My Heart
「ごめんね、俺、多分もう駄目だわ」
渇いた目をして、ダブルベットで甘さの欠片もない添い寝をする私に彼はそう言った。
「駄目ですよ。まだ、何も終わってないじゃないですか。まだ人生の終わりは見えていない。……いつか一緒に遊園地に行ってくれるって言ったじゃないですか」
「あ―……ごめん、忘れてた」
彼は苦笑混じりにそう言う。楽しみにしていたのは本当だというのに。
けれど、彼が人目についてはいけない立場であることは傍にいる私が一番理解している。彼が笑顔で私を連れ出してくれた大きな野原はもうどこにもない。その心にさえ。「駄目ですよ」と、私は繰り返す。
街中では彼の顔写真がいっぱいに貼られ、警察やどこぞの探偵がその行方を追っている。小さな物音に過剰に反応する彼の姿はもう見たくない。
「ねえ、寝ないなら新しい曲を作りましょう」
「君、結構容赦ないよな」
酷い言い方だ。私は心底彼の心配をしているというのに。
「なあ、忘れたわけじゃないだろ。俺がこんなことになった理由」
「忘れるわけないじゃないですか」
「だったら分かるだろ。もう五線譜もパソコンも見たくない」
彼は寝返りを打って私に背を向ける。
手を伸ばしかけて、肩に触れる手前でやめた。だって、私の手は彼に触れられないのだ。物理的に、触ることができない。
少しだけ過去の話をしよう。
彼は時代に愛された音楽の神の寵児で、私は彼の音に救われたひとりの聞き手だった。私と彼の出会いは私だけの思い出だから割愛する。私達の厳密には何もなかった。ただ、音楽の神とやらが彼を見捨てたのだ。
彼は日を追うごとに音を紡げなくなった。私はそれを許せなかった。ただそれだけのことだ。
けれど、音楽の才能から転落した彼を犯罪者に落としたのは、紛れもなく私だった。
「書いてください。お願いします。どうかもう一度、書いてください」
「無理だよ、お前の好きだった俺はもう死んだんだ。……お前、自分がなんで死んだのか忘れたのかよ」
「そんなわけありません。でも、書いてください。私が望むのはそれだけなんです。だって、貴方は私の神様だから」
「違う」
彼はこちらを向くと、手を伸ばして私を抱きしめた。当然ながらその身体は私をすり抜ける。
感じないはずの温もりが伝わってきたように錯覚して、流れるはずのない涙が私の視界を滲ませる。彼が昔から癖のように繰り返すこの行為の理由は、愛じゃない。それでも彼は私の全部で、私の心そのものだった。なのに、目の前の現実は哀しいくらい残酷だ。
かつて彼を抱き返して手を握り続けた私は、もうどこにもいない。
今の私は、彼の震える頭を撫でることもできないのだ。
ないものねだり
血と土埃に塗れたその混乱の中で、彼女の声は晴天を通したようによく聞こえた。小柄な身長は、十重二十重の敵陣に囲まれて既に見えない。
鎧を通して腹から染み出す血が、幾筋も血溜まりに向かって川を作る。あ、オレ、とうとう死ぬんだ。そう思った時。
「うわっ……馬鹿、何やってんの!?」
さっきまで姿が見えなかった彼女の声が、すぐ傍で聞こえた。
目を開けると、鎧も兜も何処かへすっ飛んでいった生身の彼女が覗き込んでいる。身を守るものを全部無くしているというのに、何故か自分よりも五体満足だ。何となく安心して、溜息をつく。
「うるせえ、後ろから不意打ちされたんだよ。多分そろそろ死ぬ」
「はあ?背中の傷は剣士の恥だって知らないの?ていうか、わたしには出血してるの後ろじゃなくて前に見える」
早く起きな、と腕を引っ張られる。痛い。
文句を言おうとしたその時。彼女の姿は、ふっと掻き消えた。霞む視界には青空が見えて、ただそれだけだ。……ああ、夢か、或いは幻覚だったのか。
目を瞑れば、かつての彼女の姿が思い浮かぶ。どんな劣勢も一迅の風さながらに現れては戦況をひっくり返す常勝将軍。彼女は、ずっと自分の光だった。
だから隣に立てた時は、信じられない心地がしたのだ。でもそれももう終わる。既に戦力差は十倍近い。彼女がこの最果ての地に辿り着いた時には、手遅れだった。
「でもよ……お前には、『常勝将軍』で、いてほしいんだ」
ほとんど陥落したこの地で、一部だけ敵兵の集団がある。前方、距離五十m。そこにいるのだ。一瞬だけ見えた彼女は、ちゃんと鎧も兜も身に着けたままだった。
美しい鬼神のように剣を振るう彼女に当たらないように、傍に落ちていた半ばから折れた槍を人生最後の力で振りかぶって投げる。
ずぶり、という音の後、その集団から細い人影が飛び出した。
「ありがと」
恐らく誰に向けたのかも分かっていないだろうその一言だけを残し、彼女は敵兵の馬を強奪して手綱を打った。
さよならだ、オレの常勝将軍。
彼女は振り返らない。いつものことだ。けれど、ずっと。
運命に抗うその背中が自分を振り向くのを、オレは今か今かと待っている。
好きじゃないのに
スマホを開いてすぐに目に飛び込んでくる、彼の新曲。指が伸びる。指を引っ込める。そんなことを数回繰り返して、結局スマホの電源を落とす。
馬鹿みたいだ。
私が好きなのは、彼じゃなくて、その隣にいるひとなのに。そうあるべきなのに。中性的な高い声、笑うと優しく崩れる表情、どんな人も強引に惹かれさせる圧倒的な引力。すべて私が嫌いになったはずのものだ。彼の苦悩は美しく、彼の言葉は凄艶で、誰もが一目で惹きつけられる。
どれほど努力しても報われないなんて、そんなの悲しすぎるから、私はずっと前になんでも持っている彼を卒業することに決めた。代わりに彼の隣に立つ“彼”を好きになった。“彼”の大きな器は、“彼”の弛まぬ努力は、いつも彼の陰に隠れていたから。好きになった、はずなのだ。その声、その笑顔、その優しさ。私は惹かれていたのだ。
けれど、どうしても眼裏に残る神の如き残像を振り払うことができないのだ。
夢が醒める前に
「今日は何処へ行くの?」
「別に」
答えにもなっていないことを返しながら、私はつかつかと歩く。彼女の方は振り返らない。
小さな銃と何枚かの銅貨、それが私の持ち物全部だ。まさかそれを狙っているわけではないだろうが、黒い艶々とした髪が視界の端にチラチラ覗いて、私は一層足を早める。
「ねえ、何処行くの。ねえってば」
彼女は食い下がってくる。けれど、口調は笑っている。無視してもキツイ言葉を吐いても、彼女は怒らない。
いつもならもう相手にしないけれど、今日は数歩進んだ後に足を止めた。彼女が不思議そうに私の正面に回ってくる。あいも変わらず綺麗な顔だ。
「……どうしていつも着いてくるの。私に付き纏ったってどうしようもないのに」
「え?どうしてって?」
首を傾げる彼女。
「……もういい」
苛々する。
私はふいっと顔を背けて再び歩き出す。彼女は追って来なかった。
鼻につく草の甘い匂いを振り払うように上を向くと、天いっぱいに張り巡らされた格子が蒼天を覆い隠していた。金の鳥籠。
何処へも行けないことなんて、分かっている。
その証拠に、歩いても歩いても終わりに辿り着いたことはない。
「ねえ」
振り返ると、彼女は「ん?」と再び首を横に傾けた。その純粋無垢な顔が嫌いだった。一人ぼっちの私に纏わりついてくる無神経な無邪気さが憎らしかった。
あの雨の日に笑顔で傘を差し出してきた時から大嫌いだった。
「貴女は誰なの」
彼女は笑った。
「君をずっと見ていたよ。歩いても走っても何も変わらないのに、毎日毎日何処かへ行こうとしていたね。逃げたいわけでもないのに」
「悪い?」
「ううん。面白いよ」
私は彼女に近づいた。黒く澄んだ瞳が、私を射貫く。彼女が笑う。綺麗な顔、綺麗な目、綺麗な笑顔。
その瞬間、私はポケットから銃を取り出して構えて間髪入れずに引き金を引いた。
パーン……
その破裂音の後、草の上に倒れていたのは私の方だった。
彼女は広がった血溜まりを一瞥して、また、笑った。
「あ……が……?」
「さようならだね。本当はもう少し見ていたかったけれど」
声が出せない私に、彼女はそう言う。まさか本心なのかと錯覚するほど寂しげな表情で。
「大好きだったよ。この鳥籠から羽ばたこうとした、愚かな君が」
孤独に戻るくらいなら、ここで終わらせてあげる。
彼女はそう言い残し、くるりと踵を返した。
「ま……っ、ぇ……」
私は震える手を伸ばす。
あの時差し出された傘は、私の宝物なのだ。
それだけでも、伝えたかった。
胸の高鳴り
ひとめぼれ。
私の人生には、まだない経験だ。運命の人とやらに出会ったらひとめぼれするのが定石らしいけれど。あの主人公も、あのヒロインも、出会った瞬間ビビッときていたみたいだけれど。
そんなのいらないのだ。だって、私の運命の邂逅と呼べるものとの出会いは平凡だった。或いは、私の手の中にあった。私の運命の出会いは私が作った軌跡に宿るのだから、出会いはきっと、特別じゃなくていい。
運命かどうかは、私が決めるのだ。
だから、幾許をいくつも積み重ねてきたこの胸の少しうるさい鼓動は、私が描いたあなたとの奇跡だ。