もしも一線を越えるとしたら。
それは私ではなく、彼の方だとばかり考えていた。
理不尽に浴びせられる侮蔑に暴言、それから嘲笑。
耳を塞ぎたくなるようなそれらは、自身に向けられるもので無かったとしても、同族意識の高い私たちの神経を逆撫でるには充分過ぎるもので。
嘲り痛めつけられる仲間を前に、じっと耐え抜くことは毎度至難の業だった。
実際に。正義感も強く、仲間思いの彼が堪えきれず飛び出そうとするのを、何度皆で押さえ込んだことだろう。
だからすっかり、油断していたのさ。
自分だって血の気が多い性分な癖に、そんなことは都合良く忘れて、彼や仲間の心配ばかり。
いつもフォローに回っていた私が、まさかのうっかり。
奴らと同じ畜生道――いや、それ以下に成り下がるなんて、とんだ大間抜けも良いところである。
「どうして」
全身血まみれの私を前に、彼がぼろぼろと泣き崩れた。
ほら、やっぱり君は仲間思いで優しいや。
そんな君だからこそ助けようと思えたし、この先に待ち受ける苦難のことなど後回しに出来たんだ。
今はただ、君が無事であることがとても嬉しい。
緊張が解けて、安堵の笑みをこぼす私に、彼が叫んだ。
「ど、どうして君が! いつもは、君こそが止めてくれていたのに! なっ何で!」
「いやあ、そこは本当に面目ないや」
「そんな! き、君が手を汚すくらいなら、僕は死――」
「ストップ」
言い募る彼を静かに制した。
向けられた真っ赤な掌に怯んで、彼の言葉が止まる。
「それは、私も同じだから。おあいこだろ」
言いたいことはまだまだあっただろう。
口を開けては閉ざす、を数回繰り返して。
言葉が見つからないままに、彼は俯いて涙ぐんだ。
見上げた空の月は赤くて、まるで今の私の姿を映したようだ。
けれどもその弧は鋭く三日月で、まんまと人殺しとなった私を嘲るような笑いにも見えて、気分が悪い。
反発するように、短くはっと息を吐いて笑い返した。
「兎にも角にも、これで私は追われる身だ」
呟く私に、彼が顔を上げる。
「けれども、事の発端たる君を置いていくのも忍びない。勝手な提案だが、一緒に行くかい?」
離れていても、共にいても危険であることに変わりはない。
それでも、この手を差し出さずにはいられなかった。
文字通りに血塗られた手で、何ておこがましい。
断られることは百も承知。それなのに、嬉しいかな。
迷うことなく、彼は私の赤い手を握り返してくれたのだ。
その力強さに、初めて涙がこぼれ落ちる。
互いに濡れた顔のまま、どちらからともなく声をかけた。
「共に、行こうか」
さあ。罪に濡れた、幼なじみ二人。
長い長い、逃亡の旅の始まりである。
(2026/01/14 title:088 どうして)
今日こそは。
今日こそは、とぐずぐず迷っている間にも、除夜の鐘が鳴り出した。
ああ、何で俺はこうも意気地がない。
友達なんだから、年の瀬の挨拶くらい、そんな変に畏まらなくたっていいじゃないか。
簡単に。こう、さり気なく。
『今年も一年ありがとう。また来年もよろしくね。良いお年を!』
そうそう。こんなふうに簡潔に――て。
そういうのを俺が先に送りたかったんだけどさ!
ああもう! 変に気を遣って時間をかけるから、俺が送るより先に彼女の方からメッセージが飛んで来てしまったよ。
ほら、向こうは何も気にしていないんだから、びくびくする必要なんかないじゃんか。
――まあ、こっちは友達以上の好意を持っている分、下心があるのは否めないけど。
でも、そこに引け目を感じてばかりいては何も始まらない。
そうこうしている間にも日付が変わり、遂に年も明けてしまっていた。
いけない。今がチャンスだろ。
今度こそ先手を打って、俺の方から新年の挨拶を――!
――ピコン
けれども俺の気合い虚しく。
開いているメッセージ画面に、彼女からのスタンプが追加された。
『あけましておめでとう!』
『今年もよろしくね』
「――は、早いよもう!」
新年明けて早々の、深夜一番のメッセージ。
部活仲間の俺に早速送ってくれて、それはもう嬉しいんだけれど。
またもや彼女の素早さに負けてしまったのがちょっと悔しい。
おまけに、こちらもまさに送信するところだっただけに、届いてすぐ既読がついてしまった点も恥ずかしい。
ああもう、本当に情けない。何てぐだぐだな。
今年こそ、この優柔不断さとおさらばしなければ。
さもなきゃ彼女とは一生片思いで終わりそうだ。
ため息を吐いて、ぐるぐる繰り返す後悔と反省に区切りをつける。
「即断、即決!」
悪癖を断ち切るが如く。
呪文のように呟いて、漸くメッセージを送信した。
『あけましておめでとう。こちらこそ、今年もどうぞよろしくお願いします』
(2026/01/02 title:087 今年の抱負*02)
耳元で鳴り続ける、スマホのアラーム音で目が覚めた。
廊下の向こうからは、既に起きて活動している両親の、ぱたぱたと動き回る物音も聞こえてくる。
反射で、「起きなければ」と意識は働けども、まだ頭はぼうっとして、おまけに気まで重くてすぐに動く気力が湧いてこない。
困ったな。この億劫さ、顔を洗えばマシになるのだろうか。
気後れする体に鞭打って、何とか布団から這い出て立ち上がる。
そうして気分が乗らないまま、のそりのそりと洗面所までの廊下を移動した。
蛇口をひねって、飛び出し跳ねる水音が煩わしい。
ばしゃばしゃと顔を洗って鏡と向き合った。
――駄目だ、すっきりしない。
冷えた水温に気持ちよさは感じても、どんよりとした気分は変わって来なかった。
じゃあ、あとはどうしよう。
お気に入りのコーデで決めたなら、テンションも上がってくるのだろうか。
部屋に戻って、クローゼットと箪笥の間を行ったり来たり。
さあ、お洒落の武装を。勿論、職場のルールで許される範囲内で。
あれこれ迷った末に着替え終わって、「どうだ!」と気合いを入れて姿見の前に立ってみた。
――けれども、残念。
まだ、もやもやは晴れて来やしなかった。
こうなったら仕方がない。奥の手を使おう。
ダイエットのため、最近は封印していた好物の卵焼きを解禁にするか。
ずっと我慢していたし、今日は特別。
仕事の頑張りと、続けたダイエットのご褒美として、朝ご飯に食べて行こう。
そうすればきっと、大丈夫。
フライパンにごま油を敷いて、卵液には和風だしも入れて。少しだけピザチーズを混ぜ込めば、お気に入りの味の完成だ。
じゅわっと焼いて、久しぶりの香ばしい匂いがキッチンに充満した。
食欲も上がって気分も上々。
――そのはずだったのに。
「どうして」
上手に焼けた卵焼きの、最後の一口を食べきって。
遂に、ぽつりと不安が言葉に漏れてしまっていた。
どうしよう。今日は平日。
当たり前のように仕事がある日なのに、気分がどうしても上がってこない。
それどころかもやもやの違和感は広がって、とうとう頭まで痛くなってきた。
万策尽きて、ふらふらと考えがまとまらないまま。
頭痛薬と、一緒に吐き気止めも飲んで席を立った。
あとは――あとはもう、どうすればいい。
好物を食べても心が重いまま動かない。
知らぬ間に色を失っていた私の世界。
今更になってやっと気が付いた。
こんなにも、私は追い詰められていたのか、と。
きつくなる一方の職場の状況に、また一人、また一人と同僚たちは去ってゆく。
残された数人でこなす業務はとてもハードで、連日残業の上に帰りも遅い。
仕方がない。やるしかない、と。
それらを笑って引き受けやり過ごして。
もやもやする気持ちにずっと蓋をして誤魔化して来た。
けれどもそれも、もはや限界のようだ。
弱り切った自分の心に気が付いてしまったら、今までのような知らぬ振りはもう出来なかった。
「えっ! ちょっと、あんたどうしたの!」
「お母、さん」
庭から家の中へ戻ってきた母が驚いて声を上げた。
無理もない。
通勤鞄を抱えたまま、何処へ向かうともなくぼうっと廊下に立ち尽くして。
私はぼろぼろと泣き腫らしていたのだから。
「お母さん、私、もう、会社に行きたく、ない」
大の大人が、我が儘みたいに恥ずかしい。
けれどもどうか、叱らないで。
これがやっと。
やっと初めて口に出せた、私のSOSなのだから。
(2025/09/29 title:086 モノクロ)
頼る気なんて、毛頭なかった。
隣に並ぶつもりも、さらさらなかった。
ただ一つ、修羅場を切り抜けたあの時の。
背中を預けた安心感と、ドンピシャでハマる阿吽の呼吸が、とても心地良かったから。
あいつの優しさにずっと甘え続けてしまったのだ。
「僕たち無敵の相棒だよな!」
「へーへー。そうかよ」
折角の賛辞にもそっぽを向き、ろくに笑いもしやしない。
俺みたいな無愛想な男相手によく言ったものだ。
本当はずっと、あいつのことを認めていたくせに。
見栄だとか、プライドだとか。変なこだわりばかりに縛られて。
嗚呼、何てつまらない。
俺は、とんだ大馬鹿者だったのだ。
だからきっと、これは天罰だ。
一言くらい。
一度きりでも、素直に気持ちを返せていれば、こんな結末にならずに済んだのだろうか。
動かなくなった相棒を目の前にして、漸く感情が動き始める。
「何で、俺なんか庇ったりしたんだよ。お人好しが過ぎるだろ」
独りきりになって初めて、止め処ない後悔が募りゆく。
「俺もお前も、馬鹿だなあ」
今更の言葉を皮切りに、溢れた涙が止まらなかった。
(2025/09/11 title:085 ひとりきり)
(2025/09/12 ※ 改稿して再投稿)
人間関係のちょっとした違和感って、案外馬鹿にならなかったりする。
ただ、第六感というか。
些細な出来事の中で生まれた野生の勘のようなものを、そのまま信じてしまって良いものか。
それがなかなか分からなくて、
「おかしいな」
「何か変だな」
なんて。そういった自問自答を繰り返した後でないと、踏ん切りがつかないところが厄介だ。
今回だってそうだ。
先日。ひょんなことから学生時代の知人と再会し、意外にも共通の趣味が発覚した。
盛り上がった二人が意気投合するのに時間はかからず、連絡先を交換して、頻繁にやり取りをし合う仲となったのだ――が。
残念なことに、気が合うのはあくまで趣味の話だけだった。
そう気が付いたときにはもう後の祭り。
再会をきっかけに食事や映画など、誘い合っては二人出かけることも多くなったが、その度に浮き彫りになる価値観の違いが心の中に積もりゆく。
そこで見切りをつけて、大人しくフェードアウトすれば傷は浅く済んだのに、
「他に趣味を語れる相手もいないし」
と、見て見ぬ振りをして関係を続けたのが間違いだった。
もやもやとした気持ち悪さを抱え、なあなあのまま会うのを繰り返すこと複数回。
今日もまた、誘われるがままに相手の車で遠方へとドライブに出かけた、その帰り道。
逃げ場のない車内にて、遂に大喧嘩へと発展してしまったのだ。
お互い頭に血が上り、完全に決裂した結果、
「じゃあ、さよならだね」
そんな冷たい捨て台詞と共に、私は車外へ放り出され。
信じられないことに、見知らぬ街へ独り取り残されたのだから腹が立つ。
いや、はっきりしない態度のまま今まで交流を続けてきた私も悪いけれど。
それにしても、置き去りって。
こんな薄情な真似をする奴だとは知らなかった。
こうなったらもう、今日でやっと縁が切れて良かったと思うことにしよう。
嗚呼、怖い。くわばら、くわばら。
「それにしても、どこ? ここ」
何とか気持ちを切り替えて、私は辺りを見回した。
地図アプリで現在地を確認するも、表示されるのはやっぱり見知らぬ地名。
不幸中の幸いに、降ろされたここは市街地で。地図によれば、やや時間はかかるが歩けば駅もあるようだから助かった。
公共交通機関を駆使すれば、何とか家へ帰ることもできるみたい。
一時はどうなることかと冷や汗もかいただけに、漸く緊張が解けてため息が漏れる。
そうして一息ついた――ところだったのに。
「おやおや~? こんな往来でため息なんか吐いちゃって。もしかしてお嬢さん、迷子ですか?」
見知らぬ土地で、知り合いはゼロ。
そのはずだから、まさか声をかけられるなど夢にも思わない。
背後の、しかも意外と近距離からの声に、私は飛び上がって驚いた。
素早く距離を取って振り返り、そうして対面した声の主を確認して――私は目を疑った。
「ええっ? せ、先輩?」
「よっ! 休みの日に奇遇だな」
「な、何で? ここに?」
友人に放り出され、たまたま立ち寄った街で、職場の先輩に遭遇するなんて誰が想像できようか。
驚き過ぎて開いた口が塞がらない。
そんな間抜け顔の私を、先輩はいつもの軽快な笑いで吹き飛ばした。
「俺、蕎麦が好きでさ~。休みの日にはあちこち出かけて食べ歩いてるんだよ。この道の先のところにも名店があるって聞いてさ。寝過ごして出遅れたけど、今日もこうして遠征してきたところって訳」
「へ、へえ~」
それでばったり私と鉢合わせるだなんて確率が凄すぎる。お互い遠出してるのに、世間って案外狭いんだな。
「それで? おまえの方は? やっぱり観光?」
「うん、まあ。そんなところですけど」
歯切れの悪い受け答えになってしまったけれど仕方がない。
観光帰りなのは事実だが、友人と喧嘩別れした末に置き去りにされたところだなんて、口が裂けても言えやしない。
明後日の方向を向いて口ごもれば、陽気な先輩も流石に首を傾げて黙ってしまった。
けれども、その沈黙も一瞬のこと。
何を閃いたのか、
「じゃあさ」
と言って、先輩が私の前に回り込んだ。
「一緒に蕎麦食いに行かない?」
「ええ?」
一体どうして。何が巡って「じゃあ」になるのか。
混乱してまだうんとも答えられていないのに、気の早い先輩は私の肩をぐいぐい押して歩き出した。
「だってさあ、気にならない? 俺が遠路遥々足を運んでまで食べに来た蕎麦の味。ここで話だけ聞いて帰るなんて勿体なくね?」
「そ、そりゃあ。そうですけど」
「ほらね、じゃあ決まり。さあ行くよー!」
「ええ~?」
強引に了承を取り付けて、ご機嫌になった先輩の足が早くなる。
普段から飄々として明るい先輩だけれども、その妙に明るい態度が気にかかる。
訳が分からず戸惑いながら、なすがままに背中を押されて歩き続け――そうして漸く気が付いた。
思い至った途端に顔が青くなる。
「あの、先輩。ここへはどうやって来たんですか」
「うん? 電車乗り継いで、駅から歩いて来たんだけど?」
「へ、へえ~。歩きで」
その答えに確信した。
嗚呼、何てこと。偶然とはいえ恐ろしい。
きっと、先輩は見ていたんだ。
私があの車から追い出されたところから全部、一部始終を。
だって、先輩もこの道を歩いて来たんだもの。
急にこの通りに現れた訳じゃない。
声をかけられたタイミングからして、事の次第を目撃していてもおかしくないじゃないか。
大喧嘩をしてから驚きの連続で、すっかりその可能性を見落としていた。
何で今まで気が付かなかったんだろう。うわあ、恥ずかしすぎる!
「おーい、どうした? 立ったまま寝るなよ。おーい」
赤くなったり、青くなったり。
心ここにあらずで白目を剥きそうになる私を呼び戻すように、後ろから先輩が優しくぽんぽんと肩を叩いた。
嗚呼。もう、恥ずかしい。
先輩は、最初からずっと気遣ってくれていたんですね。
職場でだってそうだ。
へらへらと掴み所のない、ただのムードメーカーのように振る舞う一方で、その実は細かいところまでをよく見ている人なのだ。
そうしてさり気なく皆のフォローをして回っているのだから侮れない。
その気配りにただでさえ敵わないというのに、こんな風にプライベートまでケアされたら、一生頭が上がらないじゃないですか。
「先輩」
「うん?」
「ありがとうございます」
「おう! 蕎麦、楽しみだよな~」
「はい」
私の様子が変わり、先輩もまた気が付いたはずだろう。
それでもまだ、あくまで知らぬ振りをしてくれる先輩に、心の中でもう一度感謝する。
肩から手を離し、隣に並んで鼻歌を口ずさむ。その飄々とした姿が、とても眩しい。
あなたのようになるにはまだまだ未熟な私だけれど、このきらきらとした憧れに少しでも近付きたくて。
尊敬を込めて、もう一歩だけ、隣に寄って歩いてみた。
(2025/08/25 title:084 もう一歩だけ、)