幸せに
「もう行くの」
薄茶の頭とすらっとした背中に声を掛けると、「ああ」と振り返らないまま返事が返ってきた。
「何処へ行くの。……何を探しに行くの」
「分かんねえ」
彼はいつもどこか遠くを見ていた。大事な何かを無くして、当て所なく探して彷徨っているような、そんな眼差しで。彼の欲しいものは多分永遠に手の届かないところにあって、それを知ってなお渇望は癒えなかった。わたしは、ゆっくりとかつて彼と不器用に繋いだ左手の温もりを思い出す。
不規則に揺れる灯籠の火影、青い空に突き立つ送電塔、濃密な夏の風、珍しくわたしから顔をそらす、僅かに頬を染めた彼。
それはわたしの記憶の中で呼吸をする、“人間”の彼。
今ここに立っているのは、世界の禁忌に踏み込もうとする、感情も情緒も美しいものも残らず屑籠に捨てたひとりの探求者だ。彼は“人間”の自分と“ひとではない”自分を右手と左手に片方ずつ携えて生きるつもりは、既にないのだ。
「……そっか」
名前を付けるには、あまりに未熟な想いだった。彼はとうとう自分の見たいものや知りたいことを捨てられなかった。わたしはきっと、そんな彼に傷ついていたのだ。そしてその気持ちを消すことも飲み込むこともできなかった。今この瞬間さえも。
「なあ」
初めて振り返った彼は、痛みもやるせなさも全部知った顔をしていた。わたしも同じ顔をしているのだろうか。
「なに?」
「お前は……俺にとって、ひとの世界で生きていくための重りだった。お前がいたから俺はひとでいられたんだ。お前のことだけは、俺は忘れないから」
「ばか」
よりによって、それを既に闇に半分半身を突っ込んでから言うなんて。
でもそれでいい。
明けない夜を歩いていくと言うのなら、わたしがあなたの太陽になる。
3/31/2024, 2:22:06 PM