『心の羅針盤』『夢じゃない』『風を感じて』
吾輩は猫である。
名はコジロウ。
とある奇妙な縁でニンゲンのもとで厄介になっている。
吾輩は元野良猫である。
喧嘩に明け暮れ、狩りをして、する事無ければ昼寝する。
そして飽きれば、風の向くまま気の向くまま、心の羅針盤が指し示す方向に旅をする。
どこにでもいる普通の猫であった。
しかし、旅先で地元猫の縄張り争いに巻き込まれ、足を負傷した。
これでは狩りが出来ぬ。
もはやこれまでかと覚悟していたところ、ニンゲンが現れ吾輩を家に連れ帰った。
ニンゲンは実に献身的であった。
暖かい寝床はあるし、美味しい飯も用意してくれる。
時たまニンゲンがブラッシングしてくれるし、天敵のヘビやカラスに襲われる心配もない。
まさに至れり尽くせりである。
だからこそ、ふとした瞬間に考えてしまう。
これは夢じゃないかと……
もちろん一日中寝ている吾輩でも、夢と現実の区別をつけることは容易い。
だが、自分にとって都合が良すぎて、現実感がないのも事実。
地に足がついていないようで、どうにも落ち着かない。
こうなってしまうと、昼寝をしてもいい夢を見る事は出来ない。
そう思った吾輩は、気分を変えるため風に当たることにした。
吾輩はニンゲンに催促し、ベランダに続くドアを開けてもらう。
外に出た途端、不快な熱気が吾輩を襲うが、風が吹いているからか、そこまで不快ではない。
特に涼しい場所を探し、風を感じながら考える。
……外の世界は過酷だ。
弱い生き物は生きられない、残酷な世界。
だが外の世界にいたときは、こんなことで悩むことはなかった。
何もかもは無かったけれど、少なくとも現実感だけはあった。
……もしかして、答えは外の世界にある……?
外には、温かい寝床も、美味しい飯も無い。
けれど悩むこともないはずだ。
視界を上げると、大きな木が見えた。
丁度ベランダ近くに枝が伸びており、そこを伝っていけば下に降りられるだろう。
これでお別れだ、ニンゲン。
世話になったな。
体を起こし大樹に飛び移ろうとした、まさにその時、家の中からニンゲンの声がした。
「コジロウ、チュールよ」
チュール!
吾輩は体を翻し、家の中へと走り込む。
チュールこそ至高の食べ物。
吾輩は、風のごとくニンゲンの駆け寄り、チュールを承る。
「コジロウ、がっつかなくても無くならないわよ」
吾輩、これが食べられるなら夢でもいいや。
73.『ただいま、夏』『泡になりたい』『またね』
今年も夏がやってきた!
この時をどれほど待ちわびただろうか
待ちきれない思いで、胸が震える。
去年も夏は来た。
けれど、私には夏は来なかった。
インフルエンザにかかったり、コロナになったり、しまいには二回目のインフルエンザ、散々だった。
全く夏を楽しめず、家で寝ているだけの日々。
『またね』と去っていく夏に、私はただ見送ることしか出来なかった……
でも今年は違う。
予防接種を受けて対策は万全。
体調もすこぶる良しと絶好調だ。
去年何もできなかった分、今年は思う存分遊び倒す!
ただいま、夏。
私が来たからには、退屈はさせないぜ。
手始めに、私は近所の浜辺で美人コンテストに出ることにした。
この厳しいご時世にも、堂々と開催しているコンテスト。
それも、水着審査アリという気合の入れっぷりである。
それゆえにいい意味でも悪い意味でも注目度が高く、賞金も桁違いの200万。
ここで優勝すれば、私の夏はバラ色だ。
だが油断はできない。
賞金の額ゆえにライバルが多いのも理由だが、それ以上にこのコンテストはただ可愛い格好をすれば勝てると言うほど甘い物ではない。
審査にはテーマが設けられているのである。
このテーマに沿ってコーディネートしなければ、たとえ世界一の美人でも評価はされない。
それほどまでに、このコンテストにおいてテーマは重要だった。
今年のテーマは『人魚』。
夏らしく、海を泳ぐ人魚のような姿を見せろという事なのだろう。
センスの見せ所だ。
気合を入れてコーディネートを考える時、私は酒を飲むことにしている。
というのも、私は考え過ぎるきらいがあり、気合が入れば入るほど悩んでしまう。
なので、酒を飲むことで思考をシンプルにして決めることにしている。
もちろん、こんな大事な勝負を前に酒を飲むことに関しては抵抗がある。
しかし、考えすぎて決められず出場が出来なくなる可能性を考えれば、酒の力を借りてさっさと決めてしまった方が絶対いい。
私は冷蔵庫からビールを取り出し、飲み干していく。
いい具合に酔って来たところで、衣装箱を開ける。
中から出てきたのは、私の自慢の水着たち。
去年は着ることが出来なかったが、今年は存分に活躍させられそうだ――
と、眺めていると、ある水着が目についた。
それは去年の夏の終わり、買った水着だ。
その頃の私は、夏遊べなかった反動で酒を飲みながら通販サイトを眺めていた。
夏に遊べなかった分うっぷん晴らしを。
そう思ってパソコンにかじりついていた。
色々な物を衝動買いしたけれど、その時買ったものの一つがこの水着。
この水着を選んだ時の事はよく覚えている。
そのデザインと柄に『まるで人魚みたい』と一目ぼれ。
すぐにカゴに入れて購入した。
それ以来、すっかり忘れてタンスの肥やしになっていたけれど、これならばコンテストを優勝できるに違いない。
私はこうして、コンテストに着る水着を決めたのだった。
🐟
美人コンテスト当日。
私は関係者全員の注目を集めていた。
当然だ。
これほど斬新で奇抜な水着なんてそうそうお目に掛かれないだろう。
ここまで注目されるなら優勝間違いなし。
このコンテスト、貰ったな。
って思いたいんだけどな……
私は一人ため息をつく。
そりゃそうだ。
私を恰好を見て、目を逸らせる奴なんていない。
それほどまでに、私の水着は群を抜いて変わっていた。
私は今、人魚だった。
下半身が魚の、あの『人魚』。
例えるなら『鯉のぼりの鯉に下半身を食われた人間』。
明らかにネタグッズである……
こんな面白人間、目を逸らせるわけがない。
他の人間がやっていれば、私だって見てしまう。
酒の勢いって恐ろしい
出演者たちからも驚きを通り越して、恐怖の眼差しを向けられている。
審査員たちも、信じられないのか何度も目をこすって私を見ている。
確かに注目度は一番だけど、こんな形で注目されたかったわけじゃない。
もちろん酔いが醒めた後、他の物にする事を考えた。
けれど、案の定悩みすぎて決められず。
結局この水着になったのである。
ああ、私はなんで出場してしまったのだろう……
恥ずかしさのあまり、顔から火が出そう。
ヤケクソで出てきたが、やっぱりやめればよかった。
泡になって消え去りたい、人魚だけに。
「優勝は、今年のテーマに完璧に応えた、下半身が人魚の女性です。
おめでとうございます」
嬉しくねえ。
72.『8月、君に会いたい』『波にさらわれた手紙』『ぬるい炭酸と無口な君』
8月が家出した。
大人たちの重なる悪口が嫌になったらしい。
夏休みの直前に、8月が姿を消してしまったのだ。
暑いとか、猛暑だとか、体温だとか、水寄こせだとか……
8月は好きで暑くなったわけじゃないのに、たくさん悪口を言われて可哀想だった。
ボクならすぐ嫌になるのに、ずっと我慢していた8月は凄いと思う。
だから、みんなが悪く言っても、ボクは少しだけ同情していた。
でも大人たちは、『もう、暑い思いをしなくて済む!』『後は涼しくなるばかりだな』と大喜び。
だれも8月の心配をしていなかった。
けれど、ボクには8月が必要だ。
ボクだけじゃない、子供たち全員に8月が必要だ。
だって8月がいないと、夏休みが短くなってしまうから。
大人たちは自分の事ばかり考えてないで、もう少し子供たちの事を考えて欲しい。
遊園地や海、山でキャンプ。
おじいちゃんの家に行って、カブトムシも捕またい!
夏休みは、楽しいことでいっぱいだ。
でも大人達は8月が無くても、別に問題ないらしい。
大人を頼れない。
そう感じたボクたちは、子供たちだけで8月を探すことにした。
ボクは、リュックサックの中にコーラとパンを入れ、皆と一緒に8月を探す旅に出かけた。
📅
最初は学校の周りを探した。
けれど、暑い中コーラを飲みながら探したけど8月はどこにもいない。
疲れただけだった。
次の日、学校が休みだったのでバスに乗って隣町に行った。
でもいない。
念の為、もう一つ隣の町に行ったけど、やっぱりいない。
どこに行ったのだろう……?
こんなに探しても見つからないのは、8月が海外にいるかもしれない。
そう思ったボクたちは、8月に手紙を送ることにした。
海外は遠すぎて、バスじゃ行けないからだ。
でも8月のいる場所が分からない。
そこで考えたのがボトルメール。
これなら住所が分からなくても、8月に手紙が届くはず。
『8月、君に会いたい』。
その一文を書いて、ボトルを海に流す。
波にさらわれた手紙を見ながら、早く返事が来るといいなと思った。
けれど、どれだけ待っても8月から返事が来ることはなかった。
📅
あれから色んな場所を探したけど、8月はどこにもいなかった。
このままじゃ、短い夏休みが始まってしまう。
毎年楽しみにしていた夏休みが、今年は全然嬉しくなかった。
その日、ボクはカレンダーの8月のページを見ながらコーラを飲んでいた。
太陽に暖められたぬるいコーラ。
美味しくなかったけれど、飲まずにはいられなかった。
今日も探しに出かけたけれど、
遊びに行く予定が書きこまれた8月のページ。
このままじゃどこにも行くことなく、8月のページが捨てられてしまう。
それがボクには、どうしようもなく悲しかった。
「ねぇ、どこにいるの?」
どれだけ聞いても、ぬるい炭酸と無口な君は何も答えてくれなかった。
📅
8月が帰ってきた。
何事も無かったかのように、突然戻って来たのだ。
理由は分からない。
もしかしたら、皆をちょっと困らせたかっただけなのかもしれない。
「えー、皆も知っていると思うけれど、8月が帰ってきました」
教室の前で、先生が嫌そうに話す。
暑いのが嫌いな大人なのだろう。
ものすごく残念そうだ。
「ですので、夏休みを短くするのはやめて、いつもと同じ長さにします」
「「「やったー」」」
先生の知らせにみんなが騒ぎ出す。
夏休みでたくさん遊べる、これほど嬉しい事は無い。
「えー、もう一つ連絡があります」
しかし先生の話は終わってなかった。
「夏休みが予定通り実施されるということで、夏休みの宿題も予定通り出すことになりました。
みんな、遊んでばかりいないで宿題もやるように、以上」
先生の言葉に、ボクたちは思わず叫んだ。
「「「ちくしょう、8月なんて帰ってこなければよかったのに!」」」
突然ですが、これからとある日本の伝統芸能についてお話ししたいと思います。
いつもはフザケた話をするのですが、思うところがあり今日は真面目な話をしようと思います。
さて、現代はたくさんの価値観や娯楽にあふれています。
その結果、古い伝統は見向きもされず、人知れず消えていったものも少なくありません。
しかし私は思うのです。
たしかに古い伝統は時代遅れです。
ですが、古いものを見つめなおすことで新しい発見があるのではないか?
私はそう思い、こうして筆を取りました。
これを読んで、皆様に得られるものがあれば幸いです。
さて、これからお話するのは、日本の伝統的な芸能――
『デス茶道』です。
デス茶道の起源は、戦国時代にあります。
戦国時代――それは自分以外は敵、信用することが命とりの、苛烈な時代……
『殺される前に殺す』、暴力こそがルールでした。
しかし理由なき殺人は制裁を受け、死刑にされることもあります。
そこで考えられたのが、当時流行っていた茶道を利用した暗殺です。
茶会の最中に起きた不慮の事故ならば、誰からも咎められることは無い。
それが『デス茶道』の原型になったと言われています。
お分かりの通り、デス茶道は相手を風流に殺すことに特化した暗殺術なのです。
今日は、皆様に『デス茶道』の極意を知っていただきたいと思います。
さて、デス茶道は道具が重要です。
当時は全て自作でしたが、ここは現代。
百均でもいいので、それっぽいもの買ってを全てを揃えましょう。
なぜなら相手を殺したあとは、証拠隠滅しなければいけないからです。
暗殺するためだけに高級品を買い揃えては、お財布に大ダメ―ジは必須!
暗殺に成功しても、ただではすみません。
そのため『デス茶道』では、安く道具を揃える事を推奨しています。
そして道具は金属製のものを用意してください。
殴り殺すのに最適だからです。
では『デス茶道』の大まかな流れを説明しましょう。
まず殺したい相手を招待します。
意外かもしれませんが、これが結構難しい。
なぜなら『デス茶道』の招待とバレると、相手は来ないからです。
なので怪しまれないよう、普通の『茶道』の招待であることを装って手紙を書いてください。
手紙の最後にに『これはデス茶道ではありません』の一文を付け加えることも効果的です。
そして招待に成功したとしましょう。
ノコノコやって来た相手を茶室に招き入れるわけですが、どんなに憎くともここでは何もしてはいけません。
ここで下手な行動をすると、怪しまれて帰ってしまう可能性があるからです。
よって暗殺するのは、狭い茶室に誘き入れ逃げられなくしてからにしましょう。
相手を茶室に招き入れた後、相手のためにお茶を点てます。
この時、お茶の粉末をシャカシャカしますが、ここが最初の暗殺ポイントです。
最初に金属製の道具を用意しましたね。
その金属の道具を使い、高速でシャカシャカします。
すると、金属同士が激しくぶつかり合うことで、火花が飛び散らせ周囲を眩しく照らします。
相手はその眩しさに目が眩みますから、その隙を突いて相手に殴り掛かるのです。
金属製の道具で殴られては、大抵の人間はひとたまりもありません。
しかし相手は百戦錬磨の戦国武将。
殺気を感じ取り、避けることもあります。
しかし気を落とすことはありません。
次のチャンスを狙いましょう。
え?
暗殺しようとしたのがバレたら、相手は帰るだろうって?
そこはご安心を。
相手が目が眩んだ状態での犯行なので、決定的な瞬間を目撃することが出来ないのです。
そのためおかしいとは思っても、確証が得られないので帰れないのです。
さて、気を取り直して次の段階に入りましょう。
お茶をシャカシャカした後は、そのお茶を相手に飲ませます。
ここで再び暗殺ポイントですが、この時お茶に毒を入れてはいけません
かつてお茶に毒を入れた人間がいるのですが、『喉が渇いた』と自分から毒入りのお茶をすすり、死んでしまった事例があるのです。
このことから、不幸な事件を繰り返さないため、お茶に毒を入れることを禁止されています。
ではどうするかと言うと、再び殴り掛かります。
ただ殴るのではありません。
お茶を渡す際、足がしびれたフリをして相手に殴り掛かるのです。
これはあくまでも事故に見せかけた暗殺……
タイミングを見計らい、万全を期して殴りましょう。
しかし、ここでも暗殺に失敗することがあります。
その時は『ごめん』と素直に謝りましょう。
『足がしびれて』と言えば、相手は笑って許してくれるはずです。
そうして何も気づかせないまま、相手を家路につかせるのです。
そして再び『デス茶道』に招待し、暗殺を試みるのです。
もしかすると、また失敗するかもしれません。
暗殺する上で大事なことは、諦めないこと。
諦めなけれな、いつか必ず成功します。
『デス茶道』で大事なことは、忍耐と諦めない心なのです。
ここまで聞いて、皆さんはどう思いましたか?
自分の胸から熱い鼓動が感じませんか?
もしそうなら、憎い相手を『デス茶道』に招待してください。
そうすれば、アナタは誰からも疑われることが無く、憎い相手を殺すことが出来ます。
ああ、一つ言い忘れていました。
『デス茶道』で、やってはいけないことがあります。
それは『お茶を零してはいけない』ということ。
どんなに激しい動きをしても、零すことは絶対に許されません。
お茶を零すことは、お茶に対する最大の冒涜だからです。
もし零したら切腹です。
緊張感を持ちましょう。
後は、じっちゃんの孫とメガネの小学生に気をつけてください。
それだけが不安要素です。
以上の事に注意して、『デス茶道』を行ってください。
邪魔者のいなくなったアナタの人生は、素晴らしいものになることを保証します。
伝えたいことは以上です。
私はこれから切腹するので、これにて失礼
皆様が楽しい『デス茶道』ライフを送ることを、心より願っています。
「ふぃー、生き返るぅ」
炎天下での営業周り。
昼時になって逃げ込むように入った喫茶店は、まさに天国だった。
まさに砂漠でオアシスを見つけた時の気持ち。
文明の利器に感謝である。
「もうちっと冷えた方が好みだが……
まあいいか」
店員の案内でソファー席に座って、メニュー表を手に取る。
こじんまりした喫茶店だが、意外とメニューの数は多い。
これは選びがいがあるぞと、腹と相談しながら食べたいものを決める。
「お、冷やし中華あるじゃん。
冷やしラーメンもある!?
悩むなぁ、どっちにして――」
「ちょっと、ふざけないでよ!」
突然、女性の甲高い声が響く。
何事かと驚き目を向ければ、そこには2人の男女が座っていた。
自分の席からは男性の顔は見えなかったが、女性は泣いているようだった。
少し離れているため詳しい様子は分からないが、穏やかな様子ではない。
「別れ話かな…………」
楽園のようなオアシスに来て、まさかこんな修羅場に立ち会うとは……
いい気分が台無しだった。
俺が勝手にゲンナリしている間も、二人の会話は続く。
「ふざけてなんかないさ。
本当に一万頭のマンモスかやってきたのさ」
いや、どういう話題!?
会話の内容が気になった俺は、メニュー表を眺める振りをしながら二人の会話に耳を傾ける。
「それでどうしたの?」
「一匹の鹿の前に駆け参じたのさ」
「どうして?」
「もちろん虫歯の治療さ。
鹿は歯科医だからね」
「鹿が歯科医、くくく」
笑っていた。
どこに笑いのポイントがあるかは分からないが、とにかく女性は笑っていた。
女性は「もう、いい加減にしてよ」と言いながら、腹を抱えて涙を流している。
あの女性、相当に笑いの沸点が低いらしい。
ていうか、その涙の跡、笑い泣きの跡かよ。
「心配して損した」
別れ話のような、深刻な話ではないらしい。
修羅場でなくてよかったと思う一方で、俺はとてつもなく呆れていた。
まあ、不幸な人間がいないことを思えば歓迎すべきことなのだが……
「それでマンモスの敵討ちをしたキツネたちは、虹の始まりを求めて旅立ったのさ」
呆れている間に、物語は新しい展開を見せていた。
少し聞かなかっただけで、そこまで物語が動くとは……
全く興味を唆られないのに、聞き逃すとなんか悔しい思いをするのは何故だろう?
釈然としな思いを抱えながら、女性を見る。
すると女性は「うひひ、虹の始まりとかw」と笑っている。
話が意不明なのに、女性の方は大爆笑だ。
ツボに入ったか?
それとも若者の間では、ああいった会話が流行っているのだろうか?
もはや異世界の会話である。
だがまあ、お似合いのカップルなのだろう。
話のつまらない男性と、それを聞いてずっと笑っている女性。
二人がそれでいいなら、コチラが口を挟むべき理由は――
「お客様、ご注文はお決まりですか?」
「うわ!!」
二人を観察していることに集中しすぎて、店員が来たことに気づかなかったらしい。
これ以上ないほど驚き、そして店員まで驚かせてしまった。
「驚かせてすまない。
ボーッとしていたみたいだ」
「外は暑いですからね。
疲れが出たんでしょう」
「ああ、面目ない。
他の客にも迷惑をかけてしまったな」
「大丈夫ですよ。
今はお客様しかいませんから」
「客がいない?
そこにいるじゃないか……」
俺は「そこにいるだろ?」と男女のいる席を指差す。
しかし、店員は一度目を向けたきり、不思議そうな顔をしていた。
「いえ、いませんよ。
お客様が一人だけです」
「そんなバカな」
俺はありえないと、男女の席を見る。
やはりいる。
だが先程とは違い、バカなお喋りをやめこちらを見ていた。
見ているだけならよかった。
その眼差しは普通ではなく、まるで獲物を見つけたような……
ヤバい。
本能が危険を告げる。
アレが何かは知らないが、少なくとも友好的な様子ではない。
すぐさま逃げようとするが、体が動かない。
まるで蛇に睨まれた蛙のよう。
「ああ!」
店員が突然声を上げる。
驚いた俺は、反射的に店員を見た。
そして、視界の端ではあるが、二人の男女も店員に視線を向けているのご見えた。
「それ、観葉植物です」
「え?」
「よく間違われるんですよ。
角度が悪いのか、観葉植物が人間に見えるようで……
きっとそれですよ」
そう言われて、テーブルの向こうをマジマジ見る。
確かに観葉植物が置いてある。
どう見ても人間には見えないが、とりあえず、
「本当だ。
よく見れば観葉植物じゃないか……
ハハハ、もう歳かな」
俺は店員に話を合わせた。
これで誤魔化せればいいけれど。
俺は気づかれないように男女の様子を窺う。
すると2人は顔を見合わせ、興味を無くしたのか再びバカ話をし始めた。
体もちゃんと動くし、先程感じたプレッシャーもない。
危機は脱したようだ。
助かった。
「それにしても、本当によく間違われまして……
お客様にも迷惑になりますし、撤去しようと思ってるんです」
「いいや、そのまま置いておいた方がいい。
それが救う命もある」
「お客様がそこまでおっしゃるなら……
たしかにグリーンセラピーっていう言葉もありますしね。
そのまま置いておきましょう」
そう言うと、店員は居住まいを正して俺に言った。
「ところでお客様。
冷房の設定はどうでしょうか?
希望があれば、もう少し温度を下げますよ」
「いや、必要ない。
十分肝が冷えた」