《麦わら帽子》
夏の晴れた空の下。
一面のグラジオラスが色とりどりの花を連ならせ、その緑の葉を勝者の剣の如く天へと掲げている。
そこに見える、麦わら帽子。
ブリムは広く、強過ぎる日差しから持ち主である少女の華奢な肩をも守っている。
麦わら帽子の下から伸びる豊かな白銀の髪は、細い腰に届かんばかりの長さでふわふわと風に踊る。
少女は片手に桃色のグラジオラスの束を抱え、もう片方の手は風に煽られぬよう麦わら帽子に手を添え、薄黄色のチェック柄のワンピースを風に揺らめかせながら濃い青の空を眺めていた。
真正面から、風が吹き抜ける。
ブリムの広い麦わら帽子はその風をまともに受け、空高く飛び立たんばかり。
ふわり、浮いた帽子に少女は慌てて手を伸ばす。
しかし、帽子は飛ぶことは叶わなかった。
後ろからそっと上から添えられた温もりに、その飛行は遮られる。
ハッと少女が振り向けば、そこには少女の麦わら帽子に手を添えた赤髪の青年が、優しい笑みを湛えていた。
目を合わせた少女もまた満面の笑みで答え、青年にそっと桃色のグラジオラスを手渡した。
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桃色のグラジオラスの花言葉「たゆまぬ努力」「ひたむきな愛」「満足」
《終点》
運命とは時に些細な切っ掛けから流れを変え、思わぬところへ世界を辿り着かせる。
それは、ほんの少し昔のこと。
ある美しい若者は、恋をしていた。
相手は、若者の上役。仕事はよく出来、人を見る目があり平和を愛し、何より美しいものが大好きだった。
二人は想いを通わせて、若者は職務中も上役の傍に置かれ、その仕事の補佐をしていた。
上役は、平和のために国の頂に立ちたいと願っていた。
若者は、そんな愛する上役の役に立ちたいと誠心誠意尽くした。
上役の必要を先読みし、環境を心地好く整える。その部下も手厚く遇し、上役の頼みが叶えられるよう手助けをする。
そして上役が心に住まう伝説の不思議な存在と対話するなら、その場を離れ静かに集中出来る環境を保つ。
若者は、心の底から上役を愛し、信じていた。
その絆は遠い未来、互いの命が果てるまで穏やかに続くものと。
ところが、それは突然終わりを告げた。
気持ちのすれ違い、などではなかった。
上役が自らの野望を遂げ国を掌握しようかというその時、若者に言い放ったのだ。
お前は、もう用済みだ。
これから醜く老いてゆくだけのお前を、傍に置いておくつもりはない、と。
そう。上役の全てが嘘だったのだ。
他者を思いやり、平和を愛する心も。
伝説の不思議な存在が心にいることも。
若者を、心から愛しているということも。
全てが嘘で塗り固められていた。
若者の想いは踏み躙られ、粉々に砕け散った。
上役への愛が全てであった若者の心は、ぽっかりと空洞が開いた。
希望の光一つない、漆黒の空洞が。
何故こんなことになったのか。何がいけなかったのか。
自分が若く老いぬ身であれば、捨てられることはなかったのか。
自分は今、何処へ向かえばいいのか。
漆黒の中では、その答えを探す事すら叶わなかった。
後に上役はある者らに討ち取られ、悪しきとは言え国はその頂に立つ者を失った。
その時、若者に声が掛かった。
次の皇帝はあなたしかいない、と。
若者は、思った。
自分を嘲笑ったかの人が求めてやまなかった全てを、この手に納めよう。
そう。若く老いぬ美しささえも。
そのためなら、どんな手段も厭わない。
己の辿り着くべき先は、ここにあったのだ。
若者の心の漆黒は、闇に見出された。
古の封印より自らの復活を企てる、悍ましい闇に。
長きに渡る孤独と苦痛を晴らさんとする、闇に染まりし悲しき神々の意思に。
その少し未来となった今。
その皇帝も、肥大した自らの闇と共に葬られた。
少女は、祈る。
その魂に、救いがありますように。
闇が晴れ、自らの行いを正しく省みることで真に報われ、次の幸福な生へと辿り着けますように。
《上手くいかなくたっていい》
今日も空は青く、白い入道雲は天頂まで達するかの勢いでその高さを伸ばしている。
いつもと違うのは、風の強さだろう。普段と比べるとまあまあの風力で、木々の枝葉を大きくさざめかせている。
書類も一通り片付き、座りっぱなしで凝った背中を伸ばす。
流れで首を回していると、窓の向こうで彼女が庭の木の上をしげしげと眺めている。気分転換だろうか。
彼女の視線は大きな枝の辺り、大体高さとしては彼女が手を伸ばして更に上にある位の所だ。
ちょうど窓からはみ出す位置なので何があるのかは分からないが、余程興味を惹かれる物があるのか、少しずつ移動をしながら同じ地点を観察している。
何を見ていたのか、後程お茶を飲みながらゆっくりと話を聞こう。きっと楽しい物に違いない。
そんな事を考えていると、やにわに彼女がその地点を見つめながら背後へ歩を進めた。そのまま視線とは反対側の窓の死角へ姿を消した。
何があったのか?
疑問を抱いた瞬間、彼女が猛ダッシュで視界に飛び込み、跳躍して木の枝に右手を伸ばした。
跳躍の頂点で彼女の手はしっかりと枝を握り、その身体が枝にぶら下がる形になっている。
続いて左手を振り子のように大きく振るうと、枝の大きな所を伝って更に上の枝へと進んでいく。
「はぁっ?!」
突然の事に、変な声が出た。何をしているのか、あの人は。
僕は慌てて立ち上がり、大急ぎで庭の木へ走った。
落ちたりしたら、枝が折れたりしたら。着地を誤ったら。
件の木に辿り着けば、彼女は左手をワンピースのポケットに入れながら頭上の枝の端寄りにぶら下がっていた。その高さは彼女よりも頭一つは身長のある僕がようやく手が届くかどうかの所だった。
左手を空けたところで、彼女の体重が地上に向かうのが分かった。その顔、その視線が次の枝へと向いているのが分かっていても、僕の胃は鷲掴みにされるような気分だった。
「危ない!」
僕は彼女の真下に走り込み、その腰を自分の肩近くで受け止める。
見上げた視線の上にある顔は、驚愕に満ちていた。
「ぅわーー!! びっくりした!!」
僕の頭上で、彼女が顔を真っ赤にさせて叫ぶ。解せぬ。
「いや、びっくりしたのはこちらですよ! 何でこんな危ない事をしてるんですか!」
気も動転して自分も声を張り上げてしまうと、彼女が困ったように早口で言い訳を始めた。
「あ、あの、少しだけ寝室の換気をしようと思ったら、風でこれが飛ばされて枝に引っかかってしまって…。さほどの高さでもないし、上手く行かなくても着地は出来そうだしいいかなって…。」
と、先程左手を入れていたポケットから何かを取り出した。
それは、女性物のシンプルな木綿のハンカチだった。
「この間せっかく買ってもらったので、無くしたくなかったんです…。」
彼女はハンカチを握った手を胸元に寄せ、しょんぼりした顔で呟いた。
確かにこれを買い与えたが、日用品としてだ。どこにだって売っているような、そんな程度の物だ。
その位の物を、それはそれは大事そうに。
彼女を抱き止めた腕に、知らず力が籠もる。
流れ行く、一陣の風。さざめく木の葉。
「それくらいならいくらでもあげますから、もうこんな危ない真似は止して下さい。」
そうして彼女を見つめれば、耳まで赤くなった彼女が眦を下げて囁いた。
「はい…ごめんなさい…。」
今回の『ごめんなさい』は、正当だろう。
このチャレンジ精神は、もはや発揮させてほしくない。
ホッとして鷲掴みにされた胃が解放された僕は、やっと表情を緩める事が出来た。
「本当に貴女が無事でよかった。」
頭上の貴女を見つめて、呟いた。
また、風が吹く。木の笑い声が聞こえるようだ。
そのまま僕は家に戻ろうと歩き出す。
今はいわゆる縦抱っこ。先程樹上から彼女を支えた体勢そのままの状態だ。
「あの、自分で歩きますから降ろしてもらえますか?」
ふむ。それはそう。
だけど。
「今の子供のような状態が恥ずかしいなら、あんな無茶は二度としないことですね。」
少しは懲りてもらわないと困る。
仮にも鍛えている身。この位なら何でもない。
彼女の訴えを却下して歩き続ければ、消え入りそうな声がした。
「そうじゃないですよ…。」
《蝶よ花よ》
あの少女を闇に魅入られし者として監視を始めてから、それなりの期間が経った。
そこで、彼女の人物像を整理してみようとその行動を呼び起こしてみる。
普段は、主に読書をしている。内容は過去の帝国の記録から、他国の叙事詩や伝説、果ては図鑑や幻想物語、絵本まで多岐に渡る。
基本的に好きだから読んでいるのだろうが、それなりに教育を受けてはいると推察される。
僕の執務が一段落している時などは、歌を口ずさんだりもしている。
美しいが、聞いたこともないメロディに全く知識にない言語の物もあった。どこの歌なのか聞いても、はぐらかされてしまう。
話すことも好きなようで、話しかけると笑顔で受け答えをする。
時折出てくる何気ない話題も、交わしていて心が休まる事が多い。微笑みを絶やさずにいるのも大きいだろう。
ここまでの印象ならば、多少の疑問はあれど彼女は蝶よ花よと大事に育てられたかにも感じられる。
しかし、だ。
飼い主以外に心を開いていない余所の猫に対し、爪を立てられても変わらず愛情を示し、抱き止めようとさえする。
集団でいじめを行う女性達に、味方もいない単独の状態で正論を堂々と言い返す。
あまつさえ、彼女を使い僕を脅そうとした相手を、自分を餌に取り押さえようと言い出し作戦を立て、実行してしまう。
このような、時折垣間見せる突拍子も無い行動に度肝を抜かれる事もあった。
この一連の出来事で、彼女への蝶よ花よの印象は完全に霧散…いや、四散した。
何と言うか、自分の身を顧みない無茶をするタイプのようだ。見ていて非常に危なっかしい。
そんな人だが、彼女の口癖は「すみません」「ごめんなさい」だ。
ほんの少しの事を頼む時ですら、この口癖が出るくらいだ。無意識の負い目が出ているのだろうか。
…それとも、語られぬ本人の人生がそうさせているのか。
何にしても、彼女の本質は今ひとつ掴み切れていない。
が、思案を整理すればするほど強く蘇る。
帝国に来て間も無い満月の夜、耳にした彼女の独白。
僕に、命を預けると。
裁かれるなら、僕に引き金を引いてほしいと。
それには儚げな雰囲気と共に、彼女の強い覚悟が感じ取れた。
そして、彼女と初めて出会ったあの時。僕はかつての旅の仲間と言い争った。
仲間は彼女を、自分の心に住み共に旅をした者だと紹介した。
だが、僕は彼女の髪と瞳の色を見て強い疑念を抱いた。それは、闇に魅入られし者の色ではないのかと。
その疑念を切っ掛けに始まった仲間との口論に終止符を打ったのは、僕と仲間の間に割って入った彼女だった。
彼女は腕を精一杯に広げ、小さな背を僕に向け、仲間から僕を守っていた。
彼女に疑念を向けた僕を、だ。
その時の彼女の表情は見えなかったが、背を向けたまま「…いいの。」と呟いた彼女を見ていた仲間の顔は、愁傷に満ちていた。
それも含めて今思えば、彼女の行動はとても演技などとは思えない。
僕は、信じたくなっているのか。
彼女の行動が、全て本心からであると。
…僕も随分と緩んだものだ。
今、世界は邪神による災厄からの復興に明け暮れている。
邪神を倒す旅に参加していた僕は帝国の復興を導く者として持ち上げられ、今も我武者羅に奔走している。
それを妨げられるわけにはいかない。僕の判断に左右されるならば、尚更だ。
もしも彼女が本当に闇に魅入られし者ならば、僕自身が潔く引き金を引こう。
その時涙と悲しみが溢れたならば、それも潔く飲み込もう。
これが僕の現在の判断への、責任と覚悟だと肝に銘じて。
《最初から決まってた》
外は多少弱まる気配が出て来たけれど、まだまだ日差しも強い。
それから逃れるように、彼とリビングで冷たい飲み物で一息ついていた。
そんな時、私はふと「しりとりしません?」と言ってみた。
何となく、してみたくなったから。
彼はほんの一瞬、きょとんとしたように私の顔を見ていたけれど、「いいですよ。」とにこやかに受けてくれた。
始まったしりとりは、結構順調に進んだ。
我ながら、なかなかいい勝負が出来てると思う。
彼も初めのにこやかな表情を崩すことなく、自分の番が来ると間を置かず淡々と単語を口にしていく。
やっぱり、頭いいんだよね。
そして、15分ほど経った今。
次は、彼の番。
ストレートのアイスティーを一口飲んだ彼は、スッと言葉を上げていく。
「単刀直入」
うん、行ける。
私もアイスミルクティーを飲んで、答える。
「腕っぷし」
彼は更にテンポを上げるように、答えを紡ぎ始めた。
それには全く淀みがない。
「四方八方」
ま、まだまだこのくらいなら。
少し答えを浮かべるの遅くなってるけど、大丈夫。
「う…丑三つ刻!」
「危言危行」
え? また『う』?
「うぅ…うしかい座…」
「残酷非道」
「………ぅ」
う…うー!
気が付けば、彼の口から出る言葉は『う』で終わる物ばかり。
あれ? もしかして手っ取り早く潰しに掛かられてる?
脳をフル回転させて『う』から始まる単語を探そうにも、もう他は出し尽くして品切れ状態。
沸騰しそうな頭から残りの言葉が転がり出て来ないかなとぶんぶんと頭を振っても、何も出てくるはずもなく。
考えすぎて眉間に寄せた皺が取れないままちらりと彼の顔に目を向ければ、一見すると平静な余裕の表情。
でも、違う!平静じゃない!
余裕の微笑みに見えるけど、奥歯で笑いを噛み殺してる!
く、悔しい。悔しすぎる。
でも、その普段とは微かに違う表情を捉えられたことが嬉しくて。それも、悔しい。
まあ、これも当然。
そもそも彼は、代々皇帝に仕えてきた一族の人。その教育水準はもちろんかなりの物。
そして彼自身の真面目で努力家なところが、そのレベルを更に引き上げている。
最初から、勝負は決まっていた。
私、何でしりとりしたいとか言い出したんだろう…。
テーブルに置いたアイスティーも、かなりの汗をかいている。
私はほんの少しだけ眉間の皺を取り、小さく溜め息を吐いて両手を上げた。
「降参です。」
彼は、表情を変えることなく勝負の終わりを告げた。
「いい勝負でしたね。お疲れさまでした。貴女の集中力も切れ始めたみたいなので、ちょうど頃合いでしょう。」
そこまで見抜かれてた。だから、最後の『う』止まり攻撃だったのか。もう、ホント悔しい。
そして。…まだ我慢してる。
私は半分目を座らせて、今だ笑いを噛み殺してるような彼に言った。
「…いっそ笑ってください。我慢してるの分かってますから。」
しりとりの負けどころか、もう何度も貴方に負けている。
その悔しさからちょっとだけ拗ねた口調になってしまった。
すると、彼の余裕の表情は崩れ、眉尻が困ったように垂れ下がり、細めた目元はふわりと柔らかくなった。
そしてついと視線を私から逸らせ、緩めた頬を赤らめた。
その照れたような表情に私の視線は捕らえられ、胸が締め付けられる。
「えっと、すみません。悪気はないのですが、その、」
逸らせていた彼の視線が、一瞬だけ私へ向いた。
「一生懸命悩んで考えている表情が微笑ましくて、顔が緩みそうになるのを抑えていました…」
最後の方は尻すぼみになった、彼の声。
貴女は真剣だったので、悪いとは思いつつも意地の悪い言葉選びをしてしまいました、と囁くような言葉。
そんな事、思っててくれてたの?
あの我慢には、そんな意味があったの?
貴方の笑みに、言葉に、私は完全に不意を突かれた。
顔中が、熱い。夏の熱気なんて、目じゃないくらい。
絶対、今の私、顔が真っ赤だ。
グラスの中のアイスティーの氷が半分溶けて、カランと涼やかな音を立てた。
それに。意地の悪い、なんて言ってるけど。
気が付けば、あの連続攻撃の時、彼は自分に四字熟語縛りを課していた。
真剣に手を抜くことなく、それでも私とのハンディキャップを上手に埋めてくれていた。
もう、全部。何もかも勝てない。
多分、いつになっても。いつまでも。
「勘弁してください…本当に負けましたから…。」
彼の顔を直視できなくなった私は、赤くなった顔を見られないように両手で自分の顔を包み込み、俯きながら呟いた。