詩歌 凪

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 大切なもの

 春の温かい陽射し。透明に流れる川。いっぱいに香る花。
 少女の髪は若草の上に揺蕩うように広がり、瞳は真っ直ぐに空を見上げているのにどこか物憂げだ。
「やっと見つけた。まったく、いい加減にしてよね。君だけなんだよ、自分の想いを一つも手放さないで後生大事にしてるの。そろそろ掟に従ってわたしに預ける気にならない?」
 突如聞こえた声。少女は自分の横に降り立った彼女−−−“悪魔”の方を見もせずに答える。
「預けるじゃなくて、明け渡すんでしょう。自分の中から想いが消えるより、好きなままで失くす方がずっといい」
「だから、君が胸に抱いているそれ、ずっと持っていくって?」
「そうだよ」
 頷いた少女の顔は、黒く塗り潰されている。少なくとも“悪魔”にはそう見える。彼女の精神と身体がどうしようもないほど侵食されているのが−−−『愛』によって蝕まれているのが。人の心は弱いと人類が気づいたのはいつだっただろう。
 少女の胸の膨らみに手を当てると、弱い鼓動が手のひらを打った。
 人の心は『愛』という重さに耐えきれなかった。『愛』は憎しみや闇よりもずっと重く、痛く、哀しいのだ。
 “悪魔”は少女に再び語りかける。
「君は弱い。ひとであるにはあまりに弱い。その弱さこそが、君が愛するものから手を離すことを妨げている。そしてその弱さこそが、君を『愛』という地獄の中で生きるまでに強くしている」
「だからなに」
 少女が不意に、絞り出すように呟いた。その目に、涙が浮かんでいる。黒い染みのような顔でも“悪魔”にはそれが知れた。
「……何かを好きでいることって、それだけなのに、死んじゃいそうなくらい苦しいんだよ。わたしの命を救ってくれたものを好きになったら、今度はそれのせいでおかしくなっちゃうんだよ」
 少女は涙をこぼす。見えない顔から、空虚な瞳から透明な水を流す。
「だから、いっそわたしをこの心ごとぐしゃぐしゃに壊してよ。愛してるって、わたしにはもうそれだけなんだよ。だからあなたがこんなわたしを裁いてよ」
 少女は醜い顔を晒し、汚れた愛を叫びながらあれほど逃げてきた“悪魔”に縋る。少女は好きなものを好きでいることしかできないのだ。潰れた心を支え続けているのは今でも愛なのだ。好きという気持ちに殺されても、やっぱり少女はそれを捨てられない。
 自分の胸に縋り付く少女の手に“悪魔”はそっと自分の手を重ねる。
「……『わたし』のことを、今でも好きでいるなんてあんただけなんだよ……」
 その言葉は少女に届かない。これまでも、これからも。
 だからこそ、少女は“悪魔”から逃げ続けなければいけないのだ。“悪魔”を−−−大事なものを手放さないように。
 そうと知らぬまま。

4/2/2024, 3:25:16 PM