幸せに
「もう行くの」
薄茶の頭とすらっとした背中に声を掛けると、「ああ」と振り返らないまま返事が返ってきた。
「何処へ行くの。……何を探しに行くの」
「分かんねえ」
彼はいつもどこか遠くを見ていた。大事な何かを無くして、当て所なく探して彷徨っているような、そんな眼差しで。彼の欲しいものは多分永遠に手の届かないところにあって、それを知ってなお渇望は癒えなかった。わたしは、ゆっくりとかつて彼と不器用に繋いだ左手の温もりを思い出す。
不規則に揺れる灯籠の火影、青い空に突き立つ送電塔、濃密な夏の風、珍しくわたしから顔をそらす、僅かに頬を染めた彼。
それはわたしの記憶の中で呼吸をする、“人間”の彼。
今ここに立っているのは、世界の禁忌に踏み込もうとする、感情も情緒も美しいものも残らず屑籠に捨てたひとりの探求者だ。彼は“人間”の自分と“ひとではない”自分を右手と左手に片方ずつ携えて生きるつもりは、既にないのだ。
「……そっか」
名前を付けるには、あまりに未熟な想いだった。彼はとうとう自分の見たいものや知りたいことを捨てられなかった。わたしはきっと、そんな彼に傷ついていたのだ。そしてその気持ちを消すことも飲み込むこともできなかった。今この瞬間さえも。
「なあ」
初めて振り返った彼は、痛みもやるせなさも全部知った顔をしていた。わたしも同じ顔をしているのだろうか。
「なに?」
「お前は……俺にとって、ひとの世界で生きていくための重りだった。お前がいたから俺はひとでいられたんだ。お前のことだけは、俺は忘れないから」
「ばか」
よりによって、それを既に闇に半分半身を突っ込んでから言うなんて。
でもそれでいい。
明けない夜を歩いていくと言うのなら、わたしがあなたの太陽になる。
何気ない振り
昏い世界の片隅で、やけに大粒の雨が降りしきる廃工場の中、少年がひとり立っていた。
少年はこれから世界を殺すのだ。
彼はヒーローだった。十五歳の誕生日、少年は世界を壊して作り変えるヒーローになるはずだった。全世界の人々が少年の誕生を待ち望み、成長を祝い、大きくて小さな箱庭を造り上げてきた。
その窮屈な箱は、外界から隔絶された少年の世界の全てだったのに、彼の使命は、何千何万の歴史を抱える本物の“世界”を壊すことなのだ。少年はずっと外の世界が見たかった。きっと壊す時には見られるはずだと思っていた。
そして、少年は昨日世界中が待ちわびたはずの十五歳の誕生日を迎えた。
そこで少年を待っていたのは、歓声でも拍手喝采でも世界を作り変えるためのアイテムでもなかった。
その日、少年はこれまで自分を育ててきた大人達の手によって、ヒーロー失格の宣言と共に箱庭の外へ放り出された。
「……何が、悪かったんだろ」
焦がれていた外の世界はずっと味気なくて、雨は少年の頬を冷たく濡らしていく。
その時、ズドン、と−−−身体で感じた衝撃をそのまま音にしたみたいな、おかしな感覚がした。
−−−−−−カタストロフ。世界の破滅と消滅の足音だ。
これまで、それに最も近い位置にいた少年には不思議とすぐに分かった。終わりが来る。少年が何もしなくても、どうやら世界は勝手に終焉を迎えるらしかった。
けれどきっと、世界が生まれ変わることはない。
雨に濡れる少年の背後で世界がにやにや笑っていた。どうでもいい、そんなこと。少年の命と人生にに意味はなかったのだから。
少年は知らん顔で終末を迎える世界を眺める。
足音はそこらを歩き回って、聞きたくないと少年は耳を塞ぐ。一歩ずつ近づくカタストロフの音は、あまりに寂しかった。
ハッピーエンド
黒い幕が襲ってくる。
既にわたしの身体はボロボロだった。生き物や武器に姿を変えて絶え間なく襲い掛かってくる黒や真紅や白の幕を避け続け引き裂き続けて、どれほどの時間がたったのか、もう分からない。
狂犬を模した黒い幕を素手で掴んで左右に引っ張るが、力は込めたそばから抜けて行く。
「粘るねえ」
肩から声が聞こえてきて、わたしは無理矢理手に力を入れ直し、幕を破いた。
わたしは白雪姫の継母だ。ヘンゼルとグレーテルの魔女だ。赤ずきんちゃんのオオカミだ。だから、わたしは罰を受けている。悪役は制裁を受けなくてはいけないから。
「悪役が悪役であるのに理由なんていらない。主人公の幸せを邪魔するっていうだけで充分なんだよ。なのに君はそれを絶対に受け入れなかったね。君は主人公と悪役に差異を見出すことがとうとうできなかった。『善』と『悪』に違いがあるということを、君は信じなかった」
声は話し続ける。ある時は白雪姫、ある時はシンデレラ、ある時は誰かも分からない純粋な目の女の子。主人公の善人。今は妖精だった。
「自分の望む道を進むことが幸福で、選んだ人生を駆けることがハッピーエンド。それが、たとえ日の当たる世界でも、日陰の世界でも」
「ボクは君のその主張が嫌いじゃない。けれど、自分を曲げないと、君が辛いだけだよ」
わたしも彼女は嫌いじゃない。けれど、曲げられない自分が、わたしにはある。
わたしはずっと悪役だったのだ。たくさんの人を手にかけて、たくさんの人を裏切って、たくさんの嘘をついて、その全てをたったひとりに捧げてきた。だから、わたしは悪役でなくなるわけにはいかないのだ。わたしは善人として自分の人生を選んだのでも、悪人として罪を重ねてきたのでもない。
さあ、行こう。エンドロールはすぐそこだ。
見つめられると
その日は雨が降っていた。午前零時を秒針が刻んだ頃、背の高い人影が第四倉庫の片隅で一つ目のついた紅く小さいモノを見つけた。そのモノは、拾い上げた彼の手の中でトクントクンと微かに脈打っていた。
彼はヒトを名乗り、モノは心臓を名乗った。
ひとりぼっちの彼と紅いモノは、その日に友達になった。
心臓は真ん中についた黒い目を瞬かせ、彼に『望み』を尋ねた。心臓は、彼の願いをなんでも叶えようと思っていた。けれど彼は首を振る。
「何もないよ。僕に望みなんてない」
その言葉が嘘と知るに、彼の瞳はあまりに雄弁だった。彼の飢え乾いた瞳の色を満たしたくて、心臓はそう尋ねたのだから。
けれど彼は、「そんなことどうでもいい」と、およそ嘘とは思えない口ぶりで言う。
「そんなことより、僕は君の望みを叶えたい。僕の持ち物は少ないけれど、持っているものならなんでもあげる」
「……何を、持っている?」
「昼の世界と時間と、それから心」
心臓が持たないものばかりだった。そして、心臓の望むものばかりだった。
心臓は、乾いていたのは己だったことを知った。
多くの人間が心臓に望みを告げ、多くのものを欲しがった。けれど、唯一願いを叶えたいと思った彼だけが心臓に何も望まなかった。それがどんな意味を持つのか、心臓には分からない。
そして今、彼のその瞳を見て、ようやく気がついた。
数多の望みを叶えてきたのに、心臓は己の望みを叶える方法だけを知らないのだった。
My Heart
「ごめんね、俺、多分もう駄目だわ」
渇いた目をして、ダブルベットで甘さの欠片もない添い寝をする私に彼はそう言った。
「駄目ですよ。まだ、何も終わってないじゃないですか。まだ人生の終わりは見えていない。……いつか一緒に遊園地に行ってくれるって言ったじゃないですか」
「あ―……ごめん、忘れてた」
彼は苦笑混じりにそう言う。楽しみにしていたのは本当だというのに。
けれど、彼が人目についてはいけない立場であることは傍にいる私が一番理解している。彼が笑顔で私を連れ出してくれた大きな野原はもうどこにもない。その心にさえ。「駄目ですよ」と、私は繰り返す。
街中では彼の顔写真がいっぱいに貼られ、警察やどこぞの探偵がその行方を追っている。小さな物音に過剰に反応する彼の姿はもう見たくない。
「ねえ、寝ないなら新しい曲を作りましょう」
「君、結構容赦ないよな」
酷い言い方だ。私は心底彼の心配をしているというのに。
「なあ、忘れたわけじゃないだろ。俺がこんなことになった理由」
「忘れるわけないじゃないですか」
「だったら分かるだろ。もう五線譜もパソコンも見たくない」
彼は寝返りを打って私に背を向ける。
手を伸ばしかけて、肩に触れる手前でやめた。だって、私の手は彼に触れられないのだ。物理的に、触ることができない。
少しだけ過去の話をしよう。
彼は時代に愛された音楽の神の寵児で、私は彼の音に救われたひとりの聞き手だった。私と彼の出会いは私だけの思い出だから割愛する。私達の厳密には何もなかった。ただ、音楽の神とやらが彼を見捨てたのだ。
彼は日を追うごとに音を紡げなくなった。私はそれを許せなかった。ただそれだけのことだ。
けれど、音楽の才能から転落した彼を犯罪者に落としたのは、紛れもなく私だった。
「書いてください。お願いします。どうかもう一度、書いてください」
「無理だよ、お前の好きだった俺はもう死んだんだ。……お前、自分がなんで死んだのか忘れたのかよ」
「そんなわけありません。でも、書いてください。私が望むのはそれだけなんです。だって、貴方は私の神様だから」
「違う」
彼はこちらを向くと、手を伸ばして私を抱きしめた。当然ながらその身体は私をすり抜ける。
感じないはずの温もりが伝わってきたように錯覚して、流れるはずのない涙が私の視界を滲ませる。彼が昔から癖のように繰り返すこの行為の理由は、愛じゃない。それでも彼は私の全部で、私の心そのものだった。なのに、目の前の現実は哀しいくらい残酷だ。
かつて彼を抱き返して手を握り続けた私は、もうどこにもいない。
今の私は、彼の震える頭を撫でることもできないのだ。