「ふぃー、生き返るぅ」
炎天下での営業周り。
昼時になって逃げ込むように入った喫茶店は、まさに天国だった。
まさに砂漠でオアシスを見つけた時の気持ち。
文明の利器に感謝である。
「もうちっと冷えた方が好みだが……
まあいいか」
店員の案内でソファー席に座って、メニュー表を手に取る。
こじんまりした喫茶店だが、意外とメニューの数は多い。
これは選びがいがあるぞと、腹と相談しながら食べたいものを決める。
「お、冷やし中華あるじゃん。
冷やしラーメンもある!?
悩むなぁ、どっちにして――」
「ちょっと、ふざけないでよ!」
突然、女性の甲高い声が響く。
何事かと驚き目を向ければ、そこには2人の男女が座っていた。
自分の席からは男性の顔は見えなかったが、女性は泣いているようだった。
少し離れているため詳しい様子は分からないが、穏やかな様子ではない。
「別れ話かな…………」
楽園のようなオアシスに来て、まさかこんな修羅場に立ち会うとは……
いい気分が台無しだった。
俺が勝手にゲンナリしている間も、二人の会話は続く。
「ふざけてなんかないさ。
本当に一万頭のマンモスかやってきたのさ」
いや、どういう話題!?
会話の内容が気になった俺は、メニュー表を眺める振りをしながら二人の会話に耳を傾ける。
「それでどうしたの?」
「一匹の鹿の前に駆け参じたのさ」
「どうして?」
「もちろん虫歯の治療さ。
鹿は歯科医だからね」
「鹿が歯科医、くくく」
笑っていた。
どこに笑いのポイントがあるかは分からないが、とにかく女性は笑っていた。
女性は「もう、いい加減にしてよ」と言いながら、腹を抱えて涙を流している。
あの女性、相当に笑いの沸点が低いらしい。
ていうか、その涙の跡、笑い泣きの跡かよ。
「心配して損した」
別れ話のような、深刻な話ではないらしい。
修羅場でなくてよかったと思う一方で、俺はとてつもなく呆れていた。
まあ、不幸な人間がいないことを思えば歓迎すべきことなのだが……
「それでマンモスの敵討ちをしたキツネたちは、虹の始まりを求めて旅立ったのさ」
呆れている間に、物語は新しい展開を見せていた。
少し聞かなかっただけで、そこまで物語が動くとは……
全く興味を唆られないのに、聞き逃すとなんか悔しい思いをするのは何故だろう?
釈然としな思いを抱えながら、女性を見る。
すると女性は「うひひ、虹の始まりとかw」と笑っている。
話が意不明なのに、女性の方は大爆笑だ。
ツボに入ったか?
それとも若者の間では、ああいった会話が流行っているのだろうか?
もはや異世界の会話である。
だがまあ、お似合いのカップルなのだろう。
話のつまらない男性と、それを聞いてずっと笑っている女性。
二人がそれでいいなら、コチラが口を挟むべき理由は――
「お客様、ご注文はお決まりですか?」
「うわ!!」
二人を観察していることに集中しすぎて、店員が来たことに気づかなかったらしい。
これ以上ないほど驚き、そして店員まで驚かせてしまった。
「驚かせてすまない。
ボーッとしていたみたいだ」
「外は暑いですからね。
疲れが出たんでしょう」
「ああ、面目ない。
他の客にも迷惑をかけてしまったな」
「大丈夫ですよ。
今はお客様しかいませんから」
「客がいない?
そこにいるじゃないか……」
俺は「そこにいるだろ?」と男女のいる席を指差す。
しかし、店員は一度目を向けたきり、不思議そうな顔をしていた。
「いえ、いませんよ。
お客様が一人だけです」
「そんなバカな」
俺はありえないと、男女の席を見る。
やはりいる。
だが先程とは違い、バカなお喋りをやめこちらを見ていた。
見ているだけならよかった。
その眼差しは普通ではなく、まるで獲物を見つけたような……
ヤバい。
本能が危険を告げる。
アレが何かは知らないが、少なくとも友好的な様子ではない。
すぐさま逃げようとするが、体が動かない。
まるで蛇に睨まれた蛙のよう。
「ああ!」
店員が突然声を上げる。
驚いた俺は、反射的に店員を見た。
そして、視界の端ではあるが、二人の男女も店員に視線を向けているのご見えた。
「それ、観葉植物です」
「え?」
「よく間違われるんですよ。
角度が悪いのか、観葉植物が人間に見えるようで……
きっとそれですよ」
そう言われて、テーブルの向こうをマジマジ見る。
確かに観葉植物が置いてある。
どう見ても人間には見えないが、とりあえず、
「本当だ。
よく見れば観葉植物じゃないか……
ハハハ、もう歳かな」
俺は店員に話を合わせた。
これで誤魔化せればいいけれど。
俺は気づかれないように男女の様子を窺う。
すると2人は顔を見合わせ、興味を無くしたのか再びバカ話をし始めた。
体もちゃんと動くし、先程感じたプレッシャーもない。
危機は脱したようだ。
助かった。
「それにしても、本当によく間違われまして……
お客様にも迷惑になりますし、撤去しようと思ってるんです」
「いいや、そのまま置いておいた方がいい。
それが救う命もある」
「お客様がそこまでおっしゃるなら……
たしかにグリーンセラピーっていう言葉もありますしね。
そのまま置いておきましょう」
そう言うと、店員は居住まいを正して俺に言った。
「ところでお客様。
冷房の設定はどうでしょうか?
希望があれば、もう少し温度を下げますよ」
「いや、必要ない。
十分肝が冷えた」
8/2/2025, 7:44:12 AM