ないものねだり
血と土埃に塗れたその混乱の中で、彼女の声は晴天を通したようによく聞こえた。小柄な身長は、十重二十重の敵陣に囲まれて既に見えない。
鎧を通して腹から染み出す血が、幾筋も血溜まりに向かって川を作る。あ、オレ、とうとう死ぬんだ。そう思った時。
「うわっ……馬鹿、何やってんの!?」
さっきまで姿が見えなかった彼女の声が、すぐ傍で聞こえた。
目を開けると、鎧も兜も何処かへすっ飛んでいった生身の彼女が覗き込んでいる。身を守るものを全部無くしているというのに、何故か自分よりも五体満足だ。何となく安心して、溜息をつく。
「うるせえ、後ろから不意打ちされたんだよ。多分そろそろ死ぬ」
「はあ?背中の傷は剣士の恥だって知らないの?ていうか、わたしには出血してるの後ろじゃなくて前に見える」
早く起きな、と腕を引っ張られる。痛い。
文句を言おうとしたその時。彼女の姿は、ふっと掻き消えた。霞む視界には青空が見えて、ただそれだけだ。……ああ、夢か、或いは幻覚だったのか。
目を瞑れば、かつての彼女の姿が思い浮かぶ。どんな劣勢も一迅の風さながらに現れては戦況をひっくり返す常勝将軍。彼女は、ずっと自分の光だった。
だから隣に立てた時は、信じられない心地がしたのだ。でもそれももう終わる。既に戦力差は十倍近い。彼女がこの最果ての地に辿り着いた時には、手遅れだった。
「でもよ……お前には、『常勝将軍』で、いてほしいんだ」
ほとんど陥落したこの地で、一部だけ敵兵の集団がある。前方、距離五十m。そこにいるのだ。一瞬だけ見えた彼女は、ちゃんと鎧も兜も身に着けたままだった。
美しい鬼神のように剣を振るう彼女に当たらないように、傍に落ちていた半ばから折れた槍を人生最後の力で振りかぶって投げる。
ずぶり、という音の後、その集団から細い人影が飛び出した。
「ありがと」
恐らく誰に向けたのかも分かっていないだろうその一言だけを残し、彼女は敵兵の馬を強奪して手綱を打った。
さよならだ、オレの常勝将軍。
彼女は振り返らない。いつものことだ。けれど、ずっと。
運命に抗うその背中が自分を振り向くのを、オレは今か今かと待っている。
3/26/2024, 12:18:30 PM