あの背中を、何故だか私は知っている。
おぼろげだが、やけにリアルな夢を見た――ような?
確信は無かった。
でも、あのまま彼を行かせてはいけない、と。頭の中で警告が光り、心臓がばくばくと鼓動する。虫の知らせと云うやつか。
とにかく彼を引き留めたくて口を開いた。
けれども、この勘のようなものを、一体何と伝えれば良いのか。焦って言葉が出て来ない。
ぐるぐると考えがまとまらない頭のまま、破れかぶれ。
飛びかかるようにして、立ち去ろうとする彼に後ろから抱きついた。
勢い余ったせいで、どすんと体当たりのようになってしまったが許してほしい。
「ぐえっ」
案の定。不意打ちの衝撃に、蛙のように彼は呻いた。
それでも、そこは流石の運動馬鹿。何とか踏ん張って倒れはしなかった。
立ち止まって安堵の息を吐き、私を振りほどきながら文句が続く。
「あっぶね~な。何すんだよ――て、え? ええ?」
恨めしそうに振り向いた彼の表情が一変する。
「な、何で泣いてんの?」
戸惑う彼の言葉で初めて気が付いた。
いつから流れていたのだろう。私の頬は涙に濡れていた。
泣き顔を見られたくなくて、両腕でとっさに顔を隠す。けれども涙は止まらない。
「ど、どうして、なんて」
上手く伝えられないけれど、そんなの理由は一つしかない。
あなたに会えなくなるのは嫌だから。
あなたにまだ生きていてほしいから。
どぎまぎと、不器用に私をあやすあなたが愛おしいからに決まっている。
夢のようなこの話を信じてくれるなら、どうかこのまま行かないで。
この得体の知れない不安が消えるまで。
今はただ、このまま側に居てほしい。
それを伝えたいのに、止まない涙が邪魔をする。
でも、今日だけは。今だけは素直にならないと。
きっと一生後悔することになる。
鼻をすすり、意を決して顔を上げた。
心配そうに私を見下ろす、背の高い彼と目が合った。
ああ。やっぱり、彼が好きだ。
深呼吸して、吐く息の勢いに乗せて話し出す。
「あのね――」
お願い、信じて。
どうか、あなたを失うことになりませんように。
彼を手離したくなくて。
驚いて立ち尽くす彼の服の裾を、ぎゅっと掴んだ。
(2025/02/12 title:072 未来の記憶)
ふんわり、ふわふわ。
休み時間、次の授業へと教室を移動する廊下にて。
隣を歩く友人が一歩一歩と踏み出す度、その動きに合わせて、爽やかな香りがそっと鼻先をかすめてくる。
ああ、なるほど。朝からクラスの女子たちがざわついていたのはこれのせいか。
確かに、こんな風に香ってきたら気になるわな。あいつらがそわそわしても仕方がない。
でもこれ。石鹸とかでもないし、一体何の匂いだ?
「なあ、おまえ。今日は香水でもつけてんの?」
「ええ? 何、急に」
すれ違う他の生徒をひょいと避けて、先を歩いていた王子が俺を振り返る。
同時に、後ろを歩く女子たちのお喋りもピタリと止んだ。
タイミングの良すぎるそれに、俺たちの会話に耳をそばだてているのがバレバレだ。
うわ、しくじった。俺としては素直に疑問を口にしただけなのに。
割り込んできたりこそ無いものの、会話を聞かれると分かっていて話すのはやりづらい。
けれども、自分から振った話題を今更引っ込めることも出来なくて、そのまま王子の答えを待ってみた。
王子の方も盗み聞きに気付いているのか、いないのか。
注目されることに慣れている学年トップの王子さまは、さして顔色に出すことなく、眉根だけ寄せて歩き続けた。
「香水って、それ校則違反だよ。僕がつける訳ないでしょ」
「俺だって分かってるよそんなことは。でも、何て言うか。おまえが動く度にこう、爽やか~なのが香って来るんだよ」
「爽やか?――ああ! 分かった」
俺の説明で合点がいったのか、王子は笑って相槌を打つ。
そして袖口に鼻を寄せ、自身も確認してから答えてくれた。
「これ、柚子だよ。昨日、近所の人がたくさんくれてね。食べるだけじゃ消費出来ないって、母さんが柚子風呂にしたんだ。凄いいっぱい浮かべてたし、その名残りだねきっと」
「あ~。柚子」
言われてみればそんな香りだ。
幼い日、まだ母さんも生きていた頃。
そんな昔。俺の家でも冬になると、母さんが料理やジャムに使ったり、同じように柚子風呂にしてくれていたのを思い出した。
親父との男所帯になってからはずっと遠退いていたけれど、何だか懐かしいな。
「師匠の家も要る? まだ残ってるはずだし、良ければ明日持ってくるよ」
俺の表情が和らいだのを、興味を持ったと読み取ったのか。
すかさず王子が勧めてきた。
「ええ? いやあ、うちは親父と二人だからなあ」
突然の提案に戸惑って、首を傾げて迷ってしまった。
「いつもならジャムとかやってみたいところだけれど、この時期流石に凝った料理やってる暇はねえし。貰っても、風呂に入れるくらいしか出来ないぞ」
「良いよ、それでも。貰って協力してくれたらうちの母さんも喜ぶし」
それに、と言って王子は付け足す。
「柚子風呂って邪気祓いになるって言うよ。僕ら受験生だし、冬至は過ぎちゃったけれど、ご利益に預かっても良いんじゃない?」
「ええ? そうかあ?」
「そうそう」
俺の返事を待たずして、気の早い王子はもうメッセージを送信して残りの柚子の数を尋ねている。
タイミングも良かったのか、返信もすぐ返ってきた。
「やっぱりまだ残ってるって。どうする?」
「うーん。そこまで言うなら貰っておくかな」
親父も、案外懐かしがって喜ぶかもしれないし。
何より、邪気祓いの効果に興味を惹かれた。
受験生だもの、すがれるものにあやかって損は無いはずだ。
「オッケー。じゃあ明日持ってくるね」
「少しで良いからな、少しで」
「了解、伝えておくよ」
気が付けば、喋り込んでいる間に目的の教室前まで着いていた。
寒い寒い、と呟いて王子が足早に教室へと駆け込んでいく。
俺もそれに続いて、入り口をくぐる。
その時、何となく気になって後ろを振り返ってみたところ。
俺らの後ろを着いてきていた女子たちが、俺を拝んだり、「よくやった!」とばかりに親指を立てて微笑んでいるのを見てしまった。
おいおい。やっぱり盗み聞きしてやがったのか。
予想通りの結果に、げんなりしてため息が漏れる。
あーあ。早速運気が下がっていくようだ。
やっぱり柚子の力が必要だな、これは。
のろのろと動く俺に構わずに、女子たちは上機嫌。
労う様に、彼女たちにばしばしと背中を叩かれながら。
俺も一緒に暖房の効いた部屋へと足を踏み入れた。
もう、そっとしておいてくれよ。まったく。
(2025/01/14 title:071 そっと)
朝起きたら、毛布が肩からかかっていた。
何を当たり前な。と思うかもしれないが、そうじゃない。
ここはリビングで、俺の部屋ではなく。
こたつで寛ぎながらいつの間にか夢の中へダイブして、そのまま寝室へ移ることもなく朝まで爆睡してしまったのだ。
寝入り端。
「親父、起きろよ。おい」
「こたつで寝るなってば。おーい」
と、息子に揺り起こされた覚えはあるのだが、疲れに負けて全く起きることが出来なかった。
子供に世話を焼かれるなんて、不甲斐ない父で申し訳ない。
出来の良い息子はそんな俺を見捨てることなく、こうして毛布までかけてからリビングを去ったのだ。
まあ、ため息吐かれたのも覚えているけれど。
優しい子だなあ、と和んでしまうのは親馬鹿だろうか。
「あたたかいねえ~」
こたつの温度も、手繰り寄せた毛布もぽかぽかとして気持ち良くて。
にやけた顔のまま、ついついもう一眠りしてしまった。
その後、起きてきた息子に叩き起こされたのは言うまでもない。
ごめんな、ありがとう!
(2024/01/11 title:070 あたたかいね)
「お守りにしてね」
そう言って手渡されたキーホルダー。
ころりと握らされたそれをつまみ上げて、暗い夜空にかざしてみた。
チェーンに繋がれた先には、小さな小瓶。
中には金平糖のような欠片がころころと詰まっている。
月明かりを受けてキラキラと反射する様は、まるで星のように可愛らしい。
――あれ? でも、何か変だぞ。
気に入って、じっと見惚れていて気が付いた。
見間違いかな。
この欠片自身も光って見えるのだけれど、気のせいかしら。
「ねえ。これ、何?」
訝しんで尋ねれば、いつもに増してご機嫌な君はのらりくらり、「内緒」と囁き微笑んだ。
「きっと良いことあるよ。おまじないもかけたから」
鼻歌に乗って揺れる君は、何故だか得意気で。
訳を訊いても答えてくれはしなかった。
「ふーん。おまじない、ねえ」
半信半疑の私に構わずに、小瓶はキラキラ輝き続けている。
まあ、いっか。
お楽しみを暴くのも野暮なもの。
君の云う「良いこと」とやらを、信じて待ってみるとしよう。
(2025/01/09 title:069 星のかけら)
時折ふっと、選ばなかった未来を想像する。
嗚呼。あの時、ああすれば良かったな。
こうしていたらどうなったのだろう。
欲張りに、もしもの世界の続きを考える。
けれども決まって最後には、
「まあでも、ああやって失敗したから良かったんだよね」
と、今の時代、今の世界線に帰ってくる。
だって、あそこで成功していたら経験できなかったことだとか。
出会えなかったであろう、友人知人の顔がちらつくのだもの。
全部が全部、正解だったのかは分からないけれど。
年を食ったとは云え、まだまだ今生の途中だし。
先の道は不透明で見通せないけれど。
今届く範囲の選択を繰り返して、少しでも「幸せだった!」と胸張れるゴールにたどり着きたいと思うんだ。
(2025/01/04 title:068 幸せとは*02)