G14(3日に一度更新)

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『ただ君だけ』『記憶の海』『酸素』


「――つまり脳は記憶の海です。
 今まで経験した膨大な体験を脳に蓄えることで、より深くより広い海を形成します。
 その中から特定の海水をくみ出すこと――つまり記憶を取り出す事を『思い出す』といいます。
 脳はその高度な機能によって、必要に応じて適切な記憶を思い出すことが出来るのです。

 しかし、脳も万能ではありません。
 皆さんも経験があるように、思い出そうとして思い出せない事があります。
 これは一般的に『忘れる』という現象です。
 記憶が深い海の底に沈み、容易には取り出せなるのです。

 これは脳の通常の働きで、使わない記憶は海の奥底に沈め、よく使う記憶は海の表面に漂わせるのです。
 こうすることで、迅速に記憶を取り出すことに成功しているのです

 しかし、脳が『必要ない』と忘れてしまった記憶の中には、後々必要になったという事もよくあります
 では忘れてしまった記憶を思いだすにはどうすればいいか?
 次の講義では、具体的な方法を説明します」

 パチパチパチパチ。
 
 盛大な拍手の中、ジェニファーは丁寧なお辞儀をし、部屋を出ていく。
 その姿は二十歳になったばかりとは思えない程堂々としたもので、誰もが彼女から目が離せなかった。
 若くして教授になった彼女であるが、嫉妬されるどころかファンクラブがあるほど人気がある
 さらに、彼女の多大なる功績から彼女専用の研究室を与えられ、研究室で論文を読むのが彼女の日課であった。
 そして今日も講義が終わり、日課の論文を読もうと研究室の前まで戻って来た時であった。

「相変わらず素晴らしい講義だよ、ジェニファー」
 彼女の後ろから声をかけてくる男がいた。
 彼の名前はスティーブ。
 ジェニファーより少し年上で、鍛え上げられた体が印象的な男性であった。
 それもそのはず、スティーブは学生ではなく、犯罪に立ち向かう警察官なのである。

「スティーブ、アナタが講義を聞いていたのは知っていたわ。
 でも本当に素晴らしいと思ってる?」
「思ってるよ、なぜだい?」
「だってアナタ、寝てたじゃない。
 ぐっすりと」
 ジェニファーの鋭い指摘に、スティーブはポリポリと頭を掻く。

「あー、難しい話は苦手でね。
 すぐ寝てしまうんだ。
 でも素晴らしいと思ったのは本当さ!」
「そう、ならいいわ。
 で、要件は何?」
「君に会いに来たのさ」
「嘘」
「嘘じゃない!」
「アナタがただのファンなら信用するけど――」
 ジェニファーは言葉を一旦区切った。
「アナタはいつも厄介事を持ってくるわ」
 ジェニファーはうんざりしたようにため息をつく。

「違うんだ。
 ただ君だけに会いに来ただけで――」
「じゃあ、楽しくお話したことだし、ここでお別れをしてもいいわね?」
「それは……」
「ほら、早く話しなさい。
 私は忙しいの」
 ジェニファーは研究室の扉を開け、中へ入るように促す。
「中で話しましょう」
 ジェニファーの有無を言わせない気迫に、スティーブは肩をすくめてから部屋へと入るのであった。




「被疑者の名前はジョン。
 性別は男性、年齢は君と同じ20歳」
「彼、何をしたの?」
「前々から不仲だった隣人の家を放火した。
 ボヤの時点で発見されたのでけが人はいなかったが、家にあった登山用の酸素ボンベに引火して全焼。
 放火して逃げようとしたところを隣人が取り押さえ、警察が来てそのまま現行犯逮捕さ」
「なら冤罪の線はなしと……
 なら、なぜ私の所に来たのかしら?」
「彼は無罪を主張している」
「現行犯なのに?」
「彼の弁護士が言うには、被疑者はそんな記憶が無いと言うんだ」
 ジェニファーは呆気にとられる

「呆れた!
 警察はその場しのぎの嘘を信じてるわけ?
 記憶ないからやってないとでも!?」
「そうもいかないんだ」
 スティーブの言葉に、ジェニファーは訝しむような表情を見せる。

「被疑者は忘却薬を使われたと主張している」
「忘却薬……」

 忘却薬――文字通り特定の記憶を忘却する薬の事。
 PTSDの治療に使用し、トラウマの原因である記憶を忘れさせるのが本来の用途である。
 普通は一般人が手に入る薬ではないが、医療関係者の横流しによってそれなりの量が流出していた。

「被疑者の弁護士は、隣人が被疑者を陥れるために忘却薬を使ったと主張している。
 『記憶が無い事をいい事に、隣人が好き勝手言ってる』ってな」
「でも現行犯なんでしょ?
 犯人の戯言なんて聞かず、そのまま裁判すればいいじゃない」
「被疑者が放火したと言うめぼしい証拠が他に無くてな。
 証言しているのは取り押さえた隣人だけ。
 二人は険悪だからその可能性も否定できず、決め手に欠けているんだ」
「なるほどね……
 で、私に何をして欲しいの?」
「被疑者の当時の記憶を思い出させてほしい。
 思い出しさえすれば、食い違いを検証できるからな」
「いいわよ」
「本当かい?
 助かるよ」
 スティーブは

「てっきり断られるかと……」
「忘却薬について、仮説があってね
 試してみたいかったから丁度よかったわ」
「なんだ、自分の都合かよ……」
「いいじゃない別に。
 別にいい加減な仕事をするつもりはないしね。
 それよりも、成功したらご飯奢ってね」
「はいはい」
 スティーブは胸中に不安な思いを抱えながら、ジェニファーを警察署へと送るのであった。


 ★

「助かったよ、被疑者もばっちり記憶が蘇ったと言っていた」
「それは良かった」
「断言できないが、俺の見立てでは被疑者が犯人で間違いないな」
「根拠は?」
「刑事の勘」
「非論理的ね……」
「安心しろ。
 裏取りはしっかりするさ」
 スティーブは胸をドンと叩き、自信のほどを伺わせた。
 だが自信満々なのは一瞬だけ。
 すぐに真剣な顔に戻り、ジョセフィーヌを見た。

「だがな、一つだけいいかな?」
「何かしら?」
「たしかに頼んだのはこちらからだが、あまり手荒な事はして欲しくない」
「ああ、被疑者を脅しつけた事を言っているの?」
 ジョセフィーヌは、スティーブに見せつけるように手ハンマーを持ち上げる。
 それを見て、つい先ほどの光景を思い出したスティーブは少し後ずさりした。

「今回に限り、あの方法が適切なのよ」
「そうは言ってもな。
 『殴られたくなけば思い出せ』って、正気の沙汰じゃない
 結果として思い出せたから良かったとはいえ、被疑者怯えていたぞ」
「忘却ってね、忘れるだけじゃダメなの」
「なんだって?」
 スティーブは、急な話題の転換に戸惑い思わず声を上げる。
 どういう意味か問いただそうとしたが、思い直しそれ以上追求することは無かった。

「忘れた上で、他の記憶に覆いかぶさって、あったことすら思い出せなくなるのが忘却なの」
「分かったぞ。
 君の話で例えるなら、被疑者の記憶の海の底に沈んではいたが、その上から砂で覆われてなかったから汲み上げることが出来た、かな?」
「あら講義を聞いていたのね。
 そうよ、忘れただけなら切っ掛けがあれば思い出せるのよ」
「命の危機に瀕すれば、単に忘れた記憶ぐらい思い出せるってか。
 たしかに走馬灯ってあるもんな」
 方法が過激ではあったが、ジョセフィーヌの言葉には一理あるとスティーブは納得する。
 それでもハンマーをもって被疑者に迫るのは、やりすぎという考えは変えなかったが。

「つまり被疑者は嘘をついていた?」
「どちらかと言えば、思い込みね。
 『忘却薬を飲んだ』から『思い出せない』と思い込んだの。
 そもそも思い出す努力をしないから、結果として『思い出せない』の」
「そこで『殴られたくなけば思い出せ』と言って、思い出す努力をさせたと」
「本来の用途のPTSDの治療もね、薬だけじゃなく、いろんな治療を並行して行って少しずつ『思い出せなく』していくのよ。
 トラウマを思い出す努力をさせないようにね」
「忘却薬も、名前程便利な物じゃないんだな」
 先入観って怖いなと、スティーブは呟く。
 そこに気づかないままであれば、この事件はもっと面倒なことになったあろう。
 だがジョセフィーヌの助言によって、被疑者の記憶は取り戻せた。
 あとは証言の裏取りを行うだけである

「これで事件は終わったようなもんだな」
 スティーブは肩の荷が下りて、清々しい気分であった。
 今日は久しぶりにベットで寝れるかもしれない。
 スティーブはそんな事を考えていたが、そうは問屋が卸さない。
 浮かれたスティーブの前に、ジョセフィーヌがすっと一歩前に出る

「スティーブ、食事はどこへ連れて行ってくれるのかしら?」
 ジョセフィーヌが、今日一番いい笑顔を向ける
 その言葉を聞いて、スティーブは目をパチクリさせた。

「何の話だ?」
「奢ってくれるって言ったじゃない」
「そんなの言ったか?
 記憶に無いな」
 だがけんもほろろに、スティーブは否定した。
 それを受け、ジェニファーは微笑みを崩さずハンマーを軽く持ち上げる。

「悪かった、思い出した!
 思い出したから!
 そのハンマーを下ろせ」
「それは良かった。
 じゃあ、行きましょうか」
「給料日前だから安いところで頼む」
「前から気になってたカフェがあって」
「聞いて」

 ジョセフィーヌは、はたして自分の懐事情を記憶してくれるのだろうか。
 そんな事を思いながら、スティーブは彼女の後ろを付いて歩くのであった

5/17/2025, 12:17:27 PM