朝の日課の水やりを済ませると、咲き始めたアメリカンブルーの涼し気な青色がその水の恵みを受けてさらに美しく輝いて見える
浩介はその花達に愛おしそうに声をかけた
「乃梨ちゃん、今朝もまた子供達元気に咲いてるよ」
浩介と乃梨子の間には子が無かった
それでも、二人は充分幸せだったし、すべては自然に任せよう、というのが二人の選択した生き方だった
仕事で留守がちな毎日に不平を一切言うことなく卒なく家事をこなす乃梨子に、浩介は感謝しかなかったが、出来れば乃梨子にも何か打ち込めるものを持って欲しいと思っていた
乃梨子は気立ては良かったが積極的に何かを求めるタイプではなく、与えられたものに大人しく従う質だった
「乃梨ちゃんも何か始めたらどう?」
と浩介は時折声をかけたが
「そうねぇ…」
とニコニコ微笑むだけだった
そんなある日、二人で買い物に出掛けたホームセンターの一角で乃梨子がアメリカンブルーの苗を見つけた
「このブルー、とっても素敵! 育ててみたいわ」
浩介は、自分から何かをしたいと言い出した乃梨子の言葉が嬉しくて
「もちろんだよ!買おう、買おう!育ててみようよ!」
と子供のようにはしゃいだ
それからというもの、乃梨子は園芸の本を一気に読みあさり、ジョウロさえなかった庭に必要な道具や用土や肥料を次々に揃えていった
その行動力に浩介はただ、ただ驚いた
(乃梨子のどこに、こんなパワーが隠れていたんだ? 俺は乃梨子のことをまったく分かっていなかったのかも知れないな…)
と、乃梨子の新たな魅力に少しときめいた
何かに集中し出したら一気にのめり込むという乃梨子の新たな気質のお陰で、乃梨子はアッと言う間にプロ顔負けの園芸家としても充分活躍出来そうなまでになっていた
そんな乃梨子に育ててられた花達は、それはイキイキと幸せそうに咲き誇り、特に乃梨子の才能を引き出すきっかけとなったアメリカンブルーは際立って誇らしく、乃梨子が挿し木や接ぎ木をしながら丹精込めて育った甲斐あってその存在感は見事なものだった
そんな夏を三度ほど経験した頃には乃梨子は
「いつかね、ここに蛍を放てるようなイーハトーブを造りたいのよ」
と夢を語るようになっていた
もちろん、浩介は全面的に応援するつもりでいたが、ただ少し気掛かりなことがあった
園芸の仕事は思った以上に体力を使う
そのせいか、乃梨子が以前に比べて痩せてきているような気がしていたのだ
「乃梨ちゃん、あんまり頑張り過ぎるなよ 体壊したら元も子もないからね」
と案ずる浩介に乃梨子は
「痩せたくらいでちょうど良いの」
と照れ臭そうに笑った
そのうち、乃梨子は少し重いものを持つと肩で息をするようになり、食事の量もかなり減っているようだった
ふんわりした洋服を着ることの多い乃梨子だったが、明らかにその洋服の中の体が薄くなっていることに浩介も気付いていた
「ねぇ、乃梨ちゃん どこか悪いんじゃないの?」
と恐る恐る声を掛けた浩介に乃梨子は観念したようにポツリポツリと話し始めた
「浩介さん、心配させてごめんね
私ね、たぶんもうあんまり生きられないみたいなの
でも、そんなことを話したら、すぐに病院へ入れられちゃうでしょ
お花の世話が出来なくなっちゃうでしょ?
浩介さんには本当に申し訳ないけれど、最後の瞬間まで花達と居たいの
花達に生きる意味を貰ったから、私のすべてを捧げたいの
だから、すべて許して
ごめんなさい」
そう言って泣きながら差し出した腕はすでに棒のように細くなっていたが、浩介の手を握る手は燃えるように熱く、力強かった
最後まで命を燃やし尽くしたいという乃梨子の強い意志がその手から浩介に伝わった
やつれた乃梨子の顔には、今まで見たことのない神々しさが宿っていた
浩介はただ、ただ流れ出る涙をどうすることも出来ず、乃梨子のその手を握り返すことが精一杯だった
浩介は花の手入などはしたことも無かった
出来るのはせいぜい朝の水やりくらいだった
「私が居なくなっても、この子達がいてくれれば淋しくないわよね!」
とイタズラっぽく笑う乃梨子の顔が浮かぶ
乃梨子が育てていた花達すべてはとても面倒見切れないが、このアメリカンブルーだけは枯らさず育てていくと乃梨子にも約束した
その花達がまた今年も沢山花をつけてくれそうだ
「乃梨ちゃん、花達が居ると賑やかだけど、やっぱり乃梨ちゃんが居ないと淋しいよ…
一緒に見たかったよ…」
浩介は花の精になった乃梨子に語りかけた
「浩介さん、淋しがらないでね
私は花に形を変えちゃったけど、浩介さんがずっと大事にしてくれれば、こうして花を沢山咲かせて浩介さんの愛に応え続けるから…」
と乃梨子のいつもの可愛らしい声が浩介の耳元で聞こえた
『花咲いて』
ある日突然、今までの日常からまるでつまみ出されるように、当たり前と思っていた日々が送れなくなったとしたら、あなたならどうするだろうか?
どうにかして今までの日常を取戻すべく躍起になる?
自分の何がいけなかったのか、どこに原因があったのかを懸命に反省しようとする?
やがて、元には戻れないという現実に直面し、これまで日常と思っていたことこそが幻ではなかったのかとさえ思うようになってしまうかも知れない
自分の人生は自分自身でコントロールしていると愚かな錯覚の中で思い上がって生きていると、つい
人の営みは、自分ではどうしようもない運命の流れという大きな激流の中で、その波に器用に流されているだけに過ぎなかったことに改めて気付かされる
それでも尚、
もしタイムマシンがあったなら、そんな事実に直面する前の自分に戻って、もう一度そこからやり直してみたいなどと往生際の悪いことを思ってしまうものだろう
そして、そんな時に一番欲しいものは?と問われたら、「いつもの日常のバックアップ」と答えてしまいそうだ
例えこれまでの日々が幻の如く形を変えてしまったとしても、その中で積み上げた記憶は自分の心の中に確かな記憶として残り続ける
やがて、歳を重ねる中でその記憶が薄れ始めたら、
その時はまたタイムマシンに乗って記憶のバックアップを拾い集めに行こう
『タイムマシンがあったなら』
『一番欲しいもの』
私が子供の頃、女の子の名前には◯◯子と子の付く名前がほとんどだった
ところが、人と同じであることを好まなかった私の親は、私の名には子の付かないものを選んだ
親の気持ちなど知らない私は皆と同じ様に"子が付く名前"が良かったと思ったものだ
名前というのはほとんどの人が一生を共にするもので、「名は体を表す」とか「名のように生きる」等といわれるように名前がその人の人生を象徴すると考える人もまだまだ多いようだ
こんな風に育って欲しいという願いや祈りを込めて親が子の名前を考え、与えることは時代が移り変わってもあまり変わっていないように思う
私の親が願いを込めて与えた名前のように私が生きているかと言えば、風変わりなDNAも受け継いだものの、まあそこそこ実現出来ているのではないかと思う
そういう意味では親に感謝しなければならないし、その名に恥じない生き方をこれからもしようと改めて思う
名前とは、なかなか興味深いものだ
『私の名前』
それはちょっとした思い付きだった
コロナ禍で人との交流が制限され、仕事に行くこともままならず、多くの人が抱えていたモヤモヤを俺も少なからず募らせていた頃だった
暇潰しに何気なく観ていた「メイク動画」
すっぴんの女の子があれよあれよという間に美女に変身していくアレだ
元々姉貴には良く言われていた
「あんたが良い要素全部持って行っちゃったのよね…」
二つ上の姉貴とは似ているところが全く見つからないほどお互い別の造りをした顔立ちだった
「私はあんたが母さんが過ちを犯して出来てしまった子供なんじゃないかって、未だに私は少し疑っているのよ」
と恐ろしいことを姉貴は真顔で良く俺に言った
確かに自分でもキレイな顔立ちだとは思ってきた
日本人離れした彫りの深さ、180cmを越える背の高さだったが9頭身には見える小さな顔、大きいながらも涼しげな瞳、薄からず厚からずのバランスのとれた形の良い唇
化粧品のCMに出てきそうな綺麗な肌をしていた
その動画を眺めているうちに、
「俺ならもっとキレイになるかも…」
なんていうイタズラ心と好奇心が頭をもたげたのだ
姉の使いかけの化粧道具を借りて、見様見真似で丁寧に施していく
元々手先は器用で美的センスも持ち合わせていたから、それほど難しいことでもなく、キャンバスに絵を描いていくように筆やラインを走らせた
ハイライトの入った顔はより彫りを深く見せ、ブラシで整えた眉は涼しげな瞳をより際立たせ、マスカラをつけた睫毛はその瞳に憂いを与えた
唇はラインを引くと整い過ぎる感じがして、あえて無造作にリップクリームで艶を乗せるだけにした
それがむしろあでやかさをより演出した
鏡の中の自分は思わず身震いするほど美しかった
日頃の俺は冴えない研究者としての日常を送っている
1日パソコンの前でデータと睨めっこしているには高すぎる身長を持て余し、コンタクトレンズが体質的にに合わない眼には牛乳瓶底メガネをかけ、
年に2度ほどしか散髪に行かない髪は伸び放題
ヒゲも気が向かなければ剃らない日もある
人付き合いの苦手さもあって、女性との交際もほとんど経験はない
だから、周りの人間も俺の存在すら気にしていないし、まして俺がそんな美貌の持ち主であることに気付くほど俺を見る人もいないのだ
「これが俺か? ヤバ過ぎる美しさだ
化粧の魔力がこれほどとは!」
ほんの遊びのつもりだったが、このまま誰にも見せないで終わるのは勿体ない!
誰かに見せたいという衝動が抑えきれず、慌てて髪を水で濡らしてオールバックにし、姉の黒のワンピースを体に巻きつけて動画を作った
もちろん何もかもが初めての経験だったが、以前観たこのとあるパリコレモデルのイメージでポーズをとり、怪しげな表情でカメラを睨みつけた
反響は想像を遥かに超えた
「この美女は誰?」
「この美しさは神なんですけど!」
「この人は彼女?彼? もう、そんな事どっちだって良い美しさに平伏してま〜す」
「一体、どこから出てきたの?
今までこんな人どこに埋もれてたの?!」
その反響はとても把握しきれない数に上った
体中の血が逆流する様な興奮を生まれて初めて経験した
この動画を観ている人々の視線の先に映っているのはもちろん本当の俺ではない
でも例えそれが虚像であっても、それが真実かどうかなんて彼らにはそれほど重要なことではないのかも知れない
信じたいものがあることこそきっと強いパワーになるのだ
あれから半年が経ち、増え続けるファンに応えるように定期的に動画を配信する生活を続けている
人の興味なんて何れ失われていくものだ
だから、それまでの間、彼らひとりひとりがそれぞれにその視線の先に描く夢や憧れの象徴として俺が仮の姿でそこに存在してみるのも、それなりに意味のあることかも知れないと思っている
少なくとも背中を丸めながらパソコン相手にデータ収集に追われる自分よりは俺自身が遥かに生きている実感がある
そして俺の視線の先にあるものが、この経験が自分の可能性を広げた未来であることを信じている
『視線の先に』
「私だけ」の世界に没頭したくて、ここで書き始めたつもりだった
描きたい世界を描きたいように、誰に邪魔されることなく批判されることなく自由に書くことを楽しむはずだった
もちろん日々綴るなかでその思いは確実に形になっているし、思いも遂げている
それなのに、何か物足りなさを感じてしまう自分も見え隠れしてしまう
放っておかれたいはずだったのに、他の人の描く世界にも触れたくなって覗いてみれば、その力に圧倒されて自分の力の無さに打ちのめされる…
そういう事が嫌で見つけた「私だけ」の世界だったはずなのに、やっぱり覗いてしまっている
人の評価なんて気にしないで、そんな物には囚われないで書くことを純粋に楽しむはずだったのに、自分の作品に♡がつくと「嬉しい!」と無邪気に喜ぶ自分がいる
自由とか、私だけの世界を味わい尽くすのにも、それなりの強い心が必要ということなのだろうか…
その時点でもう自由じゃないのに
そんな当たり前のような、実は深いテーマの「私だけ」を探りながら、私にしか紡ぎ出せない世界「私だけ」の物語をこれからも綴っていきたいと思う
『私だけ』