————どくん、と心臓が跳ね上がる。
目の前のあなたの表情は、どこか判然としないものだった。
My Heart
僕はその日、買い物に出かけた。ワンルームのマンションから徒歩10分のスーパーで、食材を見繕う。
街から少し外れた立地の、子供連れや高齢夫婦もいる雑然とした店内で、僕は何を買おうか悩んでいた。
(……土曜日はやっぱり人が多いな)
次第に混雑してきた売り場に、買い物に出る時間を見誤ったかと一人溜息を吐く。
(えーっと……確か油が切れていたっけ)
こんな行き当たりばったりの買い出しではなく、きちんとメモを用意してから家を出ようとは思っているものの、結局いつもメモを忘れてしまう。
油売り場に辿り着き、いつもの油を探していると、足に軽い衝撃があった。
「…….おっと、大丈夫?」
五歳くらいだろうか、小さな女の子が僕の足にぶつかった様で、咄嗟に声をかけた。
「ごめんなさい! 大丈夫!」
そう元気に返事が返ってきたのでさらに笑顔を返し、迷子かなと周りへと視線を巡らせて保護者を探す。
すると、僕と歳の頃がそう変わらなそうな女性が小走りでこちらに向かってきている。
「ママ!」
どうやら女の子の母親らしい。よかった、迷子ではない様だ。
「すみません、うちの子が迷惑をおかけして」
「いえいえ~」
僕はへらりと笑い、油を手に取って会釈しその場を去った。
(あと、は…………肉でも買ってくか)
そうして会計も済ませて店を出た僕は、来た時もそうした様に、店の駐車場を突っ切って家路につく。
先程の親子も買い物を終えたらしく、僕の後から店を出たのが視界に入った。こちらに気づいた女の子が大振りに手を振ってくるので、こちらは小さく振り返す。
何とも微笑ましい光景だ。
なんだか心満ちたような気になって、気を取り直して歩き出す。
瞬間。
————————キキィッ!!!!
僕が今し方出たばかりの、駐車場の出口から逆走して侵入しようとした車が僕目掛けて走ってくる光景がスローモーションに見えた。
どくん、と心臓が跳ね上がる。
後ろへ飛ぶ様に転んだ際に視界に入った少女の顔は、判然としない表情であったことが瞼の裏に焼きついた。
————あのこがほしい はないちもんめ
————あのこじゃわからん
————そうだんしましょ そうしましょ
ないものねだり
この学校では密かにとあるおまじないが流行っている。
きっと誰もが一度は願う、望みを叶えてくれるおまじない。
「……ねぇ、知ってる?」
佐渡 千草は友人にそのおまじないを聞いた。
曰く、その名は"ササキ ケイコ"。
かつてこの学校に在籍した女生徒だという。
金持ちの家に生まれた彼女は、頭脳明晰でスポーツ万能、まさに天が二物も三物も与えた存在だったとか。
千草も、もしもそんな子が同級生にいたのなら、多少羨んだり妬んだりすると思った。
"ササキ ケイコ"は、その羨んだ生徒たちに虐げられていた。
彼女の持ち物は盗まれ、隠され、時に捨てられた。
テストや体育の時間には皆が口を揃えて、ありもしない彼女の不正を訴えた。
結果として、彼女は死んだ。
学校の屋上からの落下死だった。
彼女が自ら飛び降りたとも、虐めていた生徒に突き落とされたともいわれていると。
「それでね、"ササキ ケイコ"さんの奪われたものを返してあげるの。そうすれば、"自分に足りないもの'をお礼に分けてくれるんだって」
そう話を一旦締めくくった友人は、千草の反応を見ている様だった。
「へー。そんなの初めて聞いたけど、七不思議ってやつ?」
努めて、興味無さげに話す千草。
「さあ? ほかのは聞いたことないからウチもわかんない。これはね、先輩から聞いたの」
どこか楽しげに話す友人は、心底信じているわけではなさそうだった。千草に違和を感じている様子はない。
「それでね、おまじないの方法なんだけど————」
***
時刻は23時55分。
千草は今、自宅の自室でそのおまじないを試そうとしている。
0時きっかりに行うため、準備をしたところだ。
用意するもの
・何も書かれていないノート
・ペン
・自分の望みを書いたノートの切れ端(ルーズリーフでも可)
友人に聞いた必要なものはそれだけ。
あとは誰にも見られてはいけないというのと、使ったものはすぐに見つからない様に処分するルール。
そして最後の必要なものはルーズリーフで用意した。
千草の願いはただ一つ。
——人前で話す時のあがり症を治したい
そう書いたルーズリーフ一枚と、ノート一冊を置いた自身の勉強机を前に、千草は右手にペンを握っている。
ノートの表紙に ササキ ケイコ、と記入する。
かち、かち、と、秒針が静寂に響く。
時計が、0時を指した。
千草は唱える。
「ササキ ケイコさん、ササキ ケイコさん、あなたのノートをお返しします。あなたのノートをお返しします」
千草は願う。
「あなたの才能はあなたのもの、あなたの家族はあなたのもの、あなたのものはあなたのもの」
ふわり、と室内に風が吹いた気がした。
…………………………………………
………………
……
翌朝。
千草は目を覚まし、学校に向かう。
「おはよう」
「おはよ!」
いつも通り、昇降口で出会った友人と挨拶を交わして教室に向かう。
それなのに何かが違うと、そう感じたのは何故だろう。
自分の何かが欠けている気がする。
教室に着いた時、その違和が頂点に達した。
————"みんな"、何かが足りていない。
隣にいる、友人でさえも。
まるで、"誰かに無理矢理大事なものを抜き取られて、他人の持っているまるきり別のものと摺り替えられたような"————————……
シーツの擦れる音に目を醒ます。
あの子の笑う夢を見た。
気怠い腰と、咽せ返る汗の匂いが嫌でも現実を思い出させ、私は枕に顔を沈めた。
好きじゃないのに
ベッドに腰をかけ、服を着てコーヒーを飲んでいる彼氏が、裸のまま寝ていた私の髪を撫ぜてくる。
「……起きた?」
黒い髪を白いシーツに無造作に散りばめながら寝返った私は彼氏の顔を見上げた。
「おきた、……何時?」
「10時。帰る?」
起き上がって、こくんと頷く。
「シャワー浴びてくる」
あくびを一つして伸び上がる。腰近くまで伸びた長い髪は汗を含んで気持ち悪い。今更恥じらいなどなく裸のままで、ラブホテル特有の知らない音楽が流れる明るい部屋を進み、浴室に向かう。
彼氏はもう済ませたのだろう。「行ってらっしゃい」と言ったきり、付いてくる気配はない。
かこん、
と響く浴室のドアを閉めて、シャワーから湯を出し頭から浴びる。
心地良い。
私は彼氏のことが好きなわけではない。告白されたから付き合った。あの子の、好きな人だったから。
あの子——伊原 梨恵は私の親友だ。高校二年生の時に出会い、地元の同じ大学に進学した。そして、彼氏とは大学で出会った。軽音サークルでベースをやっているという、一つ年上の少しお調子者な彼に、梨恵は恋をした。そして彼は私に恋をしたのだ。梨恵を愛する私に。
梨恵は私の全てで、私は梨恵に愛されたかった。しかし叶わなかった、だから梨恵の愛する者に愛されることで満足する事とした。
それだけだ。
だから私は、今日も好きでもない男に抱かれ、あの子の嫉妬も何もかも、全てを手中にする。
シャワーの音が、私の体を伝って床に滴る湯が、世界を包み込む様だった。
————嗚呼。
あの子の笑顔が見たいと、ただただそう願う。
終業時間となり、身支度をして会社を出る。
今日の天気予報は朝から夜まで晴れ——の筈だった。
ザ————————……
……だったのだが、雨が降っていた。
ところにより雨
思い出せば、天気予報でそんな事を言っていた気がしないでもない。
傘は持って来ていない。頼みの綱の折り畳み傘も、別の鞄に入れた気もする。……やはり入っていなかった。
全くついていない。
今日は仕事でミスして怒られて、取り返しのつくミスではあるが、それにより持ち帰りの仕事もできた。デートの約束もあったのに、彼女は急な残業になったと連絡も来ていた。
ところにより、というより、俺に雨が降っているような気がした。自意識過剰、と誰かに言われそうだから誰にも言わないけれど。
家に帰って仕事をして、終わったら本でも読もう。
————目が覚めた。
仕事をする、しかも怒られる夢を見るなんてどうかしている。
デートは今日だ。
付けたまま寝ていたらしいテレビで天気予報がやっている。
「**地方は今日1日を通して晴れですが、夕方から夜にかけて、ところにより雨でしょう」
正夢だったのか——いいやまさか、そんなわけがない。寝ている間に聞こえた音が夢に影響すると聞いたことがある。
雨が降らない事を祈り、折り畳み傘を鞄に入れておく。
スーツに着替えて朝食を食べ、家を出る前、テレビを消そうとしたその時に見えた星座占いのラッキーアイテムは、奇しくも「折り畳み傘」だった。