「いーぃ天気だぁ! 最高のお花見日和だねっ」
溌剌とした声を放ちながら空をふり仰ぐ。見上げた雲ひとつない青空を遮るように、視界に割り込むのは淡い色の花をたっぷりと咲かせた枝。
これでもかと咲き誇った桜が、土手道の両脇をずらりと彩る。満開の桜は青空にも負けない美しさと鮮やかさで圧倒してくる様に、眩しさを感じて一度だけ瞼を強く閉じた。
チリ、チリ、とした音がその一瞬の間だけ耳に届くが、目を開けてしまえば風の音、川の流れる音、道を行く人々の賑やかさが一気に戻ってくる。
屋台で買ったものを食べる人々。飲む人々。彼らは皆思い思いに花見を楽しんでいる。画一的なまでに、お決まりのように。だがそんなことは花見を楽しむ彼女には関係ない。
待ちに待った春――桜の季節なのだから、楽しまなければ損をしてしまう。そう、久しぶりの桜なのだから。
「ねえ、すごい桜じゃない! 近くで見ると、手鞠みたいに桜が咲いてる」
垂れる枝先に触れるほど近くまで手を持っていくのも容易だった。風で揺れる枝先から頭を垂らして花を咲かせている桜は愛らしいの一言に尽きる。
ふらり、ふらり、ゆらり、ゆら――ゆら。
花びらは触れそうなほど近いのに、風の悪戯で触れられない。そもそも桜の木には触れないようにと注意書きがあちこちにあるので、これだけ近くに手を持っていくのは褒められたことではないのだが。
「ねえ、桜の花びらってどんな感触だったか覚えてる? あたしは忘れちゃったな〜」
目を細めて見上げた花。雪よりもやわらかく色づいた花びらの隙間からわずかに、ブロックノイズが走ったが空とほとんど変わらないそれは視認されない。
「こんなに天気がいいのも本当に信じられない。もうずっと快晴の空なんて見た記憶がないもんだからさぁ」
やっぱりいいもんだねえと花に伸ばしていた手を今度は空へと高く高く伸ばす。
空にはちっとも近づかない。だが不思議なことに、とても空までの距離が近く感じられていた。
どこからか、笛のように甲高い音が響く。けれど人々は気にも留めずに喧騒のままに振る舞う。
ただ彼女だけがその音に動きを止めて瞬きをする。
日常の景色のなかに響く音に驚いて手を引っ込めると、その音は途絶えた。残響の一音すら残すことなく。
「ね、今の音なんだったの? いや、なんか音したよね。ピーってさ。聞こえなかったの……?」
不安そうに振る舞う姿に気のせいだよと宥められ、幻聴だったのかと眉を下げた彼女だったが、桜の美しさを見ることで不安さを和らげることにした。
そのことに姿のない同行者は胸を撫で下ろして、彼女が美しいだけの景色を楽しむのを見守っていた。
#何気ないふり
童話や幸せな少女漫画のようにめでたしめでたしでおわる、そんな人生だったらよかったのに。
ハッピーエンドを望んでしまうことは、そんなに我儘なことなのだろうか。
ぬいぐるみを抱きしめて眠るように、ふわふわとした心地のままで終わる人生だっていいじゃないか。
どうして、好きな気持ちはずっと一緒にいることを許してくれないのか、どうにもできなかった歯痒さに喉を掻き毟りたい衝動が湧く。
乾ききった地面のようにカサカサとした感情。潤いを求めすぎて、求めすぎて、気がつけば飢え渇く人間に成っていた。
お互いに恋愛感情は確かに成立していたのに……していたはずだったのに。
「恋愛はしたいけど、それだけだって伝えたのにわかってくれないんだね――ガッカリ」
「嫌だって何度も言ったよ? ねえ、その度にわかった、ごめんって言ってたのなんだったの? ちっとも理解してくれてなかったじゃん」
「やっぱりダメなんだよ。恋愛感情に粘膜接触が付随するヒトとは、一生わかりあえないんだから。じゃあ、誰かとオシアワセニね」
「鍵、返す」
どうして、好きという感情だけで踏みとどまれる人間に生まれられなかったんだろう。
そうだったら、そういう自分だったら、ずっとずっと最後のときまで大好きなひとと一緒にいられるハッピーエンドを迎えられたかもしれなかったのに。
「ごめん……ごめん、ごめん、ごめん……四年も付き合わせちゃって、ごめんなさい……好きになっちゃって、ごめん……」
ぽつんと残った裸の鍵は冷たく銀色に光っていて、痛かった。
#ハッピーエンド
さわりとやわらかな肢体の上を這う手に、もっとと要求のために振り返るようにして見上げる。
膝の上に伏せていた頭をもたげるのは億劫と言えばそうだったけれど、深い眠りの入り口に立っていたわけではないから、すぐに目を開けることができた。
折角目を合わせてあげてるのに、数秒もするととろとろと瞼を眠そうに垂れ下がらせ始める。
それでもどうにか手だけは動かしているけれど。
あなたってすぐ眠くなるのね。
ま、あなたの寝息も心地いいからいいのだけど。
#見つめられると
馬車を降りた足で向かうのは長い付き合いの友人宅。白い手袋に覆った手でノッカーを叩くと、そう待つこともなく出迎えられた。
「ようこそ、今日を心待ちにしていたわ。わたくしのパンジーさん」
「ご機嫌よう、わたくしのビオラ」
二人のあいだだけの愛称で呼び合って、笑み交わしながら招かれる手に従って邸宅に入る。
月の第一木曜日と第四月曜日の十四時はアトホームの時間として、この邸宅での心穏やかな時間を過ごす。
ただし通されるのはドローイングルームではなく、小さな温室だ。
小さな温室はこの国には珍しい植物も植木鉢に収まって育てられている。木々や草花に囲まれた中心にティーセットが用意されたテーブルがあり、入り口のすぐ傍らに用意されたコートハンガーに帽子と上着を預けて、中央のテーブルに着く。
月にたった二回だけの彼女とのアトホームの時間。
けれどアトホームのマナーを破ったふたりきりの時間。
「今日は良い茶葉を用意できたの。香りが蜜のように甘くて、味はワインように芳醇よ。パンジーのために取っておいたの」
「楽しみだわ。ビオラのスコーンも待ち遠しかったのよ」
「わたくしも、パンジーさんとの時間が早く来てほしいと思っていたわ」
手袋を脱ぎ、テーブルに置いて彼女が用意するお茶を待つ。その間の他愛のない会話に、胸が苦しくなる。
お互いに会いたかったと言葉にしても、誰にも親しい仲だと言っても、こうして特別なアトホームを月に二回行う仲だとしても肝心な言葉は、わたくしたちの心を口にすることはない。
「さあどうぞ、パンジー」
「いただきますわ、ビオラ」
テーブルの下で靴先を触れ合わせながら、持ち上げたティーカップをゆるやかに傾ける。
とろりと甘い甘い蜜の香りが飲みながら、まるで自身の心を飲んでいるような心地になった。
甘くて、豊かなのに、絡まるのを恐れるように流れていく。
「素敵な香りと味ね。ビオラが用意してくれるお茶はいつも美味しいけれど、今日は格別だわ」
「喜んでもらえて嬉しいわ。パンジーのことを想いながら選んだのよ」
綺麗に紅を乗せた唇を持ち上げて浮かべる微笑みは、とてもとても愛らしい表情をしていて、触れ合っている靴先から熱をじわりと点されるようだった。
#My Heart
自分で選んだものなのに、他のひとが手にした別のものを見ると、途端にそちらの手のなかにあるものが欲しかった。手に入れた満足感が急速に萎む。
萎む、なんて柔らかすぎる。急に消えてしまう。
自分が欲しかったのはこっちではなくあっちだった! と天啓を得た気持ちになる。
そんなものありはしないのに。
幼い頃から何度も何度も、何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も繰り返してきた。
きょうだいの買ったお菓子のほうがいい。
きょうだいの買ってもらった服がいい。
お年玉の袋はこっちじゃなくてそっちがいい。
食べたかったのはエビフライじゃなくてそっちのハンバーグ。
ランドセルはこの色じゃなくてクラスの子が使ってる色のほうがいい。
欲しかったノートは、ペンは、筆箱は、裁縫セットは……。
こんな髪型じゃなくてあの髪型がいい。
反省するはずなのに、その気持ちの前では反省の記憶なんて吹っ飛んでしまう。
気がつけば友達なんていなくて。
付き合いのある人からは私物をあまり見せられなくなって。
陰では浮気性、横恋慕のプロ、不倫するために生まれてきたと囁かれるようになっていた。
どうして最初の欲しいで我慢できないのか、他人の手にあるものがあんなにも何十倍もの魅力を放っているのかわからない。
ほんとうは。ほんとうは――欲しいと思ったもので満足できるにんげんでいたかったのに、また誰かの隣で幸せそうにしているひとを見ると、欲しくなってしまう。
#ないものねだり