人間関係のちょっとした違和感って、案外馬鹿にならなかったりする。
ただ、第六感というか。
些細な出来事の中で生まれた野生の勘のようなものを、そのまま信じてしまって良いものか。
それがなかなか分からなくて、
「おかしいな」
「何か変だな」
なんて。そういった自問自答を繰り返した後でないと、踏ん切りがつかないところが厄介だ。
今回だってそうだ。
先日。ひょんなことから学生時代の知人と再会し、意外にも共通の趣味が発覚した。
盛り上がった二人が意気投合するのに時間はかからず、連絡先を交換して、頻繁にやり取りをし合う仲となったのだ――が。
残念なことに、気が合うのはあくまで趣味の話だけだった。
そう気が付いたときにはもう後の祭り。
再会をきっかけに食事や映画など、誘い合っては二人出かけることも多くなったが、その度に浮き彫りになる価値観の違いが心の中に積もりゆく。
そこで見切りをつけて、大人しくフェードアウトすれば傷は浅く済んだのに、
「他に趣味を語れる相手もいないし」
と、見て見ぬ振りをして関係を続けたのが間違いだった。
もやもやとした気持ち悪さを抱え、なあなあのまま会うのを繰り返すこと複数回。
今日もまた、誘われるがままに相手の車で遠方へとドライブに出かけた、その帰り道。
逃げ場のない車内にて、遂に大喧嘩へと発展してしまったのだ。
お互い頭に血が上り、完全に決裂した結果、
「じゃあ、さよならだね」
そんな冷たい捨て台詞と共に、私は車外へ放り出され。
信じられないことに、見知らぬ街へ独り取り残されたのだから腹が立つ。
いや、はっきりしない態度のまま今まで交流を続けてきた私も悪いけれど。
それにしても、置き去りって。
こんな薄情な真似をする奴だとは知らなかった。
こうなったらもう、今日でやっと縁が切れて良かったと思うことにしよう。
嗚呼、怖い。くわばら、くわばら。
「それにしても、どこ? ここ」
何とか気持ちを切り替えて、私は辺りを見回した。
地図アプリで現在地を確認するも、表示されるのはやっぱり見知らぬ地名。
不幸中の幸いに、降ろされたここは市街地で。地図によれば、やや時間はかかるが歩けば駅もあるようだから助かった。
公共交通機関を駆使すれば、何とか家へ帰ることもできるみたい。
一時はどうなることかと冷や汗もかいただけに、漸く緊張が解けてため息が漏れる。
そうして一息ついた――ところだったのに。
「おやおや~? こんな往来でため息なんか吐いちゃって。もしかしてお嬢さん、迷子ですか?」
見知らぬ土地で、知り合いはゼロ。
そのはずだから、まさか声をかけられるなど夢にも思わない。
背後の、しかも意外と近距離からの声に、私は飛び上がって驚いた。
素早く距離を取って振り返り、そうして対面した声の主を確認して――私は目を疑った。
「ええっ? せ、先輩?」
「よっ! 休みの日に奇遇だな」
「な、何で? ここに?」
友人に放り出され、たまたま立ち寄った街で、職場の先輩に遭遇するなんて誰が想像できようか。
驚き過ぎて開いた口が塞がらない。
そんな間抜け顔の私を、先輩はいつもの軽快な笑いで吹き飛ばした。
「俺、蕎麦が好きでさ~。休みの日にはあちこち出かけて食べ歩いてるんだよ。この道の先のところにも名店があるって聞いてさ。寝過ごして出遅れたけど、今日もこうして遠征してきたところって訳」
「へ、へえ~」
それでばったり私と鉢合わせるだなんて確率が凄すぎる。お互い遠出してるのに、世間って案外狭いんだな。
「それで? おまえの方は? やっぱり観光?」
「うん、まあ。そんなところですけど」
歯切れの悪い受け答えになってしまったけれど仕方がない。
観光帰りなのは事実だが、友人と喧嘩別れした末に置き去りにされたところだなんて、口が裂けても言えやしない。
明後日の方向を向いて口ごもれば、陽気な先輩も流石に首を傾げて黙ってしまった。
けれども、その沈黙も一瞬のこと。
何を閃いたのか、
「じゃあさ」
と言って、先輩が私の前に回り込んだ。
「一緒に蕎麦食いに行かない?」
「ええ?」
一体どうして。何が巡って「じゃあ」になるのか。
混乱してまだうんとも答えられていないのに、気の早い先輩は私の肩をぐいぐい押して歩き出した。
「だってさあ、気にならない? 俺が遠路遥々足を運んでまで食べに来た蕎麦の味。ここで話だけ聞いて帰るなんて勿体なくね?」
「そ、そりゃあ。そうですけど」
「ほらね、じゃあ決まり。さあ行くよー!」
「ええ~?」
強引に了承を取り付けて、ご機嫌になった先輩の足が早くなる。
普段から飄々として明るい先輩だけれども、その妙に明るい態度が気にかかる。
訳が分からず戸惑いながら、なすがままに背中を押されて歩き続け――そうして漸く気が付いた。
思い至った途端に顔が青くなる。
「あの、先輩。ここへはどうやって来たんですか」
「うん? 電車乗り継いで、駅から歩いて来たんだけど?」
「へ、へえ~。歩きで」
その答えに確信した。
嗚呼、何てこと。偶然とはいえ恐ろしい。
きっと、先輩は見ていたんだ。
私があの車から追い出されたところから全部、一部始終を。
だって、先輩もこの道を歩いて来たんだもの。
急にこの通りに現れた訳じゃない。
声をかけられたタイミングからして、事の次第を目撃していてもおかしくないじゃないか。
大喧嘩をしてから驚きの連続で、すっかりその可能性を見落としていた。
何で今まで気が付かなかったんだろう。うわあ、恥ずかしすぎる!
「おーい、どうした? 立ったまま寝るなよ。おーい」
赤くなったり、青くなったり。
心ここにあらずで白目を剥きそうになる私を呼び戻すように、後ろから先輩が優しくぽんぽんと肩を叩いた。
嗚呼。もう、恥ずかしい。
先輩は、最初からずっと気遣ってくれていたんですね。
職場でだってそうだ。
へらへらと掴み所のない、ただのムードメーカーのように振る舞う一方で、その実は細かいところまでをよく見ている人なのだ。
そうしてさり気なく皆のフォローをして回っているのだから侮れない。
その気配りにただでさえ敵わないというのに、こんな風にプライベートまでケアされたら、一生頭が上がらないじゃないですか。
「先輩」
「うん?」
「ありがとうございます」
「おう! 蕎麦、楽しみだよな~」
「はい」
私の様子が変わり、先輩もまた気が付いたはずだろう。
それでもまだ、あくまで知らぬ振りをしてくれる先輩に、心の中でもう一度感謝する。
肩から手を離し、隣に並んで鼻歌を口ずさむ。その飄々とした姿が、とても眩しい。
あなたのようになるにはまだまだ未熟な私だけれど、このきらきらとした憧れに少しでも近付きたくて。
尊敬を込めて、もう一歩だけ、隣に寄って歩いてみた。
(2025/08/25 title:084 もう一歩だけ、)
「ぶっ! くっくっ……」
「せんぱーい。いい加減思い出し笑いは止めてくださーい」
「あっはっは! 悪い悪い!」
そう言って手を振りながらも、先輩の笑いは止まらない。
いいんだ。気を抜いてミスった私が悪い。
最高気温が四十度迫るこの季節。
朝早い出勤の時間帯でも、既に気温は三十度近くあったりしてもう暑い。
最寄り駅から職場まで歩いたら、たった五分足らずの道のりでも汗だくになる始末。
さながら砂漠の行軍と言っても過言ではないはずだ。
そんな訳だから、じりじりと日差しを受けて辿り着いた職場はまさに天国。
夜も蒸し暑いままに気温が下がりきらないから、在庫商品の適正な温度管理のため、退勤後も職場のエアコンは電源を切らずに帰ることになっている。
おかげで朝一の当番で鍵を開けて感じる冷気の爽快感は堪らない。
だから、ついうっかり、
「あ~涼しい~! オアシスだ~!」
なんて言って騒いでも仕方がなかったのだ。
ただ一つ、同じように早番でやって来た先輩が、後ろに控えていたりしなければ。
背後に気配を感じたところで時すでに遅し。
そこから先の展開はお察しの通りである。
「いやあ、本当に意外! 普段雑談にも全然乗って来ないから気難しい性格なのかと思ってたけど、すっごい面白いじゃんか!」
「仕事中はそもそも私語厳禁だし、集中してやりたいので。もう、勘弁してください」
ああもう、まったく何たる失態。
おっちょこちょいな地の性格が出ないようにずっと気を遣ってきたのに、まさかこんな形でバレることになるなんて思いもしなかった。
十分前に戻れるなら、失言する私をぶん殴ってでも止めに行きたい気分である。
「ほら、先輩。こっちの掃除は終わりましたよ。もうすぐ開店だからしっかりして下さい」
「おう。今日も一日頑張ろうな、オアシス!」
「ちょっ! あだ名にしないで下さい!」
さらりと呼び名にしてくる先輩に目眩がする。
これは――これは、まずい。
何としてでも、不本意なあだ名が定着してしまう前に名誉挽回しなくては。
そんな私の決意など、先輩にとってはどこ吹く風。
笑顔のままひらひらと手を振って、機嫌良く持ち場へと去ってしまったから参ってしまう。
く、くそう。もう二度と、職場で油断なんかするもんか。
明日からは絶対、背後には充分気を付けることにしよう。
そう誓って、私もいそいそと今日の仕事に取りかかった。
(2025/07/27 title:083 オアシス)
ザーザーザー。
予報にない、強い雨が通り過ぎる。
傘を持たない人たちが、屋根のある場所を目指して足早に私を追い越していく。
慌てもせず、濡れるままにゆっくり歩く私が不思議なのだろう。
訝しげにこちらを振り返る人もいたけれど、気にかけるのはその一瞬だけ。
一瞥をくれた後は直ぐ様 前へ向き直り、ばしゃばしゃと足元の水溜まりを跳ねさせ駆けていく。
それでいい。そのまま誰も気が付かないで、どうか放っておいて。
この悲しみは、私独りが抱えれば充分だ。
止まらない涙を隠すのに、この通り雨は丁度良い。
それなのに、お人好しがいたものだ。
ふと、私にかかる雨が遮られ、後ろから一本の傘が差し出される。
「風邪引くよ」
良く知った声が隣に並び、私を優しく気遣うのだから敵わない。
素直になれなくて、ぷいとそっぽを向いて顔を逸らした。
「要らない。君が使えば」
歩調を早めて引き離せば、彼もそれに着いて来る。
そして先程とは違って強引に、私の手へと傘の柄をぎゅっと握らせた。
「僕は良いから、ほら。傘差して」
「だ、だから要らないって」
「その方が――傘で隠せるでしょ、それ」
言い募る私を語気荒く遮って、指し示すように彼はとんとん、と自分の頬を指で突いて見せた。
何もかもお見通しの言葉に面食らう。
おまけに反射的に顔まで上げてしまって、心配そうに覗き込む彼と目が合ってしまった。
もう、言い逃れは出来ない。
「――タイミング良すぎだよお」
観念した途端、抑えていた涙が勢いを増す。
くしゃっと笑った彼が、宥めるように私の肩をぽんぽんと優しく叩いた。
「いつでも頼って、て言ってるじゃん」
だから良いんだよ。と言う彼が頼もしい。
これは一生頭が上がらないな、と。
心優しい友人に感謝した。
(2025/07/26 title:082 涙の跡)
何やら中庭が騒がしい。
提出物を出し終えて、後は帰るばかりと職員室を出たところで、賑やかな声が外から聞こえてきた。
気になって窓から外を覗けば、ホースを持った一人と、その彼を囲むようにして男女数人が、ああでもないこうでもないと、飛び出す水の勢いや傾きの指示を出し合っていた。
「何やってんだ? あいつら」
「虹が見たいんだって」
「虹ぃ?」
思ったままを口に出したら、先に職員室から出て、同じように廊下の窓から外を眺めていた王子が親切にも解説をくれた。
「美術部がリアルな虹を描きたくて、資料代わりに再現できないか色々試してたんだって。そうしたら通りがかった科学部も話に乗って大所帯になったみたい」
「ふーん。上手くいくのか? それ」
「どうだろう? ――て、あっ!」
大声を出した王子とほぼ同じタイミングで外からも歓声が上がった。
視線の先には、春の日差しを受けて煌めく水しぶきの中で、待ち望んだ虹が小さく半円を描いていた。
漸くの成功に部員たちもてんやわんや。慌ててスマホを構えては、写真や動画として収めている。
「いやあ、凄いねえ。本当に作れちゃうんだ」
「随分、小さい虹みたいだけどな」
「そこは仕方がないでしょう? ねえ、僕らも近くで写真撮らせてもらおうよ」
「え~。間に合うか?」
「いいじゃん。ほら、早く!」
渋る俺に構わずに、王子は小走りに廊下を進んで下駄箱へ行ってしまった。
ちらりと外の様子を見れば、やっぱり虹は消えている。思った通り、即席の虹は長く続かなかったようだ。
あーあ、と。皆で大きく落胆した声が聞こえてくる。
けれども直ぐ様、「もう一回!」と外野にせがまれ、再び試行錯誤が始まった。
俺らが着く頃にはまた新たな虹が拝めるのだろうか。
「平和だな~」
受験も終わって、通い慣れたこの場所へ足を運ぶのもあと数日。
こうやって、些細なことで友人と一喜一憂して過ごせる毎日も残り僅かだ。
それが名残惜しく感じるだなんて、何となくクラスメイトに混ざって過ごしていただけの一年前とは大違いだ。
帰宅部だったところを、クラスメイトの部長に料理部へと誘われて。
部活の皆とお花見へ出かけたりもした。
一方的に恋敵とまで思っていた学年トップの王子には、何故だか料理を教える羽目になり。
果てには三人集まって勉強を教え合う仲となったのだから、まったく未来はどう転ぶか分からない。
受験勉強は勿論大変だったけれども、おかげで楽しいことの多い一年となった。
「ねえ! 師匠、早く!」
「はいはい。今行くって」
再度王子に急かされて、よろけながらも靴を履き替え外へ出た。
バランスを取って見上げた先の空は青く、雲もない。
こんなにも綺麗に晴れて、お陰で苦労して産み出した虹がよく映えそうだ。
「記念に一枚、ねえ」
にやけた視線の先で二度目の歓声が上がる。
コツでも掴んだのか、先ほどの虹よりもやや大きく見えるのは気のせいだろうか。
「先輩! 今ですよ! 早く!」
「オッケー。ほら、師匠も来なよ!」
「もう、分かったってば」
中庭に辿り着けば、先に着いた王子も一緒になってもう虹の撮影会が始まっていた。
その輪に混じり、皆に倣って俺もスマホを構える。
まずは一枚、ぱしゃり。
その一枚で終わりにしかけて、思い直して追加でもう一枚ぱしゃり。
後ろからこっそり狙って、はしゃぐ友人の姿も虹と一緒に写真の中に収めてみた。
シャッター音に気付いた王子が振り返る。
その素早さに、勝手に被写体にしたことを咎められるかと思ったが、怒るどころか王子は上機嫌。
気前良く、ピースサインも向けてくれた。
「へえ、乗り気なんて珍しいね。どうしたの?」
「別に。もうすぐ卒業だし、記念だよ」
俺らしくない。似合わないのは百も承知。
でも、またいつか。
この日を懐かしむ時のために、思い出に残しておこうって、そう思えたんだ。
「ほら、もう一枚撮るぞ」
「あ、待って! 折角だし一緒に写ろうよ」
「ええ? 俺も?」
「いいから、いいから」
面食らう俺を巻き込んで、あたふたしている間にも王子のスマホがぱしゃりと鳴る。
驚く俺と、笑う王子。
後ろに小さな虹も収まって、即興の割に見映えの良い一枚になった。
その出来の良さが可笑しくて、二人顔を見合わせ笑い合う。
卒業式まで、あと少し。
まだまだこの友人と騒いでいたいと、今更ながらにこっそり願った。
(2025/07/22 title:081 またいつか)
きっかけは些細なことだ。
足早に廊下を駆けていく女の子。
昼休みの、いつも同じような時間に走っていくものだから、だんだんとそれが記憶に残っていって。
いつの間にか、ぱたぱたという足音の特徴まで覚えてしまっていた。
そんな彼女と、廊下ですれ違いざまに落とし物を拾ったのを機に互いを認識し合うようになり。
その後も見かければ、何となく会釈を交わす間柄に変わっていった。
こうして降り積もった感情に、果たして名前が付くことはあるのだろうか。
「なあ、お前。気になる奴とかいねーの?」
何も知らない友人の問いにしらを切る。
「ん~。どうだろうなあ」
いつか観念するその日まで。
その答えはまだまだ保留でいさせてくれ。
(2025/06/25 title:080 小さな愛)