ヒロ

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9/30/2025, 9:58:39 AM

耳元で鳴り続ける、スマホのアラーム音で目が覚めた。
廊下の向こうからは、既に起きて活動している両親の、ぱたぱたと動き回る物音も聞こえてくる。
反射で、「起きなければ」と意識は働けども、まだ頭はぼうっとして、おまけに気まで重くてすぐに動く気力が湧いてこない。

困ったな。この億劫さ、顔を洗えばマシになるのだろうか。
気後れする体に鞭打って、何とか布団から這い出て立ち上がる。
そうして気分が乗らないまま、のそりのそりと洗面所までの廊下を移動した。
蛇口をひねって、飛び出し跳ねる水音が煩わしい。
ばしゃばしゃと顔を洗って鏡と向き合った。

――駄目だ、すっきりしない。
冷えた水温に気持ちよさは感じても、どんよりとした気分は変わって来なかった。

じゃあ、あとはどうしよう。
お気に入りのコーデで決めたなら、テンションも上がってくるのだろうか。
部屋に戻って、クローゼットと箪笥の間を行ったり来たり。
さあ、お洒落の武装を。勿論、職場のルールで許される範囲内で。
あれこれ迷った末に着替え終わって、「どうだ!」と気合いを入れて姿見の前に立ってみた。

――けれども、残念。
まだ、もやもやは晴れて来やしなかった。

こうなったら仕方がない。奥の手を使おう。
ダイエットのため、最近は封印していた好物の卵焼きを解禁にするか。
ずっと我慢していたし、今日は特別。
仕事の頑張りと、続けたダイエットのご褒美として、朝ご飯に食べて行こう。
そうすればきっと、大丈夫。
フライパンにごま油を敷いて、卵液には和風だしも入れて。少しだけピザチーズを混ぜ込めば、お気に入りの味の完成だ。
じゅわっと焼いて、久しぶりの香ばしい匂いがキッチンに充満した。
食欲も上がって気分も上々。
――そのはずだったのに。

「どうして」
上手に焼けた卵焼きの、最後の一口を食べきって。
遂に、ぽつりと不安が言葉に漏れてしまっていた。
どうしよう。今日は平日。
当たり前のように仕事がある日なのに、気分がどうしても上がってこない。
それどころかもやもやの違和感は広がって、とうとう頭まで痛くなってきた。
万策尽きて、ふらふらと考えがまとまらないまま。
頭痛薬と、一緒に吐き気止めも飲んで席を立った。

あとは――あとはもう、どうすればいい。
好物を食べても心が重いまま動かない。
知らぬ間に色を失っていた私の世界。
今更になってやっと気が付いた。
こんなにも、私は追い詰められていたのか、と。

きつくなる一方の職場の状況に、また一人、また一人と同僚たちは去ってゆく。
残された数人でこなす業務はとてもハードで、連日残業の上に帰りも遅い。
仕方がない。やるしかない、と。
それらを笑って引き受けやり過ごして。
もやもやする気持ちにずっと蓋をして誤魔化して来た。
けれどもそれも、もはや限界のようだ。
弱り切った自分の心に気が付いてしまったら、今までのような知らぬ振りはもう出来なかった。

「えっ! ちょっと、あんたどうしたの!」
「お母、さん」

庭から家の中へ戻ってきた母が驚いて声を上げた。
無理もない。
通勤鞄を抱えたまま、何処へ向かうともなくぼうっと廊下に立ち尽くして。
私はぼろぼろと泣き腫らしていたのだから。

「お母さん、私、もう、会社に行きたく、ない」

大の大人が、我が儘みたいに恥ずかしい。
けれどもどうか、叱らないで。
これがやっと。
やっと初めて口に出せた、私のSOSなのだから。


(2025/09/29 title:086 モノクロ)

9/12/2025, 9:59:26 AM

頼る気なんて、毛頭なかった。
隣に並ぶつもりも、さらさらなかった。

ただ一つ、修羅場を切り抜けたあの時の。
背中を預けた安心感と、ドンピシャでハマる阿吽の呼吸が、とても心地良かったから。
あいつの優しさにずっと甘え続けてしまったのだ。

「僕たち無敵の相棒だよな!」
「へーへー。そうかよ」
折角の賛辞にもそっぽを向き、ろくに笑いもしやしない。
俺みたいな無愛想な男相手によく言ったものだ。
本当はずっと、あいつのことを認めていたくせに。
見栄だとか、プライドだとか。変なこだわりばかりに縛られて。
嗚呼、何てつまらない。
俺は、とんだ大馬鹿者だったのだ。

だからきっと、これは天罰だ。
一言くらい。
一度きりでも、素直に気持ちを返せていれば、こんな結末にならずに済んだのだろうか。
動かなくなった相棒を目の前にして、漸く感情が動き始める。
「何で、俺なんか庇ったりしたんだよ。お人好しが過ぎるだろ」
独りきりになって初めて、止め処ない後悔が募りゆく。

「俺もお前も、馬鹿だなあ」
今更の言葉を皮切りに、溢れた涙が止まらなかった。


(2025/09/11 title:085 ひとりきり)
(2025/09/12 ※ 改稿して再投稿)

8/25/2025, 8:48:08 PM

人間関係のちょっとした違和感って、案外馬鹿にならなかったりする。

ただ、第六感というか。
些細な出来事の中で生まれた野生の勘のようなものを、そのまま信じてしまって良いものか。
それがなかなか分からなくて、
「おかしいな」
「何か変だな」
なんて。そういった自問自答を繰り返した後でないと、踏ん切りがつかないところが厄介だ。

今回だってそうだ。
先日。ひょんなことから学生時代の知人と再会し、意外にも共通の趣味が発覚した。
盛り上がった二人が意気投合するのに時間はかからず、連絡先を交換して、頻繁にやり取りをし合う仲となったのだ――が。

残念なことに、気が合うのはあくまで趣味の話だけだった。

そう気が付いたときにはもう後の祭り。
再会をきっかけに食事や映画など、誘い合っては二人出かけることも多くなったが、その度に浮き彫りになる価値観の違いが心の中に積もりゆく。
そこで見切りをつけて、大人しくフェードアウトすれば傷は浅く済んだのに、
「他に趣味を語れる相手もいないし」
と、見て見ぬ振りをして関係を続けたのが間違いだった。

もやもやとした気持ち悪さを抱え、なあなあのまま会うのを繰り返すこと複数回。
今日もまた、誘われるがままに相手の車で遠方へとドライブに出かけた、その帰り道。
逃げ場のない車内にて、遂に大喧嘩へと発展してしまったのだ。
お互い頭に血が上り、完全に決裂した結果、
「じゃあ、さよならだね」
そんな冷たい捨て台詞と共に、私は車外へ放り出され。
信じられないことに、見知らぬ街へ独り取り残されたのだから腹が立つ。
いや、はっきりしない態度のまま今まで交流を続けてきた私も悪いけれど。
それにしても、置き去りって。
こんな薄情な真似をする奴だとは知らなかった。
こうなったらもう、今日でやっと縁が切れて良かったと思うことにしよう。
嗚呼、怖い。くわばら、くわばら。

「それにしても、どこ? ここ」
何とか気持ちを切り替えて、私は辺りを見回した。
地図アプリで現在地を確認するも、表示されるのはやっぱり見知らぬ地名。
不幸中の幸いに、降ろされたここは市街地で。地図によれば、やや時間はかかるが歩けば駅もあるようだから助かった。
公共交通機関を駆使すれば、何とか家へ帰ることもできるみたい。
一時はどうなることかと冷や汗もかいただけに、漸く緊張が解けてため息が漏れる。
そうして一息ついた――ところだったのに。

「おやおや~? こんな往来でため息なんか吐いちゃって。もしかしてお嬢さん、迷子ですか?」

見知らぬ土地で、知り合いはゼロ。
そのはずだから、まさか声をかけられるなど夢にも思わない。
背後の、しかも意外と近距離からの声に、私は飛び上がって驚いた。
素早く距離を取って振り返り、そうして対面した声の主を確認して――私は目を疑った。

「ええっ? せ、先輩?」
「よっ! 休みの日に奇遇だな」
「な、何で? ここに?」
友人に放り出され、たまたま立ち寄った街で、職場の先輩に遭遇するなんて誰が想像できようか。
驚き過ぎて開いた口が塞がらない。
そんな間抜け顔の私を、先輩はいつもの軽快な笑いで吹き飛ばした。
「俺、蕎麦が好きでさ~。休みの日にはあちこち出かけて食べ歩いてるんだよ。この道の先のところにも名店があるって聞いてさ。寝過ごして出遅れたけど、今日もこうして遠征してきたところって訳」
「へ、へえ~」
それでばったり私と鉢合わせるだなんて確率が凄すぎる。お互い遠出してるのに、世間って案外狭いんだな。

「それで? おまえの方は? やっぱり観光?」
「うん、まあ。そんなところですけど」
歯切れの悪い受け答えになってしまったけれど仕方がない。
観光帰りなのは事実だが、友人と喧嘩別れした末に置き去りにされたところだなんて、口が裂けても言えやしない。
明後日の方向を向いて口ごもれば、陽気な先輩も流石に首を傾げて黙ってしまった。
けれども、その沈黙も一瞬のこと。
何を閃いたのか、
「じゃあさ」
と言って、先輩が私の前に回り込んだ。
「一緒に蕎麦食いに行かない?」
「ええ?」
一体どうして。何が巡って「じゃあ」になるのか。
混乱してまだうんとも答えられていないのに、気の早い先輩は私の肩をぐいぐい押して歩き出した。
「だってさあ、気にならない? 俺が遠路遥々足を運んでまで食べに来た蕎麦の味。ここで話だけ聞いて帰るなんて勿体なくね?」
「そ、そりゃあ。そうですけど」
「ほらね、じゃあ決まり。さあ行くよー!」
「ええ~?」
強引に了承を取り付けて、ご機嫌になった先輩の足が早くなる。
普段から飄々として明るい先輩だけれども、その妙に明るい態度が気にかかる。
訳が分からず戸惑いながら、なすがままに背中を押されて歩き続け――そうして漸く気が付いた。
思い至った途端に顔が青くなる。

「あの、先輩。ここへはどうやって来たんですか」
「うん? 電車乗り継いで、駅から歩いて来たんだけど?」
「へ、へえ~。歩きで」
その答えに確信した。
嗚呼、何てこと。偶然とはいえ恐ろしい。
きっと、先輩は見ていたんだ。
私があの車から追い出されたところから全部、一部始終を。
だって、先輩もこの道を歩いて来たんだもの。
急にこの通りに現れた訳じゃない。
声をかけられたタイミングからして、事の次第を目撃していてもおかしくないじゃないか。
大喧嘩をしてから驚きの連続で、すっかりその可能性を見落としていた。
何で今まで気が付かなかったんだろう。うわあ、恥ずかしすぎる!

「おーい、どうした? 立ったまま寝るなよ。おーい」
赤くなったり、青くなったり。
心ここにあらずで白目を剥きそうになる私を呼び戻すように、後ろから先輩が優しくぽんぽんと肩を叩いた。
嗚呼。もう、恥ずかしい。
先輩は、最初からずっと気遣ってくれていたんですね。
職場でだってそうだ。
へらへらと掴み所のない、ただのムードメーカーのように振る舞う一方で、その実は細かいところまでをよく見ている人なのだ。
そうしてさり気なく皆のフォローをして回っているのだから侮れない。
その気配りにただでさえ敵わないというのに、こんな風にプライベートまでケアされたら、一生頭が上がらないじゃないですか。

「先輩」
「うん?」
「ありがとうございます」
「おう! 蕎麦、楽しみだよな~」
「はい」

私の様子が変わり、先輩もまた気が付いたはずだろう。
それでもまだ、あくまで知らぬ振りをしてくれる先輩に、心の中でもう一度感謝する。
肩から手を離し、隣に並んで鼻歌を口ずさむ。その飄々とした姿が、とても眩しい。
あなたのようになるにはまだまだ未熟な私だけれど、このきらきらとした憧れに少しでも近付きたくて。
尊敬を込めて、もう一歩だけ、隣に寄って歩いてみた。


(2025/08/25 title:084 もう一歩だけ、)

7/28/2025, 6:30:16 AM

「ぶっ! くっくっ……」
「せんぱーい。いい加減思い出し笑いは止めてくださーい」
「あっはっは! 悪い悪い!」
そう言って手を振りながらも、先輩の笑いは止まらない。
いいんだ。気を抜いてミスった私が悪い。

最高気温が四十度迫るこの季節。
朝早い出勤の時間帯でも、既に気温は三十度近くあったりしてもう暑い。
最寄り駅から職場まで歩いたら、たった五分足らずの道のりでも汗だくになる始末。
さながら砂漠の行軍と言っても過言ではないはずだ。
そんな訳だから、じりじりと日差しを受けて辿り着いた職場はまさに天国。
夜も蒸し暑いままに気温が下がりきらないから、在庫商品の適正な温度管理のため、退勤後も職場のエアコンは電源を切らずに帰ることになっている。
おかげで朝一の当番で鍵を開けて感じる冷気の爽快感は堪らない。
だから、ついうっかり、
「あ~涼しい~! オアシスだ~!」
なんて言って騒いでも仕方がなかったのだ。
ただ一つ、同じように早番でやって来た先輩が、後ろに控えていたりしなければ。
背後に気配を感じたところで時すでに遅し。
そこから先の展開はお察しの通りである。

「いやあ、本当に意外! 普段雑談にも全然乗って来ないから気難しい性格なのかと思ってたけど、すっごい面白いじゃんか!」
「仕事中はそもそも私語厳禁だし、集中してやりたいので。もう、勘弁してください」
ああもう、まったく何たる失態。
おっちょこちょいな地の性格が出ないようにずっと気を遣ってきたのに、まさかこんな形でバレることになるなんて思いもしなかった。
十分前に戻れるなら、失言する私をぶん殴ってでも止めに行きたい気分である。

「ほら、先輩。こっちの掃除は終わりましたよ。もうすぐ開店だからしっかりして下さい」
「おう。今日も一日頑張ろうな、オアシス!」
「ちょっ! あだ名にしないで下さい!」
さらりと呼び名にしてくる先輩に目眩がする。
これは――これは、まずい。
何としてでも、不本意なあだ名が定着してしまう前に名誉挽回しなくては。
そんな私の決意など、先輩にとってはどこ吹く風。
笑顔のままひらひらと手を振って、機嫌良く持ち場へと去ってしまったから参ってしまう。

く、くそう。もう二度と、職場で油断なんかするもんか。
明日からは絶対、背後には充分気を付けることにしよう。
そう誓って、私もいそいそと今日の仕事に取りかかった。


(2025/07/27 title:083 オアシス)

7/27/2025, 6:45:31 AM

ザーザーザー。

予報にない、強い雨が通り過ぎる。
傘を持たない人たちが、屋根のある場所を目指して足早に私を追い越していく。
慌てもせず、濡れるままにゆっくり歩く私が不思議なのだろう。
訝しげにこちらを振り返る人もいたけれど、気にかけるのはその一瞬だけ。
一瞥をくれた後は直ぐ様 前へ向き直り、ばしゃばしゃと足元の水溜まりを跳ねさせ駆けていく。

それでいい。そのまま誰も気が付かないで、どうか放っておいて。
この悲しみは、私独りが抱えれば充分だ。
止まらない涙を隠すのに、この通り雨は丁度良い。

それなのに、お人好しがいたものだ。
ふと、私にかかる雨が遮られ、後ろから一本の傘が差し出される。
「風邪引くよ」
良く知った声が隣に並び、私を優しく気遣うのだから敵わない。
素直になれなくて、ぷいとそっぽを向いて顔を逸らした。
「要らない。君が使えば」
歩調を早めて引き離せば、彼もそれに着いて来る。
そして先程とは違って強引に、私の手へと傘の柄をぎゅっと握らせた。
「僕は良いから、ほら。傘差して」
「だ、だから要らないって」
「その方が――傘で隠せるでしょ、それ」
言い募る私を語気荒く遮って、指し示すように彼はとんとん、と自分の頬を指で突いて見せた。
何もかもお見通しの言葉に面食らう。
おまけに反射的に顔まで上げてしまって、心配そうに覗き込む彼と目が合ってしまった。
もう、言い逃れは出来ない。

「――タイミング良すぎだよお」
観念した途端、抑えていた涙が勢いを増す。
くしゃっと笑った彼が、宥めるように私の肩をぽんぽんと優しく叩いた。
「いつでも頼って、て言ってるじゃん」
だから良いんだよ。と言う彼が頼もしい。
これは一生頭が上がらないな、と。
心優しい友人に感謝した。


(2025/07/26 title:082 涙の跡)

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