《太陽》
ある晴れた夏の日の事。
「暑い…暑過ぎるのよ…」
彼女が、溶けていた。
確かに、今日は暑さが殊更厳しい。空調を動かしていても効き目が薄い。
その熱は、黄金色の金属で出来ている帝都の空気を焼け付くような暑さに変えていた。
彼女はレースのカーテン越しに窓から差してくる太陽の光を恨みがましい目で見ながら、呟いていた。
「燃やすのは心だけでいいのに…何故にそこまで燃える…」
「大げさ…とも言い切れませんね…。」
僕もそれに合わせて、読んでいる本から窓へと視線を変えた。
彼女の言葉通り、窓の外には燃え盛る太陽が自らの存在を主張するかのように頭上に昇り詰めている。
その強い主張は、レースのカーテンなどでは到底止める事など出来はしない。
身体に滲む汗も、熱発散の働きよりもむしろ暑さを助長するように感じられる。
「太陽が私を殺しに来てる…お前に私の生殺与奪の権利は渡さないぞ太陽…」
彼女の発言内容が不穏になってきている。これは、限界が近そうだ。
ならば、と僕は読んでいる本を閉じて彼女に提案してみた。
「では、気分転換にかき氷でも食べに行きますか?」
すると、生気を失っていた彼女の目に途端に光が蘇った。
「行く! 行きます!!」
先程までの溶け具合から一転、音がするかのようにシャキッと立ち上がると、
「早速準備してきますね!」
と言い残し、大層晴れやかな顔でリビングを出ていった。
僕はと言えばそんな彼女の様子が楽しくて、面白くて、ついくつくつと笑っていた。
暑過ぎる太陽が、こんな幸せを運んでくるとは。
僕はその喜びを噛み締めながら、身支度のためにと自室に向かった。
《鐘の音》
鎮魂の鐘は、去り行く魂への永遠の別れと生者の悲しみの昇華のため。
祝福の鐘は、これから永遠の道のりを共に歩む二人の喜びのため。
時の鐘は、永遠に続く時間に区切りを付けて良き一年、良き一日をを過ごすため。
全ての鐘は、心を新たに切り替える音を地上に響き渡らせる。
まもなく太陽が高みまで上り詰めようかという時刻に、私は半分寝てるような意識の中ベッドで体勢を仰向けに直した。
そのまま天井へ向かってまっすぐ両腕を伸ばして手を組んで、身体を伸ばして左右に曲げる。パキッ、ポキッ。これは凝ってるなぁ。
それもそうか、熱を出した彼の看病していた時にずっと彼のベッド横で座って見てたんだもんね。
…ん? そういえば、何で自分のベッドで寝てたんだろう?
よく考えてみれば、自分の部屋に戻った記憶がそもそもない。
軽い上半身ストレッチで覚めてきた頭の中で、何とか記憶を反芻してみる。
記憶がはっきりしてるところ。…今思い出しても嬉しさで心臓が破裂しそうになる。
高熱に浮かされた彼が私の手を取って、『傍にいて』と言ってくれた。
その後、彼がそのまま眠った後に手を離そうとしたけれど、なかなか離れない。ギュッと力を入れ直される。
これは起こさないようにする方がよさそうだな、と握られた手はそのままにベッド脇の床に腰を降ろした。
私は、彼に自分の存在を求められるような言葉が聞けた喜びに浮かれていた。
熱で大変な彼には本当に申し訳ないけど、何だか甘えられてるようで、可愛いな。
なんて、握られた手と一緒にベッドに頬を付けていたところまでははっきりと覚えてる。
その後の記憶が朧気だけど。
何とか記憶を掘り出してみる。
過った記憶は、明け切らぬほんのりとした日差しの中。廊下、だと思う。ほんの少しの間の…夢?
身体に軽く伝わる振動。シャツの下から伝わる熱くはない、暖かく逞しい腕と胸板。
少し下から見上げるような角度で見える、彼の顔。その向こうで、動いていく天井や壁。
あ、あれ? これ、私抱き上げて運ばれてる? 夢じゃなくて?
病み上がりの彼に何させてるの、私? というか彼はちゃんと病み上がったの? 大丈夫なの?
自分の記憶の衝撃に軽い混乱を来した脳の中、間もなくまた次の記憶が蘇る。
明け方に夢を見たのを覚えてる。
私の混乱のせいで彼に謝らせた事が申し訳なくて。
それでも傍にいたいと言ってくれた事が嬉しくて。
私にとって貴方との日常は、手放したくない大事なものだから。
ごめんなさい。私の方こそ、傍にいさせてほしい。
そう祈り、誓う夢を。
…思い出した。私、一度ぼんやりだけど目を覚ましてる。
私はギュッと両手でタオルケットを握りしめる。
ベッドの中で、私は半覚醒状態だった。
その脇から顔を覗き込ませていた彼は、私のこめかみ辺りを髪を梳くように撫でていて。
彼の手付きは、恭しく柔らかで。
彼の笑顔は、上等のシロップが朝日に煌めいてるようで。
そうして確か彼は、私にこう言っていた。
『本当にありがとう。貴女の心の内が聞けて、最高の気分です。』
私は掘り出した記憶のあまりの大きさに、ガバっと起き上がる。
信じ難い情報でパンクしそうな脳を抑え込むように、胸にタオルケットを掻き抱く。
彼の手と笑顔の優しさ、甘さ、柔らかさ。泣きたくなるような幸福感。
それに心から喜び酔いしれる一方で、もう片方がフル回転で情報を整理している。
…あの時は、頭が働いていなかった。
何せ、その後彼に『まだ眠いでしょう。僕はもう回復したから、貴女もゆっくり休んで下さい。』と言われ、何も考えられずに眠りに付いたくらいだから。
寝室に運んでくれた彼のおかげで、徹夜から看病のコンボでもこうしてすっきり目覚められているけれど、これは…まさかの展開過ぎて。
そして、彼の言葉の意味について考える。
貴女の心の内、とは…? 誓いの言葉は、本当に夢の中だけの物…?
あり得ない、とは言い切れない可能性に至りそうになった心は、キュッと引き締まる。
その直後、寝室のドアがコンコンと鳴る。
返事をすると、廊下から彼の声が。
「よかった、起きていますか。よければ軽く食事でもどうですか?」
声から察するに非常に上機嫌で、昨日の発熱の気配は全く感じられない。
ひとまず無事に熱が治まってホッとすると同時に、その快い声に擽られた耳は、胸の鼓動を否が応にも速くする。
着替えたら行くと伝えれば、遠くから鳴り響く、正午を告げる鐘の音。
私は、いつもどおりの私でいられるのかな。
昨夜までの自分の弱さと混乱。
熱に浮かされた彼の言葉。
今朝の夢の祈りの行方。
胸に残る、最高の気分という彼の言葉。
この濃密な数日間の全てを吸い込むように、深呼吸する。
これらは全て、私のものだ。大丈夫。信じて、いこう。
いつもどおりの日常。それでも私の中で以前からもあった誓いは、より強いものに変わった。
鳴り終えた鐘の音が、微かに耳に広がる。
それがどんな道でも構わない。気持ちも新たに切り替えて、また彼の隣を歩いていこう。
《つまらないことでも》
彼が熱を出して倒れた。
その前の日、私は自分のつまらない混乱で彼を困らせてしまった。
私を大切にしたいなんて、言われると思わなかったから。
今まで礼儀正しく扱ってくれたのだって、真面目な彼の義務感からだと思っていたから。
だから、素直に受け取れなかった。
そのせいで、彼に謝らせてしまった。
混乱から一晩泣き明かしていた私を待ち続けたせいで、彼に負担を掛けてしまった。
熱に浮かされながらも、彼は看病をしている私に謝っていた。
ごめんなさい、と。
看病するのなんて、当たり前なのに。
謝らないといけないのは、私の方なのに。
その上、置いて行かないで、と私の手を取って言った。
傍にいて。そう言ってくれた。
そんなの、答えは決まってる。
毎朝のおはよう、毎晩のおやすみ。
同じ食卓に着いて、同じご飯を食べる。
毎日一緒に歩きながら、何てことのないおしゃべりをする。
読んだ本の感想を言い合ったり、時にはどこかでお茶を飲んだり。
他の人達には何気ないことかもしれない。つまらない日常かもしれない。
それでもあなたと送る日常は、私にとっては何物にも代えがたい大切なものだから。
私の方こそ、困らせてごめんなさい。
謝らせてごめんなさい。
私の方こそ、あなたの傍にいさせてほしい。
あなたが望んでくれるなら、一千年の時を超えても。
私はずっと、あなたのことが…。
==========
鳥の声が聞こえる。
ぼんやりした意識の中、瞼の上から朝日が差し込むのを感じる。
耳の上側に雫が降りて、自分が仰向けに眠りながら涙を流しているのに気付いた。
いつの間に私はベッドに戻っていたんだろう。
彼の熱は引いたのかな。大丈夫かな。
すると、その涙の雫を拭うようにするりと眦に誰かの指が触れる。
そしてそのまま、髪を梳くように頭を撫でられる。
その手付きは、凄く優しくて心地好くて。
それがとても嬉しくて目を細めると、瞼に残っていた涙がまた一粒零れた。
うまく目覚めない意識の中ゆるりと頭を横に向け目を開くと、そこにはすっかり熱が引いたのか顔色も良くなっている彼が、心底嬉しそうな表情で微笑んでいた。
《目が覚めるまでに》
僕は、夢を見ていた。
どこまでも暗い闇の中、僕は当て所もなく彷徨っていた。
ここは暗い。何も見えない。寒い。苦しい。誰もいない。
寂しい。ただひたすら、寂しい。
どうしようもない孤独感に苛まれながらせめて明かりはないものかと歩き続けていると、周囲は徐々に赤い光に包まれ、同時に燃えるように暑くなっていった。
もはや熱いと言っても過言ではない中、それでも歩を進めていると、遠くに彼女が現れた。
僕は彼女に出会えた喜びから、一目散に彼女に駆け寄った。
彼女の白に近い銀の髪が周囲の光に照らされて、赤く輝いている。
腫れて赤くなっている目元。ずっと泣いていたのだろう。
僕が、泣かせてしまった。
想いはどうあれ、勢いに任せてしまった言葉で。
それなのに僕と目が合った彼女は、気丈にもふわりと微笑み、小さな白い手で僕の頬にそっと触れてくれた。
その掌は微かにひんやりとして、空気の熱さを和らげてくれるような優しさで。
微笑みは、陽炎のように儚げで。
怖くなった。
このまま、貴女が消えてしまうのではないかと。いなくなってしまうのではないかと。
僕は咄嗟に、頬に触れている彼女の手に自分の手を重ねるように置き、そっと力を込めた。
そして、泣き腫らした目を見つめて懇願した。
「行かないで…。お願いだから、僕を置いて行かないで。僕の傍にいて…」
分かっている。これは、僕の我儘だ。
貴女が闇に魅入られし者だと疑いを掛けたのは、僕なのに。
その監視の為に隣にいる事を強制し、今もそれを解かずにいる。
嫌われて当然だ。疎まれて当たり前だ。
なのに、貴女はいつも隣で笑ってくれていた。心の底から嬉しそうに。
そして時には突拍子も無い行動で僕を驚かせ、笑顔にさせてくれた。
気が付けば、離れたくないと駄々を捏ねている子供のような行動だ。
それでも貴女に離れてほしくないと、その優しさに縋った。
すると、透き通るような明瞭な声が僕の耳に届いた。
「離れたりしません。傍にいます。ずっと。」
全てを包み込むような、柔らかい笑顔。
そこに嘘は無いと確信出来る、真っ直ぐな眼差し。
ああ。この人は、本心から言ってくれている。
喜びが心に染み渡り、全身を巡るようだ。
それは、澄み切った清らかな水が喉を通ったかと錯覚させる程に。
僕は心を支配していた不安から解放され、彼女の心に包まれた安堵感の中で幸せに微笑んだ。
熱かった空気も清められたかのように程良く冷めていき、辺りは赤から柔らかなランプの光へと色を変えた。
ぼんやりと未だ覚醒せぬ意識の中、頬に触れている小さな手の感触に思う。
僕を守ってくれて、ありがとう。
目が覚めるまでに、貴女を守れるように必ず心を構えておきますから。
《病室》
昨日夕方、彼に私を大切にしたいと言われた。
私はその言葉への心からの歓喜と、今自分が闇の者として疑われている状況から誤解ではないかと湧き出る不安でぐちゃぐちゃになって、彼の前から逃げ出して部屋で一晩泣き明かしていた。
それでも涙を流しきって、心の澱も全てとは言えないけれど流れ去った。
気が付けばカーテンからは夜明けの光が差し込み、小鳥達の声が聞こえてきた。
大丈夫。昨日何も言わずに走り去った無礼を謝って。またいつものように彼と毎日を過ごそう。
まずは腫れた目を冷やしがてら顔を洗おうかと廊下を歩いていると、バン!と凄い勢いで彼の部屋の扉が開いた。
驚いて立ち止まると、その勢いのままに彼がよろめきながら部屋から出てきた。
私は腫れた目を見られないように両手で目元を隠しながら彼を見た。
眉間に寄りながらも下っている細い眉。その下の目は見開かれ、目尻と頬は赤く染まっている。
さあ、言おう。
おはようございます。昨日は突然走り去ってしまって本当にごめんなさい。と。
そう口を開こうとした時。
身体のバランスを崩しながら彼が私の両肩に手を置き、俯きながら呟いた。
「よかった…。」
私はまた、目に涙が溜まるのを感じた。
不安にさせちゃったのかな。もしかして、心配してくれたのかな。
両肩から彼の熱が伝わる。
ん?
ふとそこで、まさかと思った刹那。
彼が私に覆いかぶさるように上半身を傾けた。
「っ…わ!」
よろけながらも何とか自分の背中を壁へ付けるように持っていき、彼の身体を支える。
その身体に触れて、まさかが確信になった。
「ちょっと! 凄い熱じゃない!」
こんな体調でずっと私が部屋から出てくるのを待っていたの?
どうしてこんな無理をするの?
心配から語気が荒くなった私の顔を見て力なく微笑んだ彼を、私は何とか支えつつ彼の部屋に誘導した。
==========
寝室に寝かせた彼をお医者様に診ていただいたところ、熱は高いが汗は出ているし他に異常はないので、しばらく寝ていれば治まるそうで。
ひとまずホッとした私は、看病のために今は病室となっている彼の部屋で過ごしていた。
額の濡れタオルが温くなったら取り替え、せめて首元だけでもと汗を拭う。
手が空くと昨日の事が頭を掠めるけれど、彼の体調を考えるととてもそれどころではない。
そうして夜も近くなった頃。
「…ここは…?」
小さく掠れた声が耳に届いた。どうやら彼が目覚めたみたい。
「あなたの寝室です。今朝、熱を出して倒れたんですよ。」
彼の目が覚めた事に安堵して、答える。
替えの濡れタオルと水差しを手にしながら枕元に置いた椅子に座り、彼の顔を見る。
その目は完全には開いてなくて、まだぼんやりとした様子。
「そうか…ごめんなさい…。」
小さく謝る彼。悪いのは、私なのに。
今日、私が通りかかると同時に飛び出してきた彼。
昨日急に泣き出し走り去った私を、彼はずっと待っていてくれたのかも。
そんな負担を掛けたのは私なのに、謝ってくれる。
だから、もう負担にならないように努めて明るい声で私は言った。
「謝らないでください。それよりゆっくり眠って、早く良くなってくださいね。」
起きているうちにと水差しから水を飲ませ、額の濡れタオルを替える。
顔の赤みは、今朝に比べれば少し引いてきてる。
「すみません、熱を診ますね。」
それでも一応と、体温を大まかに知るために彼の首元に手のひらを当てる。
よかった。少しだけど熱は引いてる。
すると彼が寝返りを打ち身体をこちらに向け、首元の私の手のひらをそっと自分の手で包み込み、彼の頬に誘導した。
ぱさりと落ちる、彼の額の濡れタオル。
その突然の事に、私の胸が煩く鳴り響く。その鼓動が、胸から全身へ熱を伝える。彼の熱の高さが分からなくなるくらいに。
そうして、彼は呟いた。
「行かないで…。お願いだから、僕を置いて行かないで。僕の傍にいて…」
私を見つめる彼の目は、熱に浮かされているからかとろんとしている。にも関わらず、視線には揺るぎのない力があって。
重ねられた手は私の手のひらを離すまいと、優しくも固く力が入っている。
そうだった。
彼は三年前、家族皆を失った。
自分を疎んでいた兄姉も、反乱分子と見做された彼を帝国に引き渡せなかったからと処刑され。
乳母と立場を偽って彼を傍で守ってくれていた実のお母様も、その兄姉に殺された。
そうだね。あの時、誓ったはずだ。
彼の傍にいられるなら、何でもいい。殺されても構わない。
例え失った家族の穴埋めだとしても。
それを思えば、その苦しみの穴埋めなんて容易い。
昨日の言葉に心乱されて、彼に負担を掛けている場合じゃない。
私は彼の頬に当てられた手のひらを更に深く触れ、視線をしっかりと合わせ、できる限りの笑顔で答えた。
「離れたりしません。傍にいます。ずっと。」
あなたが、それを求める限り。
私は、心の中で新たな誓いを立てた。
すると彼は、心底嬉しそうにふにゃりと力なく微笑んだかと思うと、そのまま眠りに付いた。
その安心しきった彼の寝顔に、私はその笑顔への幸せと自らの決意への覚悟で泣きそうになりながら、空いてる手で彼の額に濡れタオルを当て直した。