
少年はこれから世界を殺すのだ。
彼はヒーローだった。十五歳の誕生日、少年は世界を壊して作り変えるヒーローになるはずだった。全世界の人々が少年の誕生を待ち望み、成長を祝い、大きくて小さな箱庭を造り上げてきた。
その窮屈な箱は、外界から隔絶された少年の世界の全てだったのに、彼の使命は、何千何万の歴史を抱える本物の“世界”を壊すことなのだ。少年はずっと外の世界が見たかった。きっと壊す時には見られるはずだと思っていた。
そして、少年は昨日世界中が待ちわびたはずの十五歳の誕生日を迎えた。
そこで少年を待っていたのは、歓声でも拍手喝采でも世界を作り変えるためのアイテムでもなかった。
その日、少年はこれまで自分を育ててきた大人達の手によって、ヒーロー失格の宣言と共に箱庭の外へ放り出された。
「……何が、悪かったんだろ」
焦がれていた外の世界はずっと味気なくて、雨は少年の頬を冷たく濡らしていく。
その時、ズドン、と−−−身体で感じた衝撃をそのまま音にしたみたいな、おかしな感覚がした。
−−−−−−カタストロフ。世界の破滅と消滅の足音だ。
これまで、それに最も近い位置にいた少年には不思議とすぐに分かった。終わりが来る。少年が何もしなくても、どうやら世界は勝手に終焉を迎えるらしかった。
けれどきっと、世界が生まれ変わることはない。
雨に濡れる少年の背後で世界がにやにや笑っていた。どうでもいい、そんなこと。少年の命と人生にに意味はなかったのだから。
少年は知らん顔で終末を迎える世界を眺める。
足音はそこらを歩き回って、聞きたくないと少年は耳を塞ぐ。一歩ずつ近づくカタストロフの音は、あまりに寂しかった。