ひそひそ、ひそひそ。
笑い声を交えながら囁かれる悪巧み。
暗く長い廊下をゆっくりと進むごとに、その内容が徐々にはっきりと聞こえてくる。
角を曲がってその先を見遣れば、一連の怪異の犯人たち、ビルに住み着くお化けたちが輪になって騒いでいた。
真っ直ぐに僕が近付いているのも構わずに、大胆な悪戯会議が続けられる。
うん。全く以て、警戒ゼロ。
これは完璧になめられているようだ。
そちらがそういう構えなら、やっぱり遠慮は要らないか。
「こんばんは。お楽しみのところ、邪魔してごめんね」
ぴたりと歩みを止めて声をかける。
そこで初めて彼らの雑談が止んだ。
漸く僕の気配に気が付いたか。
呆気に取られた彼らの視線が集中する。一斉にぎょろりと向いた目玉の迫力に、同類の僕もうっかり怯んでしまった。
けれども、気圧されている場合ではない。
へらりと笑い、気色ばむ彼らを静止した。
「いやあ、驚かせてごめんね。気配を消すのは得意なものだから。友人にもそれでよく叱られるんだよ。僕の悪いところだよね~。長年染み付いた癖は簡単に抜けなくって」
愛想を振り撒いたところで、一度強ばった彼らの緊張は解かれない。
いいさ。今更警戒されたところでもう遅い。
僕の接近を許した時点で、彼らの命運は決まっているのだから。
「君たちも、楽しいことはなかなか辞められないよね~。驚かせて、良いリアクションが返って来るのなら尚更だ。――でもね」
曇っていた夜空が晴れて、雲の切れ間から月が顔を出す。
その光が窓から差し込んで、闇に紛れていた僕の羽が大きく照らし出された。
薄く微笑めば、口元から覗く八重歯も光を受けて白くきらめいた。
「お遊びでも、怪我人出しちゃ、駄目でしょ?」
僕の怒りを察知して、勘の良いものは素早く逃げ出した。
遅れた他の物の怪たちも、続いて方々へ散って行く。
良いね。鬼ごっこはもっと得意さ。
何せ僕は吸血鬼。正真正銘の鬼ですから。
「やり過ぎたよね。僕の友人まで傷付けたの、許さないから」
その日、明け方近くまで。逃げ惑う物の怪たちの断末魔が、建物中に響き渡った。
ばっちりお仕置きが叶って、僕はとっても満足だったのに。
無線でその様子を聞いていた友人が、「おまえの方こそやり過ぎだ」と呆れてくれるから困ったものだ。
まったく。お化け相手にまでお人好しなんだから。
お互い様ってことで、良いじゃんね?
(2024/09/22 title:056 声が聞こえる)
クラスではあまり皆と話さない。
部活は入っていなくて、授業が終わるとすぐさま帰っていく。
がさつに見えるけど、実は料理がとても上手い。
持ってくるお弁当は彼が自分で作っている。
幼い頃に母親を亡くして、今はお父さんと二人暮らし。
だから料理だけじゃなくて、家事も一通り出来るすごい男の子で。
勢いで誘った料理部の活動にも、「皆と騒いで作るのも楽しいから」と欠かさずに参加してくれる。
私がばっさり失恋したときも、深くは聞かずに側にいてくれて。
悔しくて悲しい気持ちを一緒に消化してくれた。
心強い部活仲間で、友人で。
彼をさらに知る度に、好きな気持ちも膨らんだ。
この好きは、恋? それとも熱い友情の延長なの?
どちらなのかは自信がないけれど、貴方を映画に誘っては駄目かなあ。
部活の連絡事項では散々メッセージのやり取りをしてきたけれど、いざ純粋に遊びのお誘いとなると、何だかとても緊張してしまう。
『観たい映画があるんだけど、受験勉強の息抜きに一緒に行きませんか?』
何回も消して迷った文面は、ちょっと他人行儀になってしまった。
それでも他に良い文面も思い付かなくて、えいっ! と勢いに任せて送信した。
数分待って。
貴方から届いたのは「オッケー!」の可愛いスタンプ。
ぶっきらぼうな彼の印象からは意外だったけれど、彼は返信にスタンプを多用する。
前に理由を聞いたら、「簡単に済むから」と、これまた彼らしい理由に笑ってしまったっけ。
まだ映画のタイトルも伝えていないのに即答してくれたのが嬉しくて、うじうじ躊躇っていた心が晴れ渡る。
スマホを握ったまま、小さくガッツポーズを決めていれば、追って彼から今度はメッセージも送られてきた。
浮かれてすぐさま画面を開いた。
けれども、その内容を確認して固まってしまう。
『他の三年にも声かけようか。王子とかも誘う?』
彼の優しさに、がっくり項垂れる。
違う。違うよ!
確かに。学年一番の優等生、あの王子のことは好きだったけれど、バレンタインで振られてちゃんと諦めがついたんだから。それも、貴方のお陰で。
そりゃあ、今でも格好いいなあって。アイドルを応援する憧れの気持ちみたいなのは残っていて。
王子が料理部に参加したいって聞いたときは思わずはしゃいでしまったけれど。
そんな橋渡しみたいなこと、してくれなくても大丈夫なのに。
王子と彼が親しくなって以来、私が好きだった人を察していた彼は、時々こうして仲を取り持つような真似をしてくれる。
けれどもその度に、彼の優しさと勘違いに心がぎゅっと締め付けられて、実はちょっと辛い。
こんなに悩んで。やっぱりこれは恋する気持ちなの?
ああでも。彼の言うように、皆で出掛けるのも楽しそうだ。
提案を断るのも何だか変だし。ああもうどうしよう!
名前の付かない気持ちと、ワクワクする気持ちを抱え込んで。
トーク画面を見つめたまま。再び頭を悩ませる私は、すっかり恋する乙女なのかもしれない、と。
彼には内緒で、こっそり赤面した。
(2024/09/15 title:055 君からのLINE)
バチーン!
ドラマやアニメの効果音よろしく派手に叩かれた。
避けることも出来たさ。
けれども、今までに類を見ない彼女の剣幕に、ここは敢えて受けて終わりにするのが得策と考えた。
だから、迫る右手の勢いそのままに、彼女渾身の平手打ちを甘んじて受け止めたんだ。
思惑通り。叩いた本人は、徐々に赤く色づく頬に怯んで勢いを失った。
「――ごめんなさい!」
そう言って走り去る姿に安堵する。
何度経験しても、寄せられる好意を断るのは心苦しい。
一度クラスメイトにそう気持ちを吐露したら、何を贅沢な。と呆れられた。
でも、仕方ないじゃないか。
好きだと伝えられても、心が動かないんだから。
仮初めで付き合ったところで、今動かない気持ちが変わる保証なんて無いだろう?
だったら初めから心を鬼にして、すっぱり断った方がお互いのためになる。
ため息を吐いて痛む頬を擦っていれば、ポケットに入れたスマホがぶるりと震えた。
画面を開くと、部活仲間からメッセージが届いている。
『まだ来ないのか? 肝心のおまえが居ないと、俺が下準備してても意味ないんだけど』
添えられた不満顔のスタンプに笑ってしまう。
そっか。今日は彼に料理を教わる日だ。
呼び出された用件に時間がかかってしまったお陰で、部活の開始時刻を過ぎていたことに気が付いた。
家庭科調理室に向かって歩き出せば、追加でもう一件メッセージがやって来た。
『部長も待ってるし早く来いよ』
頓珍漢な催促に思わず吹き出す。
打たれた頬がひきつってチクリとしみた。
何を言っているんだ。
どこをどう見たって、君がご執心の彼女は、僕への恋心はもう持っていない。
寧ろ君へ心が向いているのは明らかじゃないか。
いつまでも彼女が僕を好きだと勘違いして、まったく世話の焼ける師匠である。
頬はまだ痛かったが、笑っている内にいつしか足取りも早くなった。
廊下ですれ違う人たちが、僕の頬に驚いてぎょっと振り返っているようだったが構わない。
憂鬱な気分も、何処かへ吹き飛んでしまったようだ。
鈍感な彼のように、夢中になれる思い人はまだ居ないけれど。
いつかそんな恋に出会えたら、その時は彼に相談してみようか。
そんなことを考えながら、調理室へと急ぎ駆ける。
そうして漸く辿り着き、扉を開けた先には、待ちくたびれた師匠の背中。
扉が開いたことに気が付いて、文句でも言いたげに彼はゆらりと僕を振り返った。
けれども、その不満げな顔は一瞬で消え失せた。
「え。ちょ、どうしたんだその顔!」
さっきまでの不機嫌はどこへやら。
慌てふためいて僕の頬に注目し、遅れて周りの部員たちからも悲鳴が上がる。
あれ、もしかして。思っていたより酷い怪我なのか、これ。
しっかりと確認もしないまま走ってきたけれど、近くの窓に映る自分の頬を見て、今更ながらに失敗したと気が付いた。
うわ。結構赤くなってるじゃん。確かに、痛かったもんなあ、さっき。
似たシチュエーションがあるのなら、次はやっぱり避けるとしよう。
呑気に構える僕を置き去りに、周りがばたばたと騒がしくなる。
「部長。俺、保健室連れていくわ」
「あ、待って! 王子。ちょっとの間だけど、これで冷やして行って!」
エプロンを脱ぎ捨て、師匠が僕の腕を取る。
それを部長がすかさず引き留めて。僕の手に、ひんやりとしたものを握らせた。
花柄のハンドタオルにくるまれた、保冷剤が一つ。咄嗟に冷蔵庫の中から用意してくれたのだろう。
「――ありがとう」
小さくお礼を呟けば、部長が青い顔で頷いた。
彼女だけじゃない。師匠に、他の部員たち皆もだ。
「ごめん、ね」
ああ、こんな顔をさせるなら。遅れてでも、きちんと先に保健室へ寄れば良かったよ。
上手く立ち回ってきたつもりが、全然駄目。
僕のせいで、皆の部活の時間が台無しだ。情けない。
保冷剤を握りしめ、うつむく僕を気遣ってか。隣の彼がくしゃりと僕の頭を掻き回した。
「ほら、ちゃんと冷やせよ。まずはおまえの怪我が先。行くぞ」
ぐいっと背中を押され、師匠と二人歩き出す。
早足で廊下を進み、途中思い出したように、「気分は悪くないか。クラクラするとか」と僕を気にかける彼はやっぱり優しい。
押しかけるようにして近付いた僕なのに。
初めの頃の不信感はなくなって、今ではすっかり部活の仲間として扱ってくれる。
凄いなあ。周りの皆は、外面の良い僕のことを王子だなんて呼んでもてはやすけれど、そんなの買い被りだ。
ひねくれた僕よりも、彼の方がよっぽど王子さまに相応しい。
ああ、勿体ないな。
真面目な彼こそ、早く恋が実れば良いのに。と、頬を冷やしながら、ぼんやり願った。
(2024/09/12 title:054 本気の恋)
(2024/11/03 ※ 加筆修正して改稿)
何で。何でだよ。
勇者だの何だのと、一世一代の大舞台に引っ張り上げられて。
皆のためになるのならと、こうして魔王も打ち倒したのに。
急転直下。青天の霹靂。
故郷へ帰って呆然とした。
大役を終え、いの一番に会いたかった幼馴染みは、とうの昔に亡くなっていたらしい。
僕が旅立ってすぐのこと。急襲した魔物にやられたのだと。
嘘だ。そんな大事な話、どうしてずっと黙っていたんだよ。
世界を救えば、また大切な人と笑って過ごせると信じていたのに。
何ですぐに知らせてくれなかったんだ。
今更になって、こんな裏切り許せない。
些細な願いも叶わない。
君が居ない世界なら、平和な世界に意味もなければ興味もない。
慰めてくれる誰も彼も、何食わぬ顔で僕を騙し続けた嘘つきで、人の面を被った鬼だらけ。
今までなら曇って濁った心でも、君の笑顔で晴れたのに。
いくらあの眩しい笑みを思い描いても、すべて黒い感情に飲み込まれ、奥底の闇へと沈んでいく。
最期に浮かんだ灯火も、虚しく揺らいで消え失せた。
ああ。もう、どうでも良い。
さようなら。僕の愛した美しき世界よ。
これから先は、僕がこの世の魔王となろう。
新たな勇者が顕るその日まで、僕と一緒に戯れようか。
遠慮は要らない、さあ共に。
地獄の扉を開けるとしよう。
(2024/09/02 title:053 心の灯火)
「名前で、呼ばないの?」
昼休みの時間。
教室まで料理部の連絡事項を伝えに来た部長を見送っていると、すぐ近くから声をかけられた。
後ろへ捻っていた体を正面に向き直り、声のした方を見やれば、彼の有名なクラス委員、通称王子が、弁当袋片手に空いている前の席へ腰かけようとしているところだった。
学年トップの優等生男子となど、クラスが同じだけで今まで何の接点も無かったのに。先日の調理実習にて、一緒の班で調理を手伝って以来、何故だかちょくちょく声をかけられる。
一体どういう風の吹き回しなのか。
いつもつるんでいる連中はどうしたんだ。
さも当然のように向い合わせで陣取って、俺と弁当を食べようとしないで欲しい。
急な変化が謎過ぎて意味不明だったが、かと言って追い払う理由も思い浮かばず。
仕方がなく、そのまま俺も自分の弁当を机へ広げて話に乗った。
「別に、部長は部長だし。どう呼んだって良いだろ」
「ふーん。付き合ってるんだから、呼んであげれば良いのに」
――思わぬ返しに、口に含んだ白飯を飲み込み損ねた。
「大丈夫?」
げほげほと盛大にむせ返す俺とは対照的に、聞き流せない発言をかました本人は、けろりと澄ました顔で首を傾げている。
がやがやと騒がしい休み時間。幸いなことに、俺たちの会話に注目する野暮なクラスメイトは居なかった。
喉のつかえが治まるのを待ってから、向かいの王子にずいっと顔を寄せた。念のため、声量を絞って問い質す。
「誰と、誰が。付き合ってるって?」
「君と、さっきの子」
「それ。誰が言ってんの」
「さあ? 出所は知らないけれど、噂で聞いたよ。違うの?」
「ちっげーよ! だいたい、おまえが一番知ってるだろ。俺が部長の好みじゃないことは!」
自分で言うのも悲しいが事実である。
去る二月のバレンタイン。部長はこの王子に告白して振られている。あれだけ泣かせておいて、忘れたとは言わせない。
部長の敵は俺の敵。
あ、いや違う。部長は逆恨みのように敵とは思っていないだろうけれど、俺にとっては憎き恋敵。
俺が責めるのはお門違いの話だが、あの時の部長の落ち込み様を思い出すと、小声ながらについつい語気も粗くなった。
ジト目で王子に訴えかければ、俺の言わんとすることが通じたのか、王子は「え? ――あ~。まあ、うん」と言葉を濁して目を泳がせた。
やっぱり覚えてるんじゃねえか。
ため息を吐いて、味わい損ねた弁当を改めて口へ放り込んだ。
「まったく。どこの誰だか知らねえけれど、いい加減な噂流しやがって。どこに目付けてんだよ。部長が俺に気がないことくらい、見てりゃ分かるだろ?」
「そうかなあ。君たち最近仲良いじゃん。彼女、クラスも違うのによく話しに来るし。一緒に居るのも見かけるし」
「部活が一緒なんだから当たり前だろう? そんなので嘘流されたら堪らねえよ。部長にも迷惑かかるし」
「ん~。そこは同感だけど。でもまあ、料理部に入部した男子ってことで君も一時期有名だったから。格好の噂のネタだったんだろうね。苦労するよね、お互い」
似たような経験が自身にもあるのだろう。そう王子に慰められはしたが、憐れまれたところで嬉しくはない。
ただでさえ告白する根性もなく友人関係のまま留まっているのだ。端から見れば阿呆みたいかもしれないが、俺なりの事情にペースもある。
外野が面白がって、余計な茶々や波風を立てるのは止して欲しい。
――とは云えどもこの噂。ひょっとして、部長の耳にも聞こえている話なのだろうか。
預かり知らぬところで起きていた事態とは云え、知った上で毎日普通に会話をしてくれていたのだとしたら申し訳ない。
踏ん切り付かないまま部活仲間を続けている自分が恥ずかしくなる。情けない。
げんなりと沈んだ心に釣られ、楽しみにしていた弁当も、何だか味がしなくなってきた。
せっかく詰めてきたミニハンバーグなのに。勿体ないことをした。
「で?」
「うん?」
先を促せば、王子はきょとんとした顔で首を傾げた。
俺の机の一角を借りる形で弁当を広げ、引いた椅子に横座りのまま箸を進める。おにぎりを頬張る姿も涼やかで。
悔しいけれど、部長が憧れる気持ちも分かってしまい複雑だ。
雑念を振り払うようにため息を吐く。
その勢いに乗せて、ずっともやついていた疑問もぶつけてみた。
「まさか、噂の真偽を確かめるために寄ってきたんじゃないだろう? この間までろくに話もしたこと無かったのに、一体どういう風の吹き回し?」
先生たちも一目置く様な優等生が、冷やかしのためだけに俺にちょっかいを出すとは思えない。
知らぬ顔で弁当を食べ続けても良かったが、残念ながら、気がかりを残したまま愛想良く振る舞えるほど器用な性分ではない。
いい加減、その辺りの白黒をはっきりさせておきたいのだ。
食べる手を休めて正面に座る王子を見返せば、向こうも箸を休めてごくんと卵焼きを飲み込んだ。
「――君ってさ」
優雅にお茶も一口飲み干してから、王子がおもむろに口を開いた。
「実習のときも思ったけど。普段は大人しいのに、言うときは遠慮無く言ってくれるよねえ」
それに続き目線を外して、「まあ。恋愛方面には上手く発揮されていないみたいだけど」などと小さく呟くものだから、思わずぴくりと頬が引きつった。
俺の中で、王子の株が急落する。
前言撤回。こいつ、やっぱり喧嘩売りに来たみたいだぞ。
「あのなあ」
「ああごめん。悪く言いたい訳じゃないんだよ」
お褒めに預かった言葉の通り、早速反論してやろうと思ったのに。不穏な空気を察知してか、すかさず王子に止められた。
「寧ろそこが気に入ってさ。一つ頼みがあるんだ」
「頼み?」
ますます怪しんで、聞き返した語尾が尻上がりになる。
この期に及んで一体何を言うつもりだ。
眉を潜めて警戒する俺に構わずに、にこりと笑って王子は用件を言った。
「僕に、料理を教えて欲しいんだ」
「――はあ?」
思いがけない申し出に、頭の整理が追い付かない。おかげで先程の返し以上に感じの悪い応えとなってしまった。
だって、おかしいだろう。
俺が、王子に、教える?
さっきの部長と付き合ってる説といい、何がどうしてそうなるんだ?
「――何で?」
しばらく考えを巡らせたが、聞きたいことが多すぎてまとまらない。
やっと絞り出した一言も、とてもシンプルに終わってしまった。
対する王子は何食わぬ顔。変わらず落ち着いた余裕の表情で、弁当の続きを食べ始めている。
二の句が継げないまま話の続きを待っていれば、上品にごくんとおかずを飲み込んだ後に告げられた。
「単純な話さ。君も実習で見ただろう? 僕の悲惨な腕前を。あのままじゃあ、自炊生活に不安が残って進学後の独り暮らしも心配だ。だから、身近なところに良い先生が居るうちに教わっておこうと思ってね」
どうかな、と言って王子は微笑む。
爽やかな笑顔が眩しいが、その程度の輝きでこちらのもやもやは晴れはしない。
うーんと悩んで問いを重ねた。
「場所は? どこで?」
「引き受けてくれるの?」
「それはまだ。条件の確認。部活のときか、それとも休日に俺の家かどっちかしかないだろう。どっちが良い訳?」
「どちらでも。必要なら入部もするし、迷惑でなければ君の家でもオッケーさ。お互い受験生だし、頻度も君に任せるよ」
そう言って返事を待つ王子は実に楽しそうで、眉間にシワを寄せて思案する俺を機嫌よろしく眺めている。
そちらの事情は分かった。けれども面倒な話だ。
まず第一に、断ったときの噂が怖い。
こいつがべらべら喋ることはなくたって、周りのクラスメイトが何と言うかが分からない。
俺と部長で有りもしない恋ばなが出回るんだ。
最近王子が俺にちょっかいをかけて来ていたのは既に周知の事実なのだから、断ってまた疎遠になってみろ。きっと根拠のない噂が広がるに決まっている。
これ以上噂の的になるのは御免である。
癪だけれど、ここは頼みを引き受けた方が良さそうだ。
――何だ。初めから、拒否権なんか無かったんじゃないか。
王子に踊らされたことに気が付いて天を仰げば、チャイムまでもが裏切って、俺の決断を急かすように予鈴の鐘を響かせた。
「もう少し、考えても良いか?」
本当はイエスの答えしかなかったが、せめてもの抵抗で答えを先延ばしにした。
くそ。これだから俺は意気地がない。
そんな俺の葛藤も計算済みなのか。王子はころころと笑っていいよと頷いた。
「急な話だしね。また放課後にでも話そうよ」
じゃあねとひらり手を振って、自分の席へと帰っていく。いつの間にか弁当はすべて食べ終わっていたらしい。
俺はまだ半分近く残っているというのに、何から何まで忌々しい。けれども。
「部長は、喜ぶんだろうなあ」
トマトを口に放り込んでため息をつく。
部活で教えるとなれば、当然部長に黙っておける話でもない。
かと云って、こっそり自分の家で教えるのも忍びない。部長の耳に入ったときに後ろめたいからだ。
それに家で教えたら教えたで厄介だ。お節介な親父が喧しいに決まっている。
どちらに転んでも気が重い。
「とりあえず、部長に報告か」
気は進まないけれど仕方がない。
スマホを取り出し、メッセージ画面を開いて部長とのトーク画面を探した。
簡潔に要点をまとめ、事の次第を書いて送信する。
一息つけば、丁度そのタイミングで本鈴も鳴った。
「あ。弁当」
中途半端に残ったおかずを見てため息が出る。この短い時間だけで何回目だ。
残念だけれども、次の休み時間で食べきるしかないな。
離れた席で、行儀良く座る王子の背中が目に入る。恨みがましく念を送るも、今はちらりとも振り返らない。
慌ただしく机を片付け、授業に備えた。
そうして、その日の放課後。
ホームルームが終わってすぐのこと。
同じクラスの王子よりも素早い行動力で、隣のクラスから部長が俺の元へとすっ飛んで来た。
マジかよ部長。早すぎるよ。
予想以上に喜ぶ彼女の無邪気さに、寄ってきた王子も戸惑って。
俺の恋路は多難だな、と。
その隣で苦く、笑うしかなかった。
(2024/08/25 title:052 向い合わせ)