ヒロ

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5/5/2026, 1:39:44 AM

何を聞きたくて、聞きたくないのか。
何を知りたくて、知りたくないのか。

無意識下に行われるその線引きは、一体この体のどこで行われるのか。
そんな理屈、とんと見当もつかなかったが、一つだけはっきりと分かることがある。

「――おわっと! も~隊長? どうしたんすか、急に立ち止まらないで下さいよ。危ないなあ」

前触れも無く歩みを止めて立ち止まった俺の後ろから、危うく俺の背中へと激突しかけた参謀殿の、堪らずの不満な声が追いかけて来る。
その間近からの声を飛び越えて。
俺の視線はじっと、今しがた通って来た道のその向こうへと釘付けだった。

参謀殿の背後、その後ろに伸びる隊列の奥。
高く昇った日の光さえも遮るように生い茂った森の木々に阻まれて、今朝方に発った村の面影など、微塵もうかがえるはずもなかったが。
目を凝らせば凝らすほどに、それは確かに聞こえてきた。

「ねえ、隊長。ちょっと聞いてます?」
「ああ? ああ悪い、聞いている。聞いているが――よし、戻るぞ」
「へっ?」
「前進止め。村まで引き返す。先鋒と殿(しんがり)に伝えろ。武装は解くなよ。たぶん、あっちで直ぐさま交戦になる。引き返しながら策練り直すぞ。良い知恵頼むぜ、相棒」
「ええ? いやいや、いやちょっと待って!」

話を聞いていると言いつつも、その反対に動いてくるりときびすを返す。
参謀殿の隣を通り過ぎ、元来た道を歩き出す俺に待ったの声が追いかけた。
すぐさま背後から腕が伸び、強い力で肩を掴まれる。そうして次に踏み出す一歩を止められた。

「急に立ち止まったかと思えば、一体何寝ぼけたこと言ってんです。作戦の要の砦まで、もう目と鼻の先のところまで来てるってのに。まさかここまで来て、先読みの天啓でも受けたとか、そんな頓知気なこと言いませんよね?」
「あっはっは! いいなあ、それ。面白え! ――でも。そのまさか、なんだよなあ」
「はあ?」

苛立たしげに眉根を吊り上げ、突如持ち出された方針転換への不信感を隠そうともしやしない。
その生真面目で有能な参謀に向かい、手を合わせ拝むようにして頭を下げた。

「悪い、おまえの読みが外れるとか言いたい訳じゃねえんだ。 ――でもな、この耳に聞こえて来ちまったんだよ。村に預けて来た俺たちの姫さんの、助けてっていう悲鳴がな。おかしいよなあ、そんなもん聞こえるはずがねえ距離なのに」
「本当ですよ。朝に発って、どれだけ村から離れたと思ってるんです。隊長、あなたこの蒸し暑さで頭ん中沸きでもしたんすか」
「ははっ。そうかもしれねえなあ。うーん、でもなあ」

下げていた頭を上げ、冷ややかな視線を送る参謀の目を正面から見据えれば。俺の視線に気圧されて、何かを言いかけていた参謀殿の口がぐっと押し黙る。
揺れる彼の瞳から目をそらさずに、心の内を余さず伝え切った。

「でもなあ、後悔はしたくねえ。馬鹿みたいな幻聴だとしてもだ。それを無視したそのせいで、最後に皆で泣く羽目だけにはなりたくねえんだ。 ――頼む。この勘、信じさせてくれよ」

そう言って再び頭を下げる。
そのまま待ってみたが、参謀殿は応えやしない。
しばらくして不安になり、少しだけ目線を上向かせて様子を伺えば。
眉間を固く指で抑え、苦虫をかみつぶしたような表情で思案を続ける彼の姿が目に映った。
絞り出すようにして彼が言う。

「その降って湧いたようなあなたのお告げ。迫る危機はいつですか。今? それとも未来? それに姫を脅かす、その正体は何だと?敵の急襲……もしくは、偶発的に集中した魔物の群れだとでも?」
「いやあさっぱり。悪いがそこまでは全然わっかんねえな」
「ハッ! 分かんねえのかよ。隊の命運変えようってのに、くそ過ぎて笑えるねえ。こりゃあ傑作だ」

怒り心頭な参謀殿は煩わしげに、いつもとは打って変わる荒い口調で吐き捨てた。
ヒリつき熱を帯びてゆく。作戦会議とも呼べやしない俺たちの言葉の応酬に、遠巻きに見守る仲間たちがオロオロと視線を揺らし、目配せし合ってざわめき出す。
その様をちらりと一瞥して伺うと。参謀殿はつかつかと歩み寄り、有無を言わさぬ力で俺の胸ぐらをぐいと引き寄せた。
意図せず勢い余り、互いの頭をごんと打ち付ける。
慌ててすまんと一言謝るも。
それでも参謀殿は胸ぐらを握り込む力緩めずに、寧ろさらに顔を寄せて近付くと、そっと耳打ちしてこう告げた。

「もしですよ。もし仮に俺の見立てが崩れて、あなたの言うような戦況の逆転が起こるのなら――それはこの中にネズミがいるということです。その可能性が極めて高い。その方向で進めてしまっても?」

いつも通りの口調で伺いを立てる丁寧な言葉。
さきほどの暴言が嘘のように紡ぐその静かな物言いに、俺は頭の痛みも忘れて目を見開いた。
――マジか。さっきのあれ全部、咄嗟の芝居だったのかよ。まったく、とんだ狸か狐野郎だな。

参謀殿の末恐ろしさに二の句を継げないでいれば、それを肯定と受け取ったのだろう。
にこりと一つ微笑んで、漸く掴んでいた胸ぐらをぱっと離して参謀殿が退いた。
強かな相棒は手を払ったのち、大仰に俺を指差すと。
二枚目役者も舌を巻く迫真ぶりで俺たちの仲違いを装い続ける。

「そこまで言うのなら良いっすよ。あなたのその野生の勘に乗りましょう。 ――但し。その勘外れて、すべて水の泡となったとき。そのとき、あなたはどう落とし前つけるつもりっすか?」

不遜な態度の皮を被りつつも、それが本気の問いかけであることは見て取れた。
真っ直ぐに射抜いてくる彼の視線から目を逸らし、まぶたを閉ざして耳を澄ます。
そうしてみれば相変わらず、きらりと光るように瞬いて、姫さんの声が頭の奥で木霊した。

――本当に、俺は一体どうしちまったんだろうねえ。何でこんな声が聞こえるんだか。

その訳は一向に分からぬままだったが、それでも何がどうしても。
頭に響く、姫さんの悲痛な声を知らぬふりして聞き流す。
そんな不義理な真似して耐え抜く薄情さなど、不器用な俺が持ち合わせている訳なかったのである。
だからこそここは、相棒の奇策をねじ曲げてでも。
俺たちで救ってやるしか道はないのだろう。

ゆっくりと考えを重ね悟るように。
先ほどから繰り返し続ける自問自答を反復して。
やはりこの勘に頼るしかないと心を決める。
そうして己の頑固さを呪うように笑いをもらして、長らく待たせた参謀殿の芝居に乗っかってやった。
下がっていた顔を上げ、俺の決断の行方に注目する皆へ聞こえるようにして声を張る。

「そのときは何も問題ない。一時の迷いで隊への信用台無しにする、この不肖な一兵卒。その大将首掻っ捌いて、どこへでも土産に持って行けばいい。そんくらいの覚悟は、隊長の任を受けたときからちゃんと構えているさ」

ただただ、淡々と。さらりと一息に言ってのければ、俺の狙い通りにどよめきが走る。
その動揺は参謀殿とて同じこと。
あれだけ興の乗っていた芝居を忘れて一瞬だけ。くしゃりとその端正な顔を歪ませると、
「そんな真似、させるはずがないでしょう」
と呟き鋭く睨まれた。
その駄々っ子のように拗ねる表情に、こちらも調子が狂って笑いが漏れる。

「ははっ。その気概がありゃあ充分だな」

頼もしい相棒に腕を回して宣言する。

「よっし。姫さん助けに戻るぞ。 ――行くぞお! おまえら!」
「応!」

歩みを止め、停滞した隊の士気がまとまり一つとなる。
その雄叫びの向こうでまたきらりと一つ。
姫さんの声が、届いて消えた。


(2026/05/04 title:092 耳を澄ますと)

3/2/2026, 3:00:30 AM

便りがないのは良い知らせ、なんて言うけれど。
貰って嬉しいに越したことはない。
親しい間柄なら元より、増してや筆不精の御仁からなら尚のこと。
驚きすぎて、送り主を思わず二度見してしまったのも無理はない。
懐かしい旧友からの手紙に、仕事でくたびれていた心がふわりと舞い上がった。
――けれども。

「改まって、一体何だ?」
浮かれて封筒をかざしたりしている内に、次第に冷静さを取り戻した。
電話もSNSも知っている間柄のくせに、今の時代に何で敢えての手紙なんだ?
くるくると裏返していた手の動きを止め、改めて封筒の表書きを見直してみる。
――これ、宛名がわざわざ事務所になってるじゃん。
近況報告とかの私信なら、俺の名前宛てで送るはずだろう。たぶん。
ということは――。
「まさか、仕事の依頼状?」
ポストを開けたときのテンションから気持ちは一気に急降下。
一呼吸をおき。身構え直して封筒を開けてみれば、案の定。
奴が巻き込まれたトラブルの子細がびっちりと書かれた依頼状が出てきたのだから笑えない。

「あの馬鹿。まったく何やってんだよ」
呆れる俺の姿が予想出来たのか。
長い手紙の締めくくりには一言、「すまん」と追伸が添えられていた。
その、声まで聞こえてきそうな一文に天を仰ぐ。
続いて特大のため息を吐き出して、ソファーへばったりと倒れ込んだ。

そうだった。そうだった!
困ったときばっかりに連絡よこす奴だったよな、昔から!

寝転がったまま、届いた手紙を睨むようにして三度読み返す。
昔から欲望の塊みたいな奴だったけれども、このトラブルのお手本のような依頼内容は一体何だ。
文章こそ丁寧に書かれてはいるが、その裏に透けて見える、俺を巻き込んで解決しようという図々しい魂胆に怒りが沸いてくる。
そりゃあ、探偵だ、便利屋だって看板掲げて仕事している身だけどよ。
この内容で俺が引き受けると思ってるのか。
まったく舐められたものである。

「おっはよ~。って、うわ! どうしたのその顔。こっわ!」
手紙から視線を外せば、ちょうど奥の部屋から起きてきた相棒と目が合った。
のけ反りびびる奴に文句の一つも言いたくなったが、それどころではないと無視をする。
そのまま弾みをつけて起きあがり、放り出していたスマホを手に取った。
ダイヤルを回す相手は勿論、彼の阿呆な友人だ。

「待って待って。そ、その顔のままで電話するつもり? 依頼人に?」
「ほっとけ。何、ちょっとまずは説教をな」
反省の度合いによってはお灸も据えるが。
青筋を立て、コールが止むのをしばし待つ。
そうして電話口に出た旧友のとぼけた一声を受け、俺の怒号が探偵事務所に響き渡った。

本当、ふざけんじゃねえよ。 馬鹿が!


(2026/03/01 title:091 欲望)

2/5/2026, 9:08:23 PM

部活が同じで親しいことと、受験生であることを言い訳に。
今じゃない。今じゃない。を繰り返して、ずっと先延ばしにしてきた部長への想い。
王子と、部長と。仲の良い三人で励まし合いながら勉強を重ね、お陰で受験は無事に終えられた。
けれども、受験が終わったということはつまり、彼女との別れも近付くということであって。
自らの選択の積み重ねの果て。とうとう俺は追い詰められてしまっている。

カレンダーを見上げ、残り少なくなる日にちに焦る気持ちは募れども、ここまで来ても、やっぱり俺には意気地がない。
言葉はシンプルに、簡単なこと。
ただ一つ。好きと伝えるだけなのに。
その一言を口にする、勇気が持てないのだ。
ああ、情けない。俺の、根性無しめ。
受験から解放された爽快感と、それと反比例するように迷う気持ちは膨らんで。
どうしよう。と悩み続けている内に、遂に今日は卒業式を迎えてしまった。

手に有る卒業証書に視線を落とし、自分の不甲斐なさにため息が漏れる。
あーあ、本当。俺の馬鹿。晴れの良き日に何て様だ。
あの校門をくぐって手を振ったら、高校生活もおしまいで。今までのように気軽に部長に会う口実なんて無くなってしまうのに。
そこまで分かっているのに、隣に居る部長へ、どう話を切り出せば良いのかが分からない。
不幸中の幸いなのが、卒業の記念にと、お馴染みの三人でご飯がてら遊びに行こうという約束があること。
だからこうして、王子の用事が終わるのを二人揃って待っているところなのだ、が。

「流石、人気者だよねえ」
ぽつりと呟く視線の先では人気者、もとい王子が人だかりに囲まれて、代わる代わるに別れの言葉を交わしている。
下級生に教師、それから共に卒業したクラスメイトにと。
教室を出てからずっと、少し歩いては声をかけられ立ち止まり。
話し終えて進んだ先でまた呼び止められる。
これを繰り返すものだから、漸く校舎から出られた今も、校門は目と鼻の先だというのにちっとも先に進めていない。

高校生活最後の日に、親しくしてきた友人を薄情に置き去りにする訳にもいかず。
だからこうして大人しく、三人揃って亀の進みを続けているところなのだ。

互いにたわいもない話を繰り返していられる内はまだ良かった。
けれども、話し下手の俺では二人きりで長話を続けるのにもだんだん限界が近付いて来たようだ。
うんうんと、相槌を打ち続ける間に、いよいよ部長との会話のネタも尽き始めて。
そうして漸く、今更ながらに、寧ろこれはチャンスなのでは? と思い至った。

王子が帰って来たらまた三人。それまでは部長と二人待ち惚け。
だから、この二人きりの間に切り出してしまう方が良いに決まっている。
ごくりと唾を飲み込んで、隣の部長を覗き見た。
しかしながらその向こうに、周囲を行き来する卒業生や在校生の姿まで映り込んだことで、折角の勇気が尻すぼみになってしまう。
こんな往来の、衆人環視の中で、告白?
――む、無理! 絶対無理!

「は、はくしゅん!」
「えっ。大丈夫? 寒い、よね?」
「いや。うん、まあ。ちょっと、うん」

独り勝手にパニックになっていたことを悟られたくなくて、鼻をすすって誤魔化した。
ああ、格好悪い。
まただ。くしゃみを言い訳に、また逃げてしまった。
俺、いつまでこんなことしてるんだ?

自己嫌悪で落ち込む俺を、具合が悪いと見て取ったのか。
人だかりの向こうにいる王子を気にしながら、部長が遠慮がちに俺の腕を引いた。
「うーん。最後の日だし、三人揃って移動しようと思ってたけれど、外で待つのは寒いよね。もう先に二人で喫茶店まで行く?」
「えっ」
驚く俺に部長は続ける。
「王子にはメッセージ送っておけば大丈夫だよ。今日は卒業式で特別だけど、これからも三人で集まることは出来るし。もう後は春休みだけだけど、風邪でも引いたら心配だよ」
だから先に行って待っていよう、と促す彼女の言葉に、何故だかすぐに返事が出来なかった。

二人で行こうという提案に、一度は心が跳ね上がった。
卒業後のその後に、俺の存在があることも嬉しかった。
けれども、さっきまで告白しようと勢い込んでいたせいもあってなのか。
「王子と三人で」という括りでしか無いことが、唐突に悔しく思えてしまって。

「――王子も居なきゃ、駄目?」

いつぞやかの嫉妬のように、ぽつりと言葉が漏れてしまっていた。
いきなりの問いかけに、詰められた部長も「え?」と呟いて固まった。
遅れて自分の顔が熱くなるのを自覚する。
それでも、一度たがが外れた勢いは、もう止めることができなかった。
ずっとうじうじ悩んでいたのが嘘のよう。
顔を上げ、正面から向きあって初めて、部長の顔も赤いことに気が付いた。
その顔をじっと見つめながら。
深呼吸して、ずっと彼女に言えなかった言葉を口にした。

「俺、部長が好きだよ。俺だけじゃ、駄目?」

――どれくらい、待っただろうか。

見つめる俺の視線に耐えかねてもあってか、部長はそっとそのまま俯いて。
そして小さく、でも聞き取れる声で、「駄目じゃない、よ」と呟いた。
それだけでも俺にとっては充分すぎる答えだったのに。
その後に添えられた、「私も、好き」という言葉に、再び心臓の鼓動がどくんと跳ね上がった。
ほ、本当に? 部長が俺を?

「ほ、本当だよ! 好き。大好きだよ!」
心の中での自問自答のつもりが、失礼にも声に出して聞き返してしまっていたらしい。
部長はそれを嫌がるどころか朗らかに笑ってくれて。
さらにはっきりと聞こえる声で答えてくれた。
「ま、マジで? 本当に?」
何度も聞き返し続ける俺に言い聞かせるように、部長が優しく「好き」と繰り返す。
移動しよう、と。引かれるままになっていた腕から彼女の手が離れ。
今度は手袋越しに俺の両手を握り返された。
ふんわりと、そうしてゆらゆらと。
繋いだ両手を揺らされて、漸くこの夢みたいな現実に実感が沸いてきた。
張りつめていた緊張の糸が解ける。
そのまま足の力も抜けてしまい、彼女と手を繋いだまま、俺は彼女の前にぺたりとへたり込んでしまった。

「え? えっ! ちょっと、大丈夫? やっぱり具合が悪いんじゃ――」
「違う違う。もう、嬉しくって。ちょ、ちょっと時間ちょうだい」
「う、うん?」

ああ、大好きな子を早速困らせて情けない。
でもごめん。本当に今、めちゃくちゃ嬉しくて。
格好悪い姿のまま、じゃれるように彼女の腕を揺らし続けた。
ああ、本当に。本当に、良かった!

「ねえ。一つ、お願いがあるのだけれど」
気が付けば、部長も俺と一緒にしゃがみ込んでいた。
対等に、目の前で向かい合う。
逸らせない視線に緊張して、鎮まりかけていた心臓が再び早鐘を打ち始めた。
「あのね。名前で呼んでほしいなって」
「えっ。な、名前?」
打ち明けられた小さな、しかし俺にとっては大きな、可愛いお願い事に少し声が裏がえってしまった。
はにかむように笑って彼女は続ける。
「ほら、今日で卒業でしょう? 今まで通り部長って呼んでくれても良いけれど、部活ももうないし。ねえ、駄目かな?」
折角これからは彼女なんだし、と。小さく続けて赤くなる。
そんな今まで見たことない彼女の表情に、俺も釣られてくらくらしてしまった。

ああ。本当に、俺で良いのかな。
気持ちが通じ合っただけでもこんなに嬉しいのに、これ以上を望んで良いなんて。
照れ臭くて、恥ずかしいけれど。
彼女の願いに、応えたい。

深呼吸を一つして。
初めて呼んだ彼女の名前は、緊張で少し掠れてしまった。
それでも満面の笑みで喜ぶ彼女を見て、愛しい気持ちが膨らんだ。
「――大好き」
続いてこぼれ出た言葉に、二人一緒に驚いて。
手を繋いだまま、小さく一緒に笑い合った。

ああ、もう。
格好悪いままの俺だけど。
これからもどうぞよろしく、ね。


(2026/02/05 title:090 溢れる気持ち)

2/1/2026, 11:09:06 AM

夕方の公園。いつもは友だちと遊んで楽しいお気に入りの場所なのに、今日はとてもつまらない。
理由ははっきりしている。
兄ちゃんと、喧嘩してしまったからだ。

だって、僕が楽しみに取っておいた大事なお菓子。
それを兄ちゃんてば、偶然見つけてそのままほとんど食べちゃったんだもん!
帰ったら食べようと楽しみにしていたのに。
もう、あんまりだよ!

どうしても。どうしても許せなくて。
平謝りの兄ちゃんを押しのけて、最後に「馬鹿!」と怒鳴って家を飛び出した。
あの時は、残しておいたクッキーを食べられたのが残念で、悲しくて。
込み上げる勢いのまま、泣いてどかんと怒ってしまった。
けれども今は、兄ちゃんと喧嘩してしまった――そのことの方が、とっても悲しい。
兄ちゃんは情けないくらいにおろおろして、必死に謝ってくれていたのに。
そんな兄ちゃんを、意地になって困らせた。
どうしよう。喧嘩なんて、したくなかったのに。
どうしよう!

すぐには家に帰りづらくて、足が向くまま、さっきまで遊んでいた公園まで戻って来た。
とぼとぼと歩いて。大好きなブランコに乗ってみたけれど、そんなことで気持ちが晴れる訳がない。
帰らなきゃ、謝らなきゃ。
キコキコ、ゆらゆら。
ブランコを揺らして考え込んだところで、まったく踏ん切りがつきやしない。
どうしよう。どうしよう!

「ああ、居た! 」
そんな僕の悩みを吹き飛ばすように、公園の入り口から大声がした。
兄ちゃんだ。
僕を見付けてドタバタ走り、「兄ちゃんが悪かった。ごめん!」と叫んでいる。
その姿は、お世辞にも格好良いなんて言えやしない。

「――何で」
兄ちゃんは、最初から謝ってくれていた。
しっかり話も聞かずに飛び出した、僕だって悪いのに。
いつまでも怒ってるのは、男らしくないよね。
――うん。迷うのは、もうお仕舞いだ!

ブランコから飛び降りて、一目散に走り出す。
「兄ちゃん。兄ちゃん! 僕も、ごめん!」
ダッシュの勢いそのままに、広げてくれた兄ちゃんの胸へと飛び込んだ。

時々抜けてて、それでも優しくて。
潔くて格好良い。
ごめんね兄ちゃん。
やっぱり、大好きだよ!


(2026/02/01 title:089 ブランコ)

1/15/2026, 5:52:58 AM

もしも一線を越えるとしたら。
それは私ではなく、彼の方だとばかり考えていた。

理不尽に浴びせられる侮蔑に暴言、それから嘲笑。
耳を塞ぎたくなるようなそれらは、自身に向けられるもので無かったとしても、同族意識の高い私たちの神経を逆撫でるには充分過ぎるもので。
嘲り痛めつけられる仲間を前に、じっと耐え抜くことは毎度至難の業だった。
実際に。正義感も強く、仲間思いの彼が堪えきれず飛び出そうとするのを、何度皆で押さえ込んだことだろう。

だからすっかり、油断していたのさ。
自分だって血の気が多い性分な癖に、そんなことは都合良く忘れて、彼や仲間の心配ばかり。
いつもフォローに回っていた私が、まさかのうっかり。
奴らと同じ畜生道――いや、それ以下に成り下がるなんて、とんだ大間抜けも良いところである。

「どうして」
全身血まみれの私を前に、彼がぼろぼろと泣き崩れた。
ほら、やっぱり君は仲間思いで優しいや。
そんな君だからこそ助けようと思えたし、この先に待ち受ける苦難のことなど後回しに出来たんだ。
今はただ、君が無事であることがとても嬉しい。

緊張が解けて、安堵の笑みをこぼす私に、彼が叫んだ。
「ど、どうして君が! いつもは、君こそが止めてくれていたのに! なっ何で!」
「いやあ、そこは本当に面目ないや」
「そんな! き、君が手を汚すくらいなら、僕は死――」
「ストップ」
言い募る彼を静かに制した。
向けられた真っ赤な掌に怯んで、彼の言葉が止まる。
「それは、私も同じだから。おあいこだろ」
言いたいことはまだまだあっただろう。
口を開けては閉ざす、を数回繰り返して。
言葉が見つからないままに、彼は俯いて涙ぐんだ。

見上げた空の月は赤くて、まるで今の私の姿を映したようだ。
けれどもその弧は鋭く三日月で、まんまと人殺しとなった私を嘲るような笑いにも見えて、気分が悪い。
反発するように、短くはっと息を吐いて笑い返した。

「兎にも角にも、これで私は追われる身だ」
呟く私に、彼が顔を上げる。
「けれども、事の発端たる君を置いていくのも忍びない。勝手な提案だが、一緒に行くかい?」
離れていても、共にいても危険であることに変わりはない。
それでも、この手を差し出さずにはいられなかった。
文字通りに血塗られた手で、何ておこがましい。
断られることは百も承知。それなのに、嬉しいかな。
迷うことなく、彼は私の赤い手を握り返してくれたのだ。
その力強さに、初めて涙がこぼれ落ちる。
互いに濡れた顔のまま、どちらからともなく声をかけた。

「共に、行こうか」

さあ。罪に濡れた、幼なじみ二人。
長い長い、逃亡の旅の始まりである。


(2026/01/14 title:088 どうして)

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