「ミナトなんて知らない」
「待てよ、アリサ!」
ミナトが呼び止める声を背に、私は部屋を飛び出していく。
そして勢いそのままにアパートの階段を降りていく。
エントランスまで来たところで、ふと振り返る。
私を追いかけてくると思ったけれど、ミナトはどこにもいない。
愛想を尽かせせしまったらしい。
『もしかしたら』という幻想も打ち砕かれ、私はトボトボ歩き出す。
そこで足の裏が痛いことに気がついた。
何故だろうと足元を見ると、なんと靴を履いていない。
どうやら素足のままで出てきたみたいだ。
靴を取りに帰りたいが、今帰ると負けた気がする。
しかし素足のままではどこにも行けない。
どうしようかと周囲を見渡すと、エントランスに来客用のソファーが置いてあった。
ちょうどいいと思って、ソファーに腰掛けて今後のことを考える。
――ようとしてもダメだった。
頭の中はミナトの事で頭がいっぱい。
未練たらたらだった。
私とミナトは幼馴染だ。
家は隣同士、幼稚園の頃から一緒にいて、小中高と同じ学校に通った。
一緒にいることが当たり前で、離れることなんてありえない。
そしてなんとなく交際が始まるという、絵に描いたような幼馴染だった。
けど喧嘩がないわけじゃない。
一緒にいる分、普通のカップルよりも多いだろう。
大抵の場合、私が原因で始まる。
私は人一倍こだわりがあるのだが、それを発端に喧嘩になってしまうのだ。
でもほとんど――全てかな、最終的にミナトが譲歩する形で仲直りする。
だから今回の喧嘩も、ミナトが歩み寄ってくれると思った……
けど今回は違った。
ミナトは最後まで自分の主張を曲げず、段々と激しい口論になり、最終的に私が出て行く羽目になった。
どうしてこうなったのだろうか……?
ミナトが譲歩しなかったから?
それもあるだろう。
けれど最大の要因は、私が譲歩しなかったこと。
今回もミナトが譲ってくれるだろうと甘えたせいで、最悪の結果になってしまった……
私が悪いことは分かっている。
だから、こちらから謝ることが最善なのはわかってる。
でも私のちっぽけな自尊心が邪魔をして、どうしても出来そうになかった。
けれど、私は部屋に戻らないといけない。
靴が無ければどこにも行けないからだ。
けれど、ミナトに合わせる顔がない。
自分の詰んだ状況に頭を抱えていると、誰かが私の前に立つ気配がした。
「アリサ、靴持ってきた……」
ミナトだった。
手には私の靴がお気に入りの靴が握られている。
ミナトが許してくれると期待したけれど、ミナトの顔は険しいまま。
どうやら許してないらしい。
「ありがとう」
私はがっかりした事を悟られないよう、感情を押し殺す。
靴を渡してくるミナトは、ちょっと遠い。
いつもならもっと近い距離、それこそ密着と言っていいほど近くにいてくれる。
けれど、今は知らない人に落とし物を渡す一歩離れた距離。
パーソナルエリアを意識した、他人の距離だ。
一歩踏み出せば手の届く距離、けれどその距離がたまらなく遠かった。
「じゃ、これで」
なんとなくで付き合い始めた私たち、このまま別れればなんとなく破局するだろう。
そんな確信があった。
そんなのは嫌だ。
ミナトを引き止めようと手を伸ばす。
けれどミナトは一歩下がって、私の手は空を切った。
私たちはこれで終わるの……?
そんなの嫌だ!
私は勇気を出して、もう一歩だけ、ミナトに踏み出した。
「ごめん」
一歩で足らず、二歩三歩踏み出し、ミナトに抱きつく。
顔は見えないけれど、動揺してきるのが伝わってきた。
「ごめんね、いつもわがままばかり言って……
ありがとう、いつもわがままを聞いてくれて」
「……うん」
「私はあなたが好き。
このまま別れるのは嫌」
「……俺も」
「私、頑固だった。
次はもう少し、頑張ってみる」
「うん、俺も悪かったよ。
ちょっと意地悪だったね」
「帰ろう」
「ああ、帰ろう。
二人の家に」
こうして私たちは仲直りし、手をつなぎながら部屋へと戻るのだった。
♥
「また喧嘩して仲直りしてる……」
「毎日飽きないねぇ」
「全くお熱い事で」
二人が抱き合う様子を、近所のおばさま方が見ていた。
もはや日常風景とかした二人の様子に、恋バナが大好きな彼女たちも食傷気味だ。
二人が仲良く手を繋いで部屋に戻るのを、ため息交じりで見送る。
そして姿が見えなくなってから一人が言った。
「で、今日は何でケンカしてるの?」
「ああ、それなら大声で言ってたから知ってる」
「なんとなく察しはつくけど……
一応聞かせて」
数人の視線が、一人に集まる。
「今日はピーマンを食べないんだってさ。
アリサちゃん、好き嫌い激しいからね」
1
少し前、『雷蜘蛛(カミナリクモ)』という新種の昆虫が発見された。
新種ゆえ分からないことが多いクモであるが、このクモは文字通り雷が近くにある時にしか現れず、雷が去ればどこかへ消えてしまうと言う。
クモが雷を呼ぶのか、それとも雷にクモが呼ばれるのか、それは分からない。
ただ、たいてい雷雲は雨雲を連れてくる。
雷が聞こえたらすぐに雨宿りをしないと、びしょ濡れだ。
それを思い知ったのは、つい今しがた。
旅行先でこの新種のクモを見つけてはしゃいでいたのだが、辺りに遠雷が響き渡る。
驚いて空を見上げるとどんより曇っていて、次の瞬間大粒の雨に撃たれてしまったのだ。
慌てて雨宿りできる場所を探すけれど、ここは見知らぬ街の路地裏。
軒先を見つけることが出来ず、半ばあきらめかけた時、視界の隅に看板が映った。
『スナック midnight blue』。
看板は目立つ色で彩られていて、雨の中でもはっきりと見ることが出来た。
スナックは正直苦手なのだが、今はそうも言ってられない。
扉を押して中へ入ると、そこには一人の年配の女性がいた。
「あっ、すいません。
まだ営業していないんですよ」
スナックの責任者であろう『ママさん』がこちらを見て言う。
どう見ても不審者だろうに、嫌な顔一つしないのは年の功だろうか。
一瞬驚きはしたが、すぐに笑顔になった。
「実は通り雨に遭いまして。
雨が止むまでここにいさせてもらえませんか?」
「それは大変でしたね。
どうぞ、雨が止むまで雨宿りしてください」
「ありがとうございます」
「いえいえ、困った時はお互い様ですよ」
そう言うとママさんは店の奥へと入っていった。
なんとか許可を貰えてホッとするが、いつまでもここにいることは出来ない。
早くやまないかなと外を眺めていると、ママさんが戻って来た気配がした。
「タオルとコーヒーをどうぞ」
「いえ、僕は客じゃないので。
それに雨宿りさせてもらうだけで十分です」
「そうおっしゃらずに。
それに困っている人をそのままにしておく方が無作法というものですよ」
「そういう事でしたら」
「その代わり『スナックmidnight blueのサービスは最高だ』と宣伝してください」
「ははは、敵いませんね」
僕は厚意に甘えて、タオルを受け取り水気を拭く。
そして側に置かれた湯気の立つコーヒーを飲むと、気持ちが落ち着いてきた。
濡れたのは少しだけとはいえ、やはり冷えた体に暖かい飲み物は最高である。
僕がホッと一息ついていると、ママさんは外を見てため息をついた。
「それにしても雨ですか。
天気予報は晴れだと言っていましたが、当てになりませんね」
「僕も油断していました。
もしかしたら雷蜘蛛のせいかもしれません。
さっき見かけたんですよ」
「……雷蜘蛛」
「どうかしましたか?」
「いえ、なんでも」
さっきまで饒舌だったママさんが、急に黙り込んだ。
雷蜘蛛になにか思う所があるのだろうか?
事情が気になったが、自分はたまたまここにいるだけの人間。
余計な詮索は失礼だと思ったが、ママさんは何かを言いたげな表情でこちらを見ていた。
「雨がやみそうにありませんし、少しお話しませんか?」
ママさんが僕の顔を見て呟く。
さっきまでの友好的な雰囲気は無く、顔は笑っていなかった。
その異様な空気に言葉が詰まるが、ママさんは気にせず言葉を続けた。
「少し話したい気分なんです。
ああ、お金のことはお気になさらずに。
私が話したいだけですから」
「……分かりました。
こうしてお世話になりましたし、恩返しのつもりで聞きますよ」
「ありがとうございます」
そう言って、ママさんが椅子を勧めてきたので、そのまま座る。
僕が腰かけるのを確認して、ママさんはゆっくりと口を開いた。
2
「子供の頃の話です。
私の父は癇癪持ちでした。
いつも機嫌が悪く、常に誰かに怒鳴っていました。
家族に怒鳴るのは良い方で、時に赤の他人を怒鳴り、寝ていても寝言で怒鳴るからたまったものじゃありません。
それを母は『お父さんは本当は優しいの、腹の虫に操られているだけなのよ』と言っていました。
そういう事にして母は諦めていたようですが、私はそんないい子ではありませんでした。
いつも意味もなく怒鳴られて、私はイライラしていたのです。
私は父が嫌いでした。
ある日、私は復讐することにしました。
父は心臓病を患っていて、毎食後に薬を飲んでいたのですが、その中に虫下しを混ぜたのです。
心臓病の薬が飲めずに苦しんで欲しかったし、父が死んだらもっといい。
そう思ったのです。
虫下しにしたのは母の言葉があったからです
母の言葉を信じていませんでしたが、虫下しを飲ませて虫が出てなければ、母の嘘が証明できると思ったのです。
何かと父を庇う母も嫌いでした。
そして何も知らず食後に虫下しを飲む父。
すると父が苦しみだしました。
私は言葉では心配しつつも、心の中では大喜びしました。
しかし、すぐに様子がおかしい事に気づきます。
父は心臓ではなく、お腹が痛いと言い始めたのです。
心臓が痛いと言うのは分かりますが、腹が痛いと言うのはどういうことか?
意味が分からず、私は混乱しました。
確かに私は父を殺すつもりで虫下しを入れました。
しかし、想像と違う苦しみ方をして、とても気持ち悪い物を感じました。
自分は間違いをしてしまったのではないか……
そんな思いが私を支配しました。
その時でした。
『ソレ』が現れたのは……
『ソレ』はクモでした。
虫下しが効いたのか、父の口の中から力なくよろよろと這い出てきたのです。
すると、クモが出てきたのに合わせて父も元気になりました。
私は直感しました。
父が怒りっぽいのは、この虫のせいだと。
仕返しをするためクモを捕まえようとしましたが、クモは母が肩を揺さぶった勢いで落ちてしまいました。
慌てて目線を地面に移しましたが、どこにもいません。
私はがっかりしました。
その時はそれで終わりました。
ところが不思議なことが起きました。
それ以来、父は温厚な人間になったのです。
父は数年後に亡くなってしまいましたが、それ以来一度も怒鳴るような事はありませんでした。
母は正しかったのです。
あの母の言葉は現実逃避ではなく、ただの事実だったのです。
何も知らずに父と母を憎んだ自分を恥じました。
しかし謎は残ります。
なぜあのクモは父を操って怒鳴らせていたのでしょう。
何らかの意味があると思ったのですが、長い間分からないままでした。
『雷蜘蛛』のニュースを聞くまでは……
そうです。
父の口の中から出て来たクモ、あれが雷蜘蛛とそっくりだったのです。
そして私は長年の謎が解けました。
なんでそれで分かったのかって?
だって『こっぴどく叱る』の別の言い回しがあるでしょう――
――『雷を落とす』って」
3
「あら、気がついたら雨が上がっているわ。
長話に突き合わせてゴメンなさいね」
「いえ、面白いお話でした」
「そう言ってもらえると助かるわ」
ママさんは嬉しそう微笑んだ。
彼女がどうして僕にそんな話をしたのかは分からない。
僕が二度と会わないであろう人間だからかもしれないし、ただ話たかっただけかもしれない。
ただママさんは、話してスッキリし表情だったので、僕はそれで良い事にした。
しかしここまで聞き入ってしまうのは計算外だった。
さすが客商売、話が上手である。
「でも一つだけ気になることがあります。
さっきの話が本当なら、雷蜘蛛は昔から人間の中にいたんですよね?
どうして最近になって、外で見かけるようになったでしょうか?」
「確かなことは言えないけれど、多分気づいたのよ……
外の方が効率が良いって」
「『効率がいい』?」
「人間を操って『雷を落とす』よりも、天気を操って雷を落とせば、ずっと効率が良いってね」
「それって、最近の異常気象は……」
「ふふふ、本気にしちゃいけないわ。
ただの与太話だもの。
まあ、そのあたりの事は研究が進めば分かるんじゃないかしら?」
そう言って、ママさんは時計を見た。
「そろそろ店を開ける準備をしないといけないの。
申し訳ないけど、帰ってくれるかしら。
それともこのまま飲む?」
「すいません、お酒は飲めない体質でして……
随分とお世話になりました。
ありがとうございます」
僕は丁寧にお礼を言って、店を出た。
店を出た瞬間、湿った空気と真夏の日差しが僕を襲う。
夏の容赦ない太陽に憎しみを覚えつつ、僕は泊っているホテルへと足を向ける。
タオルで拭いたとはいえ、下着がまだ濡れていて気持ちが悪いのだ。
早く着替えたいと、駆けだそうとしたその時だった。
視界の隅に雷蜘蛛が映る。
もう雷は去ったと言うのに、なぜこんなところにいるのだろう。
もしかして天気を操って雷を呼ぼうとしているのだろうか……?
「まさかね」
ポツリと呟くが、胸のざわつきは消えない。
何とも言えない気持ち悪さを感じつつ、雷蜘蛛を背にしてホテルへと向かうのであった。
勤め先の探偵事務所に向かう途中、そこの所長である先生がカラスに絡まれているのを見つけた。
ガアガアと数匹のカラスが先生を取り囲み、興奮しているのか、翼をバサバサとばたつかせている。
自らをハードボイルドと称し、なにかと奇行の多い先生であったが、まさかカラスに追い詰められるとは……
相変わらず面白い人である。
このまま見ていたい気持ちになるが、私は勤め人……
遅刻になってしまう。
ただ幸いにして雇い主は目の前にいる。
うやむやに出来るなと頭で考えていると、先生と目が合った。
「いい所に来た!
助けてくれ、カラスに囲まれてる!」
「見れば分かります。
でもカラスに囲まれるって、ハードボイルぽくないですか。
そのままでもいいのでは?」
「そんなわけないだろ!」
怒られた。
まあ、口から出任せなので、当然といえば当然なのだが……
今度は真面目に解決策を考える。
「そのまま普通に走って、事務所に逃げ込めばいいのでは?
建物の中にまで入っては来ないでしょうし」
「それをやると事務所の場所を覚えられるだろ。
カラスは頭がいいから、逃げ込んでも出待ちするに決まってる」
カラスを過大評価しすぎだとは思うが、私も否定できるほどカラスに詳しくない。
このまま黙っておく事にした。
ただ頭がいいのは間違いない。
私たちがカラスの言葉がわからないのに、カラスは私たちの言葉を理解しているのだから……
「先生、いったい何をしたんですか?
こんなにカラスに絡まれるなんて、普通じゃないですよ」
「何もしてない」
「カラスも暇じゃないんですよ。
何もしていないのに、絡みに来るわけがないでしょう?」
「何もしてない、けど……」
「『けど』?」
「聞いてみただけなんだ……」
「何を?」
「『カーラースー、なぜ泣くの?』って」
「…………はい?」
ハードボイルドらしからぬ発言を聞き、思わず変な声が出た。
そんな、小学生でもしないようなこと、大の大人がやるかね……
面白いを通り越して、心配になってくる。
それはともかく。
「それじゃ、カラスは『なぜ泣くの?』と聞かれたから、こうして説明しているってことですか?」
「多分、そうなんじゃないかな……
でもカラスの言葉、分かんないし」
「私も分かりません……
ああ、でも!」
私はポケットからスマホを取り出す。
「翻訳アプリを使えば!」
「俺、テクノロジーについて詳しくないけど、それは人間用だろ?」
「何を言っているんですか!
今は令和ですよ!
カラス語にも対応しているはず!」
「令和を信頼しすぎてる」
「あ、出来ました」
「令和すげえな!?
それでなんて言っているんだ?」
「『君と飛び立つ』」
私が文字を読み上げる。
するとカラスたちは、鳴きやんだ。
どうやら正解らしい。
これでようやくこの騒動は終わるらしい。
しかし一つだけ問題がある。
「どういう意味だ?」
「さあ?」
「ちゃんと翻訳出来てないんじゃないか?」
「そんなはずは……」
私たちの雰囲気を察したのか、再びカラスがガアガアと鳴き始める。
その度にスマホに『君と飛び立つ』と表示され、やがて画面が埋め尽くされる。
いったいカラスは何を伝えたいのだろう……
カラスの習性に関係あることなのだろうか?
私は突破口を探すため、数日前に見たカラスの特集を思い返していた。
そして私はある仮説を思いつく。
「そう言えば、カラスってパートナーが出来たら死ぬまで一緒にいるそうですよ」
「へえ、そうなんだ……
でもそれと今に何の関係が?」
「先生、もしかしてプロポーズされているのでは……」
そう言うと、先生がハッと目を見開いた。
「なるほど、パートナーになって一緒に飛ぼうていうお誘いか。
今黒い服を着ているから、カラスと間違えられたんだな。
いやあ、困るなあ」
「なんで照れるんですか?」
カラスにモテて喜ぶっていう感性が分からん。
実はカラスが好きなのだろうか?
見ようによっては可愛いところはあるけれど……
私がどうでもいい事で悩んでいると、先生が一歩前に出た。
「お前たちの気持ちは嬉しい。
でも無理なんだ。
パートナーは人間って決めていてな。
すまん」
先生は頭を下げた。
そそれを聞いたカラスたちは、お互いに目を合わせ、カアカアとひそひそ話をし始める。
そして、もう一度先生を向いたかと思うと――
「「「アホーアホー」」」
バカにしてきた。
「違うみたいですね」
「かかなくていい恥をかいた」
先生はがっくりと肩を落とした。
「じゃあ、結局なんなんだよ!
なんで俺はカラスに絡まれているんだよ!」
先生が叫ぶと、三度カラスたちが鳴き始める。
さすがのカラスも堪忍袋の緒が切れたのか、鳴き声は次第に大きくなり……
次第に大きく……?
「あっ、カラスが増えてます!」
「なに!」
気づけば私たちの周りには、カラスがたくさんいた。
見渡す限り、黒、黒、黒。
まるでホラー映画のような光景に、私はゾッとした。
「まさか俺たちを食うつもりか!?」
「皆さん、食べるなら先生ですよ。
なにせ、ハードボイルド(固茹で卵)ですからね」
「俺を売りやがった!」
「近づかないでください!
元はと言えば先生が蒔いた種、一人で責任を取ってください!」
「ふざけんな!
この前給料上げてやったのに、この恩知らずめ!」
「それとこれとは別です!
犠牲になってください」
襲われたくない一心で醜い争いを繰り広げる私たち。
だがその間にもカラスは増え続け、私たちを取り囲んでいた。
「カア」「カア」「カア」「カア」「カア」「カア」
私たちを取り囲んで鳴き始めるカラスたち。
その異様な光景に、私は恐怖を通り越し、逆に冷静になってきた。
こうなったら逃げるしかない。
幸い事務所はすぐそこだ。
全力で走り、建物に逃げ込めば助かるはずだ。
場所を知られる危険性はあるが、死ぬよりはマシ……
そう思い、走り出すため腰を息を大きく吸った時だった。
「カア!」
突然一匹が鳴いたかと思うと、集まっていたカラスが一勢に飛び去って行ってしまったのである。
群れを作り、遠くの空へ消えていくカラスたち。
何が起こったか分からず、呆然と眺めていたが、私はあることに気づいた。
「なるほど、『君と飛び立つ』って、仲間に向けて言ってたんですね!」
道理で話が噛み合わないはずだ。
カラスは最初から説明していただけなのだ。
私たちをどうにかするつもりは毛頭なく、仲間たちを待つまでの間で暇つぶしをしていただけなのだろう。
全く人騒がせなカラスだ。
「ああ、びっくりしました。
これで一件落着ですね」
「おい……」
「どうなる事かと思いましたが、終わってみれば楽しかったですね。
私、今日の事はきっと忘れな――」
「おい!」
「……なんでしよう?」
「お前、俺をおとりにしようとしただろ……」
「……過ぎたことは忘れましょう。
それがお互いのためです」
「いいや、忘れない!
ていうか、その提案で得するのお前だけだ!
許せん、給料下げてやる!」
「ごめんなさい〜!」
こうして私たちは、私の給料を下げられるという悲劇があったものの、無事に事務所へ辿り着いたのであった。
なお後日、昼メシの買い出しに出た先生が、出待ちしていたカラスにコンビニ弁当を強奪されたのはまた別の話である。
77.『遠くの空へ』『足音』『終わらない夏』
「終わらない夏、か……」
俺はベンチからグラウンドを見て呟く。
視線の先では、我がチームの四番バッターが豪快に空振りをしていた。
何回目かも分からない見慣れた光景に、俺は深くため息をついた。
ウチの野球部は弱い。
県内、いや日本で一番弱いと言っても過言じゃない。
それほどの弱さなので、公式戦では一度も勝った事は無い。
練習試合も『手ごたえが無さすぎる』と組んですらもらえない始末。
そんな経緯もあって、俺たちは誰からも期待されず、俺たち自身ですら負けるのが当然だと思っていた。
そんな俺たちでも、どうしても負けられない戦いというものがある。
夏の甲子園だ。
高校生球児にとって、甲子園は特別だ。
誰もがその場所に憧れ、死に物狂いでそこを目指す。
優勝しても、特別な何かが貰えるわけじゃない。
けれど、甲子園には俺たちを振るい立たせる『何か』がある。
その何かを手に入れるため、負け犬の俺たちも気合を入れて試合に臨むのだが……
「ストラーーーイク、バッターアウト!」
案の定と言うべきか、予想通りと言うべきか。
一回戦にして、誰一人としてヒットを打つことが出来ない。
相手は特別良いチームという訳ではないのだが、俺たちではまったく手も足も出なかった。
ウチが弱すぎるのだ。
「ゲーームセット!」
そして審判がコールする無慈悲な宣告。
俺たちの敗北が決定づけられた瞬間だった。
「夏が終わった」
チームメイトが口々に言う。
みんな泣いていた。
当然だ。
あれほど練習に打ち込んだのに、手も足も出なかったからだ……
だが俺は違う。
泣けなかった。
泣くほど努力してないということではない。
これで終わりじゃないことを知っているからだ。
俺は泣きじゃくるチームメイトをよそに、ゆっくりと目を閉じる。
一呼吸した後、目を開ける。
そこに悲痛な顔をしたチームメイトはいなかった。
いるのは、勝利をもぎ取ろうと気迫をみなぎらせる漢たちであった。
一体何が起こっているのか……
最初は何も分からなかったが、今ならわかる。
どうやら負けるたびに、試合前に戻るらしい。
俺は過去にタイムループしているのだ!
なぜこんな不可思議な事が起こるのか?
俺は能力者ではないが、心当たりが一つだけある。
昨日の事だ。
俺は近所の神社に行ってお祈りをした。
もちろん勝利祈願。
今年こそは一回くらい勝ちたいと、必死にお願いしたのである。
神頼みでも他力本願でもいい。
どうしても勝ちたかった。
俺は悔しかったのだ、自慢のチームメイトがバカにされるのが。
俺は人生で一番熱心に祈ったし、賽銭も奮発してお年玉を投入した。
しかし結果はご覧の通り。
あっさり負けた。
だが神様は見ていたらしい。
こうして俺を過去へと戻し、もう一度チャンスをくれたのである。
最初は喜んだ。
しかしまた負けた。
細部こそ違えど完敗であった。
でもまた試合前に戻った。
どうやら勝つまで面倒を見てくれるらしい。
神に感謝しつつ、試合に臨んだ。
また負けた。
そこで俺は、ある不安を抱いた。
『これ、ひょっとして無限ループじゃね?』と……
何回繰り返したところで、チームの弱さは変わらない。
繰り返している内に、俺がヒットを打てるほど上手くなったものの、それに何の意味があるだろう。
野球は一人だけ上手くなっても意味が無い。
俺が打って、皆が打って、そこで初めて得点になる。
野球はチームプレイが重要なのだ。
そして今回のループもヒットが出ることなく時間が過ぎていく。
ウチのチームのヒットは俺だけ。
相変わらず誰も打てなかった。
そして迎える最終回。
無得点のまま、俺の打席が来た。
皆が俺の活躍に期待する中、俺はなんともいえない心持ちであった。
確かに俺は打てる。
同じ試合の繰り返しの中、何回も対戦したピッチャーだ。
今なら目を瞑っても打てる。
誇張でもなんでもなく、ただの事実だ。
でもそれに何の意味があるだろう?
俺が打ったところで何も変わらない。
ヒットを出したところで、他の奴が打たないのだから。
だがそれでも打つ。
俺の奮闘を見た仲間が、奮い立ってくれるかもしれないからだ。
一人は皆のために、皆は一人のために。
俺は仲間たちのため、打席に立ってバットを振る。
いい感触があった。
力強く振り抜くと、小気味いい音を立てて球が飛んでいく。
ピッチャーが見上げ、外野手が見上げ、。
遠くの空へ消えていく白球。
そして観客席へと落ちた瞬間、歓声が巻き起こった
人生初のホームランだった
自分の足音すら聞こえない歓声の中、俺はゆっくりとベースを回る。
初めての経験に俺は少し恥ずかしく思いつつも胸を張る。
そしてベンチで出迎えてくれたのは笑顔でいっぱいのチームメイトたち。
この時だけは『繰り返し』のこと忘れ、仲間たちと喜びあった。
そして俺は気づいた。
俺たちが本当に望んていたのは、甲子園ではない。
苦しい時に一緒に泣いて、楽しい時に喜び合える、大切な仲間たちだった。
仲間さえいれば、どんな逆境も苦にならない。
俺は最初から欲しい物を持っていたのだ。
あとは俺たちが勝って、繰り返しから抜け出すだけ。
チラとスコアボードを見る。
スコアは1対20、9回裏ツーアウト。
もちろん負けているのが俺たちだが、何も問題ない。
なぜなら俺には頼れる仲間たちがいる。
ホームランを20本ほど打てば、逆転勝ちだ!
……うん無理だな。
いくら諦めない心が大切だからって、これはない。
繰り返すまでもなく知っている。
ウチのチームは最弱であると……
グラウンドでは、三振するチームメイト。
どうやら今回も負けらしい。
短い夢だった。
「仲間を強くする方法を考えないとな……」
俺の夏は、まだ終わりそうにない。
「君が見た景色は忘れてください」
目の前にいる男が、はっきりと断言する。
衝撃的な発言に心底驚きつつも、僕は取り乱さないように言い返す。
「忘れてどうしろと?」
「気持ちは分かります。
ですが忘れた方が身のためです」
「ありえません!
忘れても何も変わりません!
無意味です!」
男のあまりの言い分に、僕は怒気を強めて言い返す。
言い過ぎたかと思ったが、男は困ったような顔をして「そうですか」と呟くだけだった。
男は逡巡した様子を見せた後、すぐに僕をまっすぐ見た。
「提案なのですが――」
男はゆっくりと言葉を続ける。
「アナタのお話を聞かせてもらえませんか?
もしかしたら、なにか糸口があるかも」
「構いませんよ」
自分も少し熱くなっていたのかもしれない。
僕は自分を落ち着けるためにも、目の前の男の提案に乗り、話をすることにした。
「事の発端は、仕事が終わって退勤したときのことです」
🚃
「お疲れ様です」
僕は帰る間際、まだ仕事を続けている同僚たちに向かって挨拶をしました。
聞こえているはずだが返事はありません。
けれど、僕は少しも気になりませんでした。
皆仕事で忙しく余裕がなく、逆の立場だったら自分も返事をしないだろうからです。
かと言って自分も余裕がありませんが、たまたま仕事に一区切りついたので帰る事にしました。
もちろん、翌日出勤すれば仕事の山。
ただの仕事の後回しですが、今日は家に帰りたい気分でした。
ともかく会社を出て、駅へと向かいました。
そして余裕を持って、終電に乗り込みます。
最近は電車に乗れないことも多かったので、久しぶりの電車にちょっとだけワクワクしました。
電車に乗った後、中を見渡すと周りはガラガラでした。
これなら遠慮の必要はないと、好きな座席に座りました。
あまり質のいいクッションではありませんでしたが、疲れている自分にとって最高のクッションでした。
安心したのか強烈な眠気に襲われました。
「ちょっとだけ寝るか」
どうせ、家に着くまで時間がある。
そう思った僕は、目を瞑り眠ってしまいました。
ですが、次に目を覚ました時には見知らぬ景色。
体の芯から冷え、眠気が吹き飛びました。
「しまった、寝過ごした」
パニックになった僕は慌てて電車から飛び出しました。
するとそれを待っていたかのように電車のドアが閉まります。
それを見て『飛び出す必要は無かったのでは?』と思いましたが後の祭り。
電車は走り去ってしまいました。
自分のバカさ加減に呆れましたが、済んだことは仕方ありません。
それに、時間的にも反対車線に電車が来ることは無いでしょう。
そう思った僕は、ホームへ向かいました。
駅員に訳を話せば、なんらかの便宜を図ってくれるかもしれないからです。
『最低でも毛布を貸してもらいたい、そうすれば待合室で夜を越せるから』、そう思ってました。
しかしこの駅は無人駅のようでした。
改札口に駅員がおらず、寂しい蛍光灯の灯りしかありません。
これでは誰に助けを求めることは出来ません。
がっかりしながら改札口を通った、まさにその時でした。
「おめでとうございます!」
パパパァンと辺りにクラッカーが鳴り響きました。
驚いて音の方を見ると、そこにはたくさんの人が!
どうやら見えない位置にいたようで、たくさんの駅員たちがやってきました。
「おめでとうございます」「おめでとう」「素晴らしい」「感激した!」「言葉にならない」
駅員たちは、拍手しながら思い思いの祝福の言葉を投げかけてきます。
ですが僕には何のことか分かりません。
慌てて騒ぐ駅員を宥めます
「ちょ、ちょっと待ってください
なんなんですか!?
いったいどういうことですか!?」
僕が叫ぶと、駅員たちはバツが悪そうに頭を下げました。
「これは失礼しました。
実は、お客様は駅開設から千人目の来訪者なのです。
それを記念して、こうしてお出迎え致しました」
それを聞いて、急に罪悪感が芽生えました。
自分はこの土地に来ようと思って来たわけではありません。
縁もゆかりもなく、ただ寝過ごしただけなのです。
本来なら用事があってここに来る人が祝われるべきなのに。
後ろめたい気持ちでいっぱいで、とても本当のことを言うことができませんでした。
これ以上、この話題を続けると罪悪感で押しつぶされてしまう……
そう思った僕は、話を逸らすことにしました。
「あの……
ここで一晩泊まっても大丈夫ですか?
時間を間違えて、こんな夜遅くに到着してしまったんです……」
「そういうことでしたら、そのあたりにある適当な空き家で寝て構いませんよ」
「不法侵入では?」
「大丈夫ですよ。
誰のものでもないので、気に入ればそのまま使ってもらって構いません」
駅員の言葉に引っかかりましたが、千人目だからといって家をもらうわけにはいきません。
丁重にお断りすることにしました。
「流石にそれは……
誰も住んでいないからって、家を乗っ取るような真似は出来ませんよ。
それに朝一番で、帰らないといけませんし……」
「帰る?」
『帰る』という言葉に反応し、駅員たちが急に険しい顔になりました。
僕は豹変した彼らに恐怖を感じました。
なにか、言ってはいけない事を言ってしまったようで、先ほどまでの友好的な雰囲気はどこにもありませんでした。
「お客様、ここがどこか知らずにやって来たんですか?」
駅員は一歩、僕に詰め寄ります。
「あー、実を言うと寝過ごしてしまいまして……」
「そうですか……
ですが残念なことに、帰ることはできません」
「し、仕事があるので!」
「残念ながら」「帰れませんよ」「帰れない」「二度と戻れない」「ずっとこのまま」「ずっとずっと」
駅員たちは一歩、また一歩と詰め寄ってきます。
僕は後ろへ下がりますが、その度に駅員は前へ出て僕を追い詰めます。
しかしどこまでも逃げることはできません。
僕は壁際まで追い詰められ、死を覚悟しました。
「帰れないんですよ」
そう言いながら、駅員は手を伸ばして――
「帰ろうと思っても帰れないんです……
可哀そうに……」
僕の肩をポンと優しく叩きました。
「……ふぇ?」
何が起こったか分からず、僕は変な声を上げてしまいました。
駅員に説明を求める目線を送ると、駅員は静かに頷いて話し始めました。
「知らないようなのでお教えします。
ここは『きさらぎ』駅。
来たら最後、二度と帰ることができない魔境です」
「き、きさらぎ駅!?」
驚きのあまり、叫んでしまいました。
きさらぎ駅といえば、ネットでしばしば噂されるの伝説の駅。
訪れた報告は多数あるが、帰れた話は皆無という最恐のホラースポット。
まさか、ここがそうだなんて……
「じゃあ、ここにいる皆さんは……」
「はい、ここに来て帰れなくなった者たちです。
もちろん帰る方法は探しましたが、見つけられませんでした」
「そんな……」
僕はショックで何も言えませんでした。
それを見て駅員は、優しく声をかけます。
「悪いことは言いません。
今までの人生はお忘れください。
しがみついても辛いだけですよ」
「そんな……
そんなことって……」
僕はその場で崩れ落ちたのでした……
🚃
「それが今までのあらましです。
この事からも分かるように、僕は来たくて来たわけじゃありません。
絶対に帰らないといけないんですよ!
――って聞いてますか?」
駅員がいつのまにか円陣を組んで、なにやらひそひそ話をしていた。
聞きたいと言ったのはそっちなのにと憤っていると、円陣の中から一人の駅員が出てきた。
「一つ質問いいですか?
さきほど電車に乗るのが久しぶりと言ってましたが、普段はタクシーを使って帰るという事ですか?」
『なんでそんな事が気になるんだ?』
そう思ったが、嘘をつく理由も無いので正直に言うことにした。
「安月給にそんな余裕はありませんよ。
会社に泊まります」
そう言うと駅員たちが再び円陣を組みざわめき始めた。
「社内泊が常態化!?」「残業してるのに安月給!?」「最低時給はどうなってる?」「法律違反では?」「休日があるかどうかも怪しい」「おかしい事に気づいてない」「言葉にならないものがある……」「ホラーよりも怖い」
駅員が思い思いの事を言い合っていた。
どうしてそんなに盛り上がれるのか分からない。
呆れて眺めていると、また円陣から一人の駅員が前に出た。
「お客様、ここに来て正解ですよ。
ここは何もないところですが、ブラック企業もありませんので」
「だから!
帰らないといけないと!
何度言えば!」
「申し訳ありません。
ですが話は明日にしましょう。
一晩ゆっくり眠れば、落ち着いて考えられます」
「僕は最初から落ち着いている。
寝ぼけてたりなんかしない!」
「まあまあまあ」
駅員と言い争いをしていると、いつのまにか二人の別の駅員が両脇に立っていた。
不思議に思っていると、突然駅員たちが僕の腕を掴んだ。
「では、一番いい家にご案内しますね。
ゆっくりお休みください」
「離せ、僕は帰るんだ!」
「ではまた明日」
そうして僕は空き部屋に詰め込まれ、眠れぬ夜を過ごすした。
――つもりだったが、疲れが出ていつの間にか寝ていた。
そして目が覚めたらもうお昼。
今から会社に出ても遅刻だ。
どうしよう。
その時僕は思った。
「もう一度寝よう」
遅刻、残業、きさらぎ駅……
色んなことが頭を駆け巡るが、もはやどうでもいい。
考えなきゃいけない事でいっぱいだが、何も考えたくない。
自分はもう限界だ。
「おやすみなさい」
寝たところで何も解決しないけれど、寝なくても解決しない。
だったら寝る事を選ぶ。
どうせ何も変わらないのだから。
僕は何もかもを投げ出して、夢の世界へと旅立つのであった。