痛いと思った途端に鼻頭からその痛みが痺れるように広がっていった。痛みに呻きながら、鼻血が出てはいないか何度も確かめる。
「こらこら、図書館で居眠りは感心しませんね」
情けなく鼻の穴を押さえている姿を見られてしまった! 焦って横を見ると、整然と並ぶ椅子の背凭れに両手をついて笑っているうつくしいひとがいた。
短く整えられた黒髪が艶やかに天使の輪を作り、ルビーの左目が愉快そうに細められてこちらを見下ろしている。
ルビーの下の泣き黒子が可愛らしいような、セクシーのような相反する印象を抱かせてくるけれど、そんなことよりも恥ずかしさに身を小さくする。
指も、鼻頭を撫でるに留めて、ただ図書館でうたた寝をしてしまう自分に汗顔してしまう。
本を読む場所で居眠りなんて子供でもないのに。
ちらりとさっきのひとを見上げる。
詰襟の黒い学生服──高校生になったばかりだろうか。思春期の最中にあって、まだ身長が伸びきっていない子のように見えた。子供に居眠りを指摘され、微笑ましく注意されたことがより恥ずかしくなってしまった。
「ええっと、ごめんなさい。ここ居心地が良過ぎて、あと疲れてたのかもしれなくて、その、えっと……すみません。帰りますね」
赤の他人に全く言う必要のないことをぺらぺらと並べ立ててしまったけれど、動転している状況では言葉も上手く組み立てられず。
恥の上塗りを感じて、急いで机の上に何冊も重なる本を棚に戻そうと立ち上がると。
「あゝどこに帰るんですか。駄目ですよ、貴方の仕事は終わっていませんよ。もっと本を読んでくださいよ、大丈夫。鼻の痛みだってもう無いでしょう」
立ち上がった両肩を上から押さえつけられ、椅子に戻される。ガクンと沈んだ膝、座面にぶつかった尻がジンと痛んだのは一瞬。
微笑みながら圧倒的な空気で有無を言わせない。少年を見上げて意を唱えることもできないことに、何故という困惑を覚えた。
ルビーの左目が、じぃっと見下ろしている。まるで見張るみたいな眼差しにゾッとする。
「進捗はいかがですか?」
身震いしていると、軽やかな、甘い声がふたりの間に割ってくるように響いた。
どぅっと背筋に脂汗が浮かぶ。
「すこし居眠りをしていたけれど、進捗は良いですよ。ノベルスカヤも本の選び甲斐があるでしょう」
「そうですね。ふふ、今度のひとはちゃんと──ずぅっと本を読んでくれてるので嬉しいなあ」
心臓が恐ろしいまでに早鐘を打っている。ふたりの会話すらその律動に掻き消されて、耳に入らない。
「はい。新しい本をお持ちしたので、こちらもどうぞ。時間はたっぷりあるので、じっくりさいごまで読んでくださいね」
ふわふわとゆるやかに波打つ金髪が視界に入り、ガタガタと震える腕で読みかけだった本に手を伸ばす。そうしないといけないと本能が叫んでいる。
「ありがとうございます。ぜんぶよみますね」
「嬉しいなあ。いっぱい選んで来ますね」
「全部読み終わったら、ここから出られるので、頑張ってくださいね」
「はい。ぜんぶよみます」
わあいとはしゃぐ声は甲高い悪魔の笑い声みたいに耳奥にこびりついた。
#鳥かご
あなたの手紙を待っています。
起きてすぐ、手紙はまだかなと確認しています。
ご飯を食べながら、いつ手紙が届くのかとそわそわしています。
仕事の最中も、不意に手紙の内容を勝手に想像してしまっていた。
一通目の手紙。
やっと届いた連絡。
あなたからの知らせに短くても嬉しくなっていました。
二通目の手紙。
あなたが前に進んでるのを感じます。
自分もそれには負けていられないなと気持ちを新たにしました。
三通目の手紙。
……ほんとうは、早くあなたに会いたいです。
あなたはこの手紙を送るまでに、ここに記せなかった経験をどれほど積んでいるでしょうか。
薄い紙一枚。
そこに記された文字の行間にはどれほどの感情が含まれているのか考えてしまう。
早く、あなたに会いたいです。わたしの神様にお帰りなさいと早く伝えたい。
#神様へ
約束を――したはずだった。
でもその約束が思い出せない。
なんだっけ、なんだっけ、なんだっけ、なんだっけ。
すごくすごくすごく大事な約束だったはずなのに、だれとなんの約束をしたのか思い出せない。
歯痒い。
胸の奥が、腹の底からざわざわと虫が騒ぐような不安と焦燥にひりひりと焼かれるように穏やかならざる状態をずっと続けている。
だれかに誓ったはずだった。
なにかを誓ったはずだった。
それはどんな想いだった――?
#これからも、ずっと
心も身体も凍りつくように固まっていく瞬間に安堵を抱く。
よかった――心からそう思う。
だから笑っていられる。
おれってば、こんなにしあわせなんだと、表情で伝えられるのが幸運だ。
「な――んで、わら……」
だってさ、おれほんとうに嬉しいんだよ。
きみをだいすきな気持ち、変わらずにずっと持ち続けられるから。
きみの目に宿る呪いは、悪いことばかりじゃないよ。だっておれも、ほんとうは怖かったんだから。
きみのことをだいすきで、あいしてる。そう思ってる今の気持ちが、いつか変わってしまうかもしれないという恐怖がつきまとっていた。
だからきみがあんなに嫌がっても、無理矢理に呪い封じの目隠しをずらしてしまった。
傷つけたよな、きっと。そのことはごめん。
でもこれでおれはずっとずっときみをだいすきでいられる。
――よわいおれでごめん、石になってもきみのことはずっとすきだよ。
#君の目を見つめると
黒の上に深い藍を何度も塗り重ねた空に煌めく無数のまたたきを遠い天蓋にして手を繋ぐふたり。
「待っていてくれる?」
願うように繋いだ手に力をこめる。
応えるように握り返してくる力に、安堵がにじむように広がっていった。
「待てるあいだは、待ってる。待てなくなったら、ごめんね」
「おてんばさんをあまり長く待たせないようにするね」
「えぇ? 別にちょっと長くなっても平気だからね。ちょっと外に出るだけだから」
「いーや、それを聞いたら頑張って急がないとって気持ちになった。……がんばってくる、から」
「うん。いってらっしゃい。待ってるよ」
軽口を交わしても、それでも最後には怖気付く気持ちが顔を出す。
そんな弱い気持ちを見透かすように、やさしい声が送り出す言葉を紡いでいた。
#星空の下で