『光り輝け、暗闇で』『手放す勇気』『まだ知らない世界』
「コウ君、そのズボン、パパにちょうだい」
「イヤだイヤだ」
「そんなこと言わず、ね?」
「イヤだイヤだ」
息子が生まれてはや二年、息子はイヤイヤ期の絶頂期であった。
拒否の言葉を叫びながら、息子は全力で抵抗してくる
なんにでも『イヤだ』という息子であったが、まさかジュースを零したズボンすら離さないとは……
体全体を使って抱きしめるので、無理やり奪うことも出来ない。
妻はこんな時どうするのだろうか……
今はいない妻を思う。
先週の事である。
妻が神妙な顔で言った。
『推しのライブがあるから遠征したい。
その間、息子の世話を任せてもよいか?』
自分はすぐに了承した。
無理をさせている妻の希望は、可能な限り叶えてあげたかったからだ。
ウチでは専業主婦である妻が息子の世話をしている。
言い訳がましいが、仕事が忙しく手伝うことが出来ないのだ。
そんな中、妻は自分の趣味であるアイドルの追っかけを我慢し、子供の面倒を見ているのだ。
そんな妻が、推しのライブに行きたいと言う。
ならば行かせてやらねばなるまい。
会社には『絶対に外せない用事がある』と休みを取り、不退転の覚悟を持って息子の世話に臨んだ。
だが甘く見ていた。
まさかイヤイヤ期が、こんなにも苛烈な物だったなんて……
何を言っても嫌と言う。
好きなお菓子を上げても嫌と言う。
何をしても嫌と言うし、しなくても嫌と言う。
頭がおかしくなりそうだった。
妻はこれに耐えていたというのか。
頭が下がる思いであると同時に、もっと休みを取って楽をさせてやりたいと思う。
そのためには仕事量を調整して……
「イヤだイヤだ」
そんな事を考えている間も、息子はずっと叫んでいた。
確かに未来の計画は大事だが、それは後回し。
今は目の前のことに集中だ。
「イヤだイヤだ」
息子は疲れを知らないのか、ずっと泣き叫んでいる。
泣き疲れるのを待って回収することも考えたが、今回諦めた方がいいらしい。
かといって無理矢理奪うとさらに酷くなるので、ぜひとも自分の意思で離してもらいたいところ。
どうすれば息子はズボンを離してくれるのだろうが……
ヒントを得るために、部屋を見渡す
すると、息子のお気に入りの戦隊ひヒーロー、ユウキマンのソフビ人形が目に入る。
これだ!
「コウ君、ユウキマンのセリフ、覚えているかな~?」
「ユウキマン?」
息子の無き声がピタリとやみ、心の中でガッツポーズする。
さすが正義のヒーロー、ユウキマン!
怪人イヤイヤキもイチコロだぜ。
「『勇気を持て』」
「うん、そうだね
だからコウ君も勇気を持つんだ」
「何の?」
「ズボンを手放す勇気!」
「パバが離せば?」
論破されてしまった。
理不尽な要求にも屈せず、即座に言い返されるとは……
少し前まで言葉すら話せなかったのに、素晴らしい返しだ!
成長したな、息子よ!
なんて、バカなことを考えている場合じゃない。
次なる策を考えてないと……
と、息子が来ているTシャツを見て、あることを閃いた。
息子の着ているシャツ、それは……
「コウ君、ユウキマンはこうも言ってたよね」
「言ってない」
交渉する前に坊やに否定される。
ちょっとへこむけど、理不尽にめげず言葉を続ける。
「『輝け、暗闇で』」
「!」
坊やの目の色が変わる。
イヤイヤ期でも、ヒーローは特別らしい。
息子の反応を見て、成功を確信する。
『輝け、暗闇で』は、ユウキマンのセリフだ。
と言っても本編のセリフでは無い。
CMでのセリフである。
そのCMとは『光るパジャマ』のCM。
蛍光塗料が塗ってあり、暗い場所に行くとヒーローの姿が浮かび上がると言う魔法のアイテムだ。
息子はこれが大のお気に入りで、寝る前はいつもこのシャツを着ている――と妻が言っていた。
「じゃあ、ユウキマンに会うために、寝る準備をしないとね。
ほら歯磨きに行ってきなさい」
「うん!」
今までの悪魔のような振る舞いとは打って変わり、天使のような笑顔を見せる息子。
それを見て、自分も自然と笑顔になる。
さすがヒーローだ。
子供だけでなく、大人も笑顔にするのだから敵わない。
息子は抱きしめていたズボンを放り投げ、洗面所と向かう。
それを見送ってズボンを回収し、息子の目につかない所に置く。
これで一安心。
あとは機を見て洗濯機に放り込むだけである。
だがまだ油断はできない。
これから寝かしつけが待っているのだ。
妻が言うには、息子は寝る直前が一番元気らしい。
自分がまだ知らない世界。
何が起こるか分からないが、挫けるわけにはいかない。
寝かしつけなければ、自分も寝ることが出来ないからだ。
「これからが本当の闘いってわけか……」
強敵との戦いに臨むヒーローの心情は、こんな感じなのだろうか……
寝かしつけと言う最終決戦。
これに勝たなければ、自分に安眠は訪れない。
「ユウキマン、力を貸してくれ……」
そう呟きながら、新しい戦いに備えるのであった
『ただ君だけ』『記憶の海』『酸素』
「――つまり脳は記憶の海です。
今まで経験した膨大な体験を脳に蓄えることで、より深くより広い海を形成します。
その中から特定の海水をくみ出すこと――つまり記憶を取り出す事を『思い出す』といいます。
脳はその高度な機能によって、必要に応じて適切な記憶を思い出すことが出来るのです。
しかし、脳も万能ではありません。
皆さんも経験があるように、思い出そうとして思い出せない事があります。
これは一般的に『忘れる』という現象です。
記憶が深い海の底に沈み、容易には取り出せなるのです。
これは脳の通常の働きで、使わない記憶は海の奥底に沈め、よく使う記憶は海の表面に漂わせるのです。
こうすることで、迅速に記憶を取り出すことに成功しているのです
しかし、脳が『必要ない』と忘れてしまった記憶の中には、後々必要になったという事もよくあります
では忘れてしまった記憶を思いだすにはどうすればいいか?
次の講義では、具体的な方法を説明します」
パチパチパチパチ。
盛大な拍手の中、ジェニファーは丁寧なお辞儀をし、部屋を出ていく。
その姿は二十歳になったばかりとは思えない程堂々としたもので、誰もが彼女から目が離せなかった。
若くして教授になった彼女であるが、嫉妬されるどころかファンクラブがあるほど人気がある
さらに、彼女の多大なる功績から彼女専用の研究室を与えられ、研究室で論文を読むのが彼女の日課であった。
そして今日も講義が終わり、日課の論文を読もうと研究室の前まで戻って来た時であった。
「相変わらず素晴らしい講義だよ、ジェニファー」
彼女の後ろから声をかけてくる男がいた。
彼の名前はスティーブ。
ジェニファーより少し年上で、鍛え上げられた体が印象的な男性であった。
それもそのはず、スティーブは学生ではなく、犯罪に立ち向かう警察官なのである。
「スティーブ、アナタが講義を聞いていたのは知っていたわ。
でも本当に素晴らしいと思ってる?」
「思ってるよ、なぜだい?」
「だってアナタ、寝てたじゃない。
ぐっすりと」
ジェニファーの鋭い指摘に、スティーブはポリポリと頭を掻く。
「あー、難しい話は苦手でね。
すぐ寝てしまうんだ。
でも素晴らしいと思ったのは本当さ!」
「そう、ならいいわ。
で、要件は何?」
「君に会いに来たのさ」
「嘘」
「嘘じゃない!」
「アナタがただのファンなら信用するけど――」
ジェニファーは言葉を一旦区切った。
「アナタはいつも厄介事を持ってくるわ」
ジェニファーはうんざりしたようにため息をつく。
「違うんだ。
ただ君だけに会いに来ただけで――」
「じゃあ、楽しくお話したことだし、ここでお別れをしてもいいわね?」
「それは……」
「ほら、早く話しなさい。
私は忙しいの」
ジェニファーは研究室の扉を開け、中へ入るように促す。
「中で話しましょう」
ジェニファーの有無を言わせない気迫に、スティーブは肩をすくめてから部屋へと入るのであった。
★
「被疑者の名前はジョン。
性別は男性、年齢は君と同じ20歳」
「彼、何をしたの?」
「前々から不仲だった隣人の家を放火した。
ボヤの時点で発見されたのでけが人はいなかったが、家にあった登山用の酸素ボンベに引火して全焼。
放火して逃げようとしたところを隣人が取り押さえ、警察が来てそのまま現行犯逮捕さ」
「なら冤罪の線はなしと……
なら、なぜ私の所に来たのかしら?」
「彼は無罪を主張している」
「現行犯なのに?」
「彼の弁護士が言うには、被疑者はそんな記憶が無いと言うんだ」
ジェニファーは呆気にとられる
「呆れた!
警察はその場しのぎの嘘を信じてるわけ?
記憶ないからやってないとでも!?」
「そうもいかないんだ」
スティーブの言葉に、ジェニファーは訝しむような表情を見せる。
「被疑者は忘却薬を使われたと主張している」
「忘却薬……」
忘却薬――文字通り特定の記憶を忘却する薬の事。
PTSDの治療に使用し、トラウマの原因である記憶を忘れさせるのが本来の用途である。
普通は一般人が手に入る薬ではないが、医療関係者の横流しによってそれなりの量が流出していた。
「被疑者の弁護士は、隣人が被疑者を陥れるために忘却薬を使ったと主張している。
『記憶が無い事をいい事に、隣人が好き勝手言ってる』ってな」
「でも現行犯なんでしょ?
犯人の戯言なんて聞かず、そのまま裁判すればいいじゃない」
「被疑者が放火したと言うめぼしい証拠が他に無くてな。
証言しているのは取り押さえた隣人だけ。
二人は険悪だからその可能性も否定できず、決め手に欠けているんだ」
「なるほどね……
で、私に何をして欲しいの?」
「被疑者の当時の記憶を思い出させてほしい。
思い出しさえすれば、食い違いを検証できるからな」
「いいわよ」
「本当かい?
助かるよ」
スティーブは
「てっきり断られるかと……」
「忘却薬について、仮説があってね
試してみたいかったから丁度よかったわ」
「なんだ、自分の都合かよ……」
「いいじゃない別に。
別にいい加減な仕事をするつもりはないしね。
それよりも、成功したらご飯奢ってね」
「はいはい」
スティーブは胸中に不安な思いを抱えながら、ジェニファーを警察署へと送るのであった。
★
「助かったよ、被疑者もばっちり記憶が蘇ったと言っていた」
「それは良かった」
「断言できないが、俺の見立てでは被疑者が犯人で間違いないな」
「根拠は?」
「刑事の勘」
「非論理的ね……」
「安心しろ。
裏取りはしっかりするさ」
スティーブは胸をドンと叩き、自信のほどを伺わせた。
だが自信満々なのは一瞬だけ。
すぐに真剣な顔に戻り、ジョセフィーヌを見た。
「だがな、一つだけいいかな?」
「何かしら?」
「たしかに頼んだのはこちらからだが、あまり手荒な事はして欲しくない」
「ああ、被疑者を脅しつけた事を言っているの?」
ジョセフィーヌは、スティーブに見せつけるように手ハンマーを持ち上げる。
それを見て、つい先ほどの光景を思い出したスティーブは少し後ずさりした。
「今回に限り、あの方法が適切なのよ」
「そうは言ってもな。
『殴られたくなけば思い出せ』って、正気の沙汰じゃない
結果として思い出せたから良かったとはいえ、被疑者怯えていたぞ」
「忘却ってね、忘れるだけじゃダメなの」
「なんだって?」
スティーブは、急な話題の転換に戸惑い思わず声を上げる。
どういう意味か問いただそうとしたが、思い直しそれ以上追求することは無かった。
「忘れた上で、他の記憶に覆いかぶさって、あったことすら思い出せなくなるのが忘却なの」
「分かったぞ。
君の話で例えるなら、被疑者の記憶の海の底に沈んではいたが、その上から砂で覆われてなかったから汲み上げることが出来た、かな?」
「あら講義を聞いていたのね。
そうよ、忘れただけなら切っ掛けがあれば思い出せるのよ」
「命の危機に瀕すれば、単に忘れた記憶ぐらい思い出せるってか。
たしかに走馬灯ってあるもんな」
方法が過激ではあったが、ジョセフィーヌの言葉には一理あるとスティーブは納得する。
それでもハンマーをもって被疑者に迫るのは、やりすぎという考えは変えなかったが。
「つまり被疑者は嘘をついていた?」
「どちらかと言えば、思い込みね。
『忘却薬を飲んだ』から『思い出せない』と思い込んだの。
そもそも思い出す努力をしないから、結果として『思い出せない』の」
「そこで『殴られたくなけば思い出せ』と言って、思い出す努力をさせたと」
「本来の用途のPTSDの治療もね、薬だけじゃなく、いろんな治療を並行して行って少しずつ『思い出せなく』していくのよ。
トラウマを思い出す努力をさせないようにね」
「忘却薬も、名前程便利な物じゃないんだな」
先入観って怖いなと、スティーブは呟く。
そこに気づかないままであれば、この事件はもっと面倒なことになったあろう。
だがジョセフィーヌの助言によって、被疑者の記憶は取り戻せた。
あとは証言の裏取りを行うだけである
「これで事件は終わったようなもんだな」
スティーブは肩の荷が下りて、清々しい気分であった。
今日は久しぶりにベットで寝れるかもしれない。
スティーブはそんな事を考えていたが、そうは問屋が卸さない。
浮かれたスティーブの前に、ジョセフィーヌがすっと一歩前に出る
「スティーブ、食事はどこへ連れて行ってくれるのかしら?」
ジョセフィーヌが、今日一番いい笑顔を向ける
その言葉を聞いて、スティーブは目をパチクリさせた。
「何の話だ?」
「奢ってくれるって言ったじゃない」
「そんなの言ったか?
記憶に無いな」
だがけんもほろろに、スティーブは否定した。
それを受け、ジェニファーは微笑みを崩さずハンマーを軽く持ち上げる。
「悪かった、思い出した!
思い出したから!
そのハンマーを下ろせ」
「それは良かった。
じゃあ、行きましょうか」
「給料日前だから安いところで頼む」
「前から気になってたカフェがあって」
「聞いて」
ジョセフィーヌは、はたして自分の懐事情を記憶してくれるのだろうか。
そんな事を思いながら、スティーブは彼女の後ろを付いて歩くのであった
『ラブソング』『木漏れ日』『届かない』
とある春の晴れた日。
種まきを行うための前準備として、広い畑を耕していた。
春らしく、暑くもなく寒くもないちょうどいい気温。
鳥たちは歌を歌い、蝶は優雅に舞っていた。
典型的な、穏やかな春の日。
しかし、今の俺は優雅さには程遠い状態だった
農作業は簡単に見えても地味に重労働、作業を始めてから時間は経ってないのに、すでに汗でびっしょりだった
「だいぶ耕したが、まだ先は長い。
ここらで少し休もう」
休める場所はないかと辺りを見渡したころ、大きな木の下に影が出来ているのが見えた。
地面には木漏れ日が差し込み、キラキラと輝いている。
あそこならゆっくり休めそうだ。
そう思いながら木の元に向かう。
だがこういった時に事件は起こるものだ。
鼻歌を歌いながら歩いていると、なにかが足にぶつかった。
「あっ」
視線を向けて見ると、祠らしきものがあった。
そう『あった』のだ。
俺が足をぶつけて壊してしまい、今はただの瓦礫だった。
「やっべえ。
これ壊すなって言われたのに……」
ここで農業を始める際、扱いに注意するように耳にタコが出来るくらい言われた祠だ。
特に近所の人がこの祠を大事にしていて、自分が壊したと知られると何を言われるか分からない
バレる前に逃げよう。
「お前!
祠を壊したのか!」
だが逃げることは出来なかった。
後ろから声をかけられ、タイミングを失ってしまう。
まさか人がいたとは。
「わざとじゃないんです!
許してくださ……」
謝りながら振り返ると、そこにいたのは古風な着物を着た美少女だった。
あまりにも場違いな格好に驚き、最後まで言葉を言えなかった。
「ふん、口だけならなんとでも言える。
どうしてくれようか……」
腕を組んでプリプリと怒っている少女。
田舎なので近所の人間は全員顔見知りなのに、目の前にいる少女は見たことが無い顔だった。
「えっと君は……」
「そこの祠に住んでいたモノじゃ!」
いきなりとんでもない事を言う。
いつもなら『揶揄うんじゃない!』と一蹴するところだが、その少女が纏う雰囲気は普通じゃない。
まるで江戸時代から来たような服装、年頃なのに化粧っ気のない顔。
古臭い言い回し。
なにより少女の持つオーラが、その言葉に説得力を持たせていた。
「それは……
この祠で祭られてた神様ということ」
「神様と言われるほど偉いもんじゃないがの。
概ねその通りじゃ。
しかし……」
少女はためを作りながら、俺の足元を見る。
「しかしわしの家はもうない。
お前さんが壊したからの」
「うぐ」
痛いところを突かれ、思わずうめき声を上げる。
この点に関しては自分が全面的に悪いので、何も言い返せない。
その様子を見抜いたのか、少女は目を怪しく光らせる。
「祠を壊したのじゃ。
命をもって償ってもらう」
「そ、それだけは勘弁してください!
何でもしますから!」
「今『なんでも』って言った?」
少女の顔がにちゃりと歪むのを見て、背筋に冷たい物が走る
『言ってないです』と言いたかったが、そんな事が言える立場じゃないので口をつぐむ。
「よろしい。
お前さんの熱意に免じ、命だけは見逃してやろう」
「ありがとうございます」
「では代わりにだが……
ラブソングでも歌ってもらおうかの……」
「はい、喜んで――え?」
ラブソング?
聞き間違えたかな。
「わしに愛の歌を捧げるのだ。
わしを満足させることが出来れば、命を助けてやろう」
「えっと?」
「なんだ、不服か?
なら殺してやる!」
「そうではなく」
俺は慎重に言葉を選ぶ。
「こういう時の相場って、供物をささげるとかじゃないの?
例えば狩った鹿の死体とか、あるいは俺の血とか」
「……わし、グロイの嫌い……」
「うす」
あー、最近多様性だからね。
そういう神様がいてもいいよね。
「で、どうする?
死ぬか、ラブソングか?」
「ラブソングでお願いします」
「よかろう。
では魂を込めて歌うがいい!」
少女の合図で、流行りのラブソングを歌う。
アカペラかつ歌に疎いのもあって歌詞は怪しいが、心を込めて歌えたはずだ。
歌い終わり、少女を見る。
すると少女は小さく頷き、鐘を叩いた。
カーン。
金属音が悲しく響く。
テレビで見る時は笑っていたが、実際自分の立場になると結構ショックだった。
渾身のラブソング、彼女の合格基準には届かないようだ……
……というかどこから取り出したの、それ?
突っ込むべきか悩む俺をよそに、少女は歌の論評を始めた。
「だめじゃな、全然気持ちがこもっとらん。
ラブソングで気持ちがこもってないって、致命的じゃぞ」
「そりゃ初対面ですし、会って五分ですし。
プロの歌手でもないのに、気持ちを込められたら気持ち悪いですよ」
「罰ゲーム!」
「もう一度チャンスを!」
「いいぞ」
あっさりとOKが出たことに驚く。
「わしとて鬼ではない。
お前さんが諦めないと言うなら、最後まで付き合ってやろう」
「本音は?」
「暇なので出来るだけ引き伸ばして楽しみたい」
「暇つぶしかよ」
「しかたなかろう!
ただ見守るだけって、変化がなくてつまらないんじゃよ!
文句があるなら殺すが?」
「ありません」
「では歌え!
わしを失望させるなよ」
こうして俺と神様の、数年にわたる耐久ラブソングバトルが始まったのだった。
◇
数年後。
「おぎゃあ、おぎゃあ」
「おーよしよし、いい子いい子」
俺の手の中で、生まれたばかりの息子が大泣きしていた。
体をゆすったりしてあやすが、一向に泣き止む気配がない。
仕方ないと、俺は大きく息を吸う。
「ねんねんころりよ、おころりよ~
坊やはよい子だ、ねんねしな~」
俺が子守唄を歌うと、息子はスヤスヤと寝息を立て始めた。
子守歌の才能があるのか、息子はすぐ眠りにつく。
ようやくひと段落付いたと子供を布団に寝かせると、こちらを見ていた嫁と目があった。
「おまえさん子守歌だけは上手いのう。
ラブソングは未だにヘタクソだと言うのにな!」
妻の嫉妬のこもった言葉に、思わず苦笑する。
息子が生まれて以来、毎日のように繰り返したやりとり。
けれど少しも不快にならないのは、愛ゆえか。
「まあいい。
息子も寝たことだし、今度はわしの番じゃな」
見るからにウキウキし始めた妻に、思わず笑いがこぼれる。
何年も聞いているのに飽きないらしい。
「じゃが次もダメじゃろうな。
才能がない」
「そんな事は無い。
昨日とは違う俺の歌を聞かせてやるよ」
そうして俺はラブソングを歌う。
今日もきっと鐘一つでだろう。
だがそれで構わない。
俺はまだ愛を伝えてきれないのだから。
俺と神様のラブソングバトルは、まだ終わりそうにない
『軌跡』『風と』『sweet memolies』
西暦7777年、縁起のいい数字の並びに、世界はお祭り騒ぎだった。
そして人類が滅亡することなく、ここまで命を繋いだ功績を記念して、一度歴史を整理しようという話になった。
しかし人類の歩んだ軌跡は、綺麗なことばかりではない。
戦争、弾圧、虐殺……
目を背けたくなるような出来事も多い。
歴史を語る上で、避けては通れない問題である。
だが、めでたい事にケチを付けたくない。
なので目を背けることにした。
見たくないなら見なきゃ良いのである。
sweet memolies project。
都合のいい人類の歴史だけを纏める一大プロジェクトは、こうして始まったのである。
だが一つ懸念事項があった。。
編纂を行う人間が、良心の呵責に苛まれて、真実を書き記す可能性があるからだ。
生半可な人間では、この事業に相応しくない。
そんな考えから入念な調査が行われ、ある人物に白羽の矢が立った。
名前は、吉田茂。
過去の日本の総理大臣と同姓同名の男である。
この男、まるで総理大臣の吉田の生まれ変わりのように、人を食ったような性格であった。
頭と根性は生まれつきよくないし、口はうまいもの以外受け付けず、耳の方は都合の悪いことは一切聞こえない。
その上、外見は真面目な青少年風と、一目だけでは内面を見抜けない。
それを利用して人をからかったりと、率直に言って、たちの悪い人間であった。
普通であれば、こんな人間に人類史に残る一大事業を任せることはない。
だが今回に限り、これ以上ない人物だと太鼓判を押された。
彼ほど自分勝手なにんげんならば、都合の悪い歴史は全部無かったことにできると期待されたのである。
こうして吉田は、プロジェクトのリーダーに抜擢されたのだった。
しかし人類は忘れていた。
彼は人を食った性格であることを……
彼はリーダーを任されるなり、部下たちに言い放った。
「んじゃ、プロジェクトの予算使って、うまいもん食いに行くか。
なに、横領は犯罪だって?
大丈夫だよ。
都合の悪いことは、全部無かったことになるから」
『ふとした瞬間』『夜が明けた』『好きになれない、嫌いになれない』
近所に魔女が住んでいる家がある。
ずっと昔から住んでいて、どれくらい昔から住んでいるのか誰も知らない。
この魔女と言うのが、昔話に出て来るテンプレのような魔女である。
しわくちゃのお婆ちゃんで、いつも黒いローブを着込んでいて、意地の悪そうな笑みを浮かべている。
日がな怪しい薬を作り、日によって煙突から赤黄青と違う色の煙が出てくる。
そんな様子なので、近所の人たちから不気味に思われ敬遠されていた
魔女の方も一人のほうが好きらしく、こちらには積極的にかかわろうとしてこない
人間関係に窮屈な現代社会において、不必要に社会に関わらない生き方は少しだけ羨ましい。
まさに一匹狼という言葉がふさわしい魔女。
だけど、実を言うと私と魔女は顔見知りだったりする。
私のお母さんが、魔法とか魔術とかのオカルト好きで、魔女の事をかな~り気に入っており、積極的に交流を持とうとするのである。
何かと用事を見つけては魔女の家に行き、用事がなくとも遊びに行く。
私が生まれてからもその習慣は変わらず、というか私を連れて行くので自然と顔見知りになった。
『あの魔女と仲のいい人間がいる』という事で、私の母はちょっとした有名人なんだけど、自j地右派少しだけ違う。
大抵の場合、お母さんが一方的に話すばかりで、魔女の方はうんざり顔。
仲良しこよしには程遠い。
でも、話に付き合ってあげるくらいには、仲が良いことは子供心にも分かった。
だけど、私はお母さんとは違い、魔女の事が苦手だ。
なんとなく魔女には悪いイメージがあったし、私に会う度に不機嫌そうな顔をするからだ。
ふとした瞬間に私を睨みつけるように見るのは今でも覚えている。
ただし顔に出すだけで、なにか私が嫌がる事をしたわけでもないので『苦手』止まりなのだけど……
でも魔女の家に連れていかれたのは小さい頃だけ。
大きくなってからは、交友関係が広がったこともあって魔女の家に行く事は無くなった。
お母さんは相変わらず頻繁に魔女に家に遊びに行っているみたいだけど、魔女以外の友達がいるのかと少し不安になる今日この頃。
まあ、私には関係の無い事だけど
そうして魔女の家に行かなくなり、魔女の事も忘れかけていた高校2年生の春。
私は母親と喧嘩した。
些細なことで口論になり、着の身着のまま家を飛び出した私。
スマホも持たずに飛び出したため、友達に相談することもできない。
しかも遅い時間に出てきてしまったため、少しだけ肌寒い。
かと言って家に戻るのもなんだか負けたような気がする。
どうしたものかとほとぼ歩いていると、いつの間にか魔女の家の前まで来ていた。
小さい頃、何度も足を運んだ魔女の家。
無意識レベルで刷り込まれているらしい。
正直自分でも驚いていた。
だけど私は魔女の事が苦手。
魔女を頼りたくなんて無い。
このまま踵を返して戻ろうと思ったが、かといって行く当てもない。
そしていい加減寒いので、どこかで暖まりたい。
背に腹をかけることできないと、私は魔女の家のドアを叩いた。
「こんな時間にだれだい?」
軋むドアから出てきたのは、不機嫌そうな顔の魔女。
相変わらず不機嫌そうな顔で私を見ると、さらに目を細める。
「ああ、あんたかい。
入りな」
そう言って、魔女は家の中に引っ込んでしまった。
てっきり断られると思ったのだけに、あっさり招き入れられた私は拍子抜けした。
「早く入ってきな。
虫が入るだろ」
魔女に急かされるように家に入る。
家に入った瞬間、怪しい薬でも調合しているのかツンとした匂いが鼻をつく。
小さい頃、何度も嗅いだ懐かしい匂い。
思い出に浸っていると、魔女が振り返って私を睨む
「何しに来た?」
「家出してきたんです」
「そうかい」
「お母さんには連絡しないで。
連れ戻されちゃう」
「そうかい。
何でも良いが、邪魔だけはするなよ」
そう言って、魔女は奥へと引っ込んでしまった。
愛想のないことだがいつもの事。
私は特に気にせずに、近くにあったボロボロのソファーに腰かける。
このソファー、私が小さい頃からあるんだけど、捨てないのだろうか?
スプリングが弱くなって、まったく弾力性が無い。
泊めてくれたお礼に、ゴミに出してあげるべきか?
そんな取り留めのない事を考えていると、魔女が手にティーカップを持ってやって来た。
「ワシの庭で取れたハーブティーさ。
これを飲んでリラックスしな」
「ありがとうございます」
私がハーブティーを受け取ると、魔女は向かいの椅子に座った。
まさか私とおしゃべりするつもり?
人間嫌いのあの魔女が?
私が驚いていると、魔女は口を開いた
「あんた、大きくなってもそのソファーが好きなんだねえ」
「え?」
「覚えてないのかい?
ウチに来るたびに、そのソファーに乗って遊んでいただろう」
魔女に指摘されて、ソファーの上で飛び回っていた思い出がよみがえる。
「思い出したかい。
あんまり飛び跳ねるもんだからソファーがダメになっちまってね。
捨てようとしたんだが、あんたが泣くもんだから結局そのままさ」
「あー、それは覚えてないです」
「都合が悪い事を忘れるのも変わらないねえ。
イーヒッヒッヒ」
魔女はおかしそうに、魔女は笑い始めた。
笑い声は気になるが、こうして見ると普通のお婆ちゃんである。
こんな気のいいお婆ちゃんが怖いだなんて、小さい頃の私は見る目がないにもほどがある。
「ハーブティ、もう一杯飲むかい?」
空になったカップを見て、魔女はギラリと私を睨む。
思わずブルリと震えた私を見て、魔女はバツが悪そうに頭を掻いた。
「歳を取ったのか、最近目が見えなくなってねえ。
物を見る時に目を細めるんだけど、目つきが悪いってあんたの母さんに怒られるんだよ」
数年の時を経て意外な事実が発覚。
小さい頃、睨まれていたと思っていたのは、普通に私を見ていただけだった。
事実とはいつだって普通なのだ。
嫌われていなかったことに少しだけホッとしつつも、嫌われていたと思い込んでいたことに、少しだけ申し訳なく思う。
そういう事なら、もう少し魔女と遊んでおけばよかった。
まあ、本当に嫌いだったら、子供だろうと家に入れないよね。
だって魔女だもん。
「大きくなってから来なくなったからねえ。
色々話を聞かせてもらいたいもんだ」
魔女は、人懐っこい笑みを浮かべて私を見る。
やっぱりお婆ちゃんみたいだと改めて思う。
少し驚いたけど、家に入れてもらった礼もあるし、話し相手になるのもやぶさかではない。
私はハーブティーを飲みながら、意外とおしゃべりな魔女と談笑するのだった
◇
気がつけば私はソファーに横になっていた。
魔女と話している解きに、眠ってしまったようだ。
慣れない姿勢で寝たからか、体中が痛い。
痛みをこらえながら窓を見ると、既に夜が明けたのか、外は明るい。
寝ぼけた頭でこれからの事を考えていると、玄関の方から物音がした。
「すいません、娘を迎えに来ました」
玄関からお母さんの声。
どうやら魔女が、お母さんに連絡していたらしい。
なんてことだ。
連絡しないでと言ったのに、お母さんに連絡していたらしい。
信じてたのに!
これだから魔女は好きになれない。
……嫌いにもなれないけど。
だけど一晩たって私の頭も冷えた。
今なら寛大な心でお母さんを許すことが出来よう。
私は身を起こし、玄関へと向かう。
玄関にはお母さんと魔女が立っていた。
「家出したらまた来な。
またハーブティー飲ませてやるよ」
どこか寂しそうに私を見る魔女は、どこをどう見ても普通のお婆ちゃんだ。
もしかして孫かなんかだと思われてる?
孫との別れがつらいなんて、魔女も人の子らしい。
そんなお婆ちゃん魔女を見て、私はにこりと笑う。
「次来るまでに、布団を買っておいて。
ソファーで寝るのは、こりごりよ」