猫宮さと

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8/2/2024, 1:41:33 AM

《明日、もし晴れたら》

彼女を、泣かせてしまった。

「僕は、貴女を大切にしたいと思う。」

僕は彼女の手を取り、その時の思いを正直に打ち明けた。
衝動的、ではあったと今は自覚している。
らしくもない行動を取ったその時の僕は、全身が熱を帯びたようだった。
頬だけではなく耳まで熱くなり、心臓は早鐘を打っていた。

何故かは、正直分からない。
どうしてそのような心境になったのか。

今までは、闇に魅入られし者として彼女の監視を行っていた。
彼女の他では見られないような髪と瞳の色が、かつて同じように闇の力に触れ色が変化した者に酷似していたからだ。
だから、彼女を帝国に連れて来て、僕の側に置いた。
帝国内なら、彼女が何かを起こしても僕の権限で処理できる。最悪、僕が被害に合えばそこから国内が警戒態勢に入れる。
そう決心していた。

ところが、いざ共に暮らしてみたらどうだ。

帝国の街並みを見て目を輝かせ、港から見える空と海に切なくなるような眼差しを向け、その香りを胸いっぱいに吸い込む。
何をするにも、日常の食事でさえそれは嬉しそうに微笑んで。
移動の際に共に歩けば、初めの頃こそは少し俯きがちではあったが、今は笑顔で語り、僕の話にもしっかり耳を傾けてくれる。

それは、帝国の復興に全力を傾けて色を失いかけていた僕の日常に、優しい光が降り注ぎ色が蘇ったかのようだった。

彼女は、疑いを掛けられたにも関わらず僕を信頼し、心を許してくれている。
あの月の夜、密かに見た光景がそれを示している。
降り注ぐ月の光の中、彼女は僕に命を預けると呟いた。
これ以上はない、絶大な信頼。そして、曇りなき笑顔。

そんな彼女を、僕は大切にしたくなった。

夕日に染まる彼女の笑顔を見て、その気持ちが抑えきれなくなった。
そして衝動に任せて動いてしまった結果、彼女を泣かせてしまった。

僕は、そのまま走り去る彼女を追う事が出来なかった。

そんな資格があるの?

彼女の声の幻が、頭の中で鳴り響いた。

今まで散々疑ってきたのに?

そうか。僕は、拒絶されるのが怖いのか。
今すぐ傍にある暖かさを目前で失なうのが、怖いのか。
例え何者であっても、彼女にこのまま傍にいてほしいのか。

僕は、彼女の手を取っていた自分の掌を見つめて決心した。
何が怖いのか理解出来れば、行動に起こせばいい。

まずは自宅に帰ろう。
彼女が戻っているならば、涙が止まるまでいつまでも待ち続けよう。
彼女に拒絶の意思がなければ。いや、その意思があったとしても。
ひたすら彼女を大切にしよう。僕の心を、行動で示そう。

もし明日、彼女の涙が晴れたなら。
まずはいつもよりもほんの少し特別な食卓を、貴女と一緒に囲みたい。
貴女の負担にならないように、僕は貴女を大切にしたい。

7/31/2024, 10:12:50 PM

《だから、一人でいたい。》
私の隣を歩く彼が不意に立ち止まったかと思うと、私の手を掴み取って囁いた。

「僕は、貴女を大切にしたいと思う。」

赤い夕焼けの光に照らされたその顔は真剣で、その燃えるような瞳は揺らぐ事なく私を見つめていた。

大切に…私を?

その言葉は、私にとってあまりにも大き過ぎた。
もちろん、嬉しい。
けれど、それ以上にこんな言葉を受け取っていいのか。
地面に足が着いている感覚がない。視界が歪む。

その衝撃に声も出せずに立ち竦んでいると、私の手を掴んでいた彼がハッと表情を曇らせその力を抜いた。

「…申し訳ありません…。」

咄嗟に目尻に手をあてて気が付いた。視界の歪みは、自分の涙が原因だった。
瞬間、溢れる涙のように自分の感情が決壊した。
喜び、悲しみ、疑問、嬉しさ、苦悩。
謝らせてしまった申し訳なさ。

それでも私は声が出せず、めちゃくちゃになった感情に背中を押されるままその場を走り去った。

全速力で走り続け息も絶え絶えになった私は、自室に入り、背を向けたままその扉を閉じる。
そして力尽き、ずるずると扉に背を預けへたり込んだ。

彼は追っては来なかった。でも、今はそれでいい。

彼は本来、出会えるはずのない人。
私が偶然、何の因果か分からないけれどこの世界に来れただけ。
しかも、私が闇の者だという彼の疑いは晴れてはいない。にも関わらず、彼は私が人間らしい生活を送れるように気を配ってくれていた。初めから今まで、ずっと。

否が応にも期待してしまう。彼のあの射抜くような眼差しに。
いや、もう何度も射抜かれている。
初めの頃と変わり、最近は何かと笑いかけてくれている。
その笑顔にどれだけ心を射抜かれたか。
一人で動ける時間も増えている。監視なんて名ばかりだと、勘違いしたくなるぐらいに。
ただ一緒に暮らしている。そう思い込みたくなるぐらいに。

だけど、心の一番弱い部分を守ろうとする自分が叫びだす。
本当にそんな期待を抱いてもいいのか?
彼は誰に対しても誠実だ。だから今までも無意識で人間扱いされてきたに過ぎない。
ただ表に出していなかった意思表示をしただけで、どうせこれまでと何ら変わらない。
それが証拠に、あの時彼は手を離したじゃないか。
勘違いするな。お前は、彼に愛されているわけではないのだ。

なぜ。なにを。どうして。いつから。どうやって。

大切にしたい。
彼の言葉に、湧き出てくる感情が選り分けられないくらいにぐちゃぐちゃにかき回される。
涙と一緒に次々溢れ出してくる想いは、暮れ泥む空のように光を影へと塗り替えていく。

この空が明ける時には、必ず笑ってみせるから。
頭の中を選り分けて、整理して、空っぽにして。
「昨日はごめんね。」と、いつも通り過ごせるように戻るから。

だからお願い。
今だけは、一人にさせて。

7/31/2024, 3:07:34 AM

《澄んだ瞳》
僕は多くの人達の中、教会の席に座っている。結婚式に招待されたのだ。
象牙色で統一された礼拝堂の天井には、採光も兼ねた色鮮やかなステンドグラス。
乾燥地帯の多い我が国では特に恵みとされている雨。ステンドグラスの色は、恵みの雨の後に顔を出す太陽からの穏やかな光による虹を象徴している。
荘厳な教会の中は行き過ぎない程度に白い花やリボンが飾られ、静かな中にも明るい空気に包まれていた。

入場した新郎新婦は白地に赤と黒を取り入れた帝国の伝統的な衣装を身にまとい、花婿は太陽を表す金のカフスやタイピンを着け、花嫁は同じく頭上に金のティアラを戴いていた。

儀式も半ばを過ぎ。
壇上で生涯の固い誓いを立てた花嫁と花婿は、向かい合い相手をじっと見つめる。
互いを映すその瞳は、その誓いを表すかのような一点の曇りもない澄んだ眼差し。
花嫁の目から一つ零れた涙は、ステンドグラスを通した色鮮やかな太陽の光を受けて真珠のように輝いた。

そして儀式は終わり、新郎新婦は参列者達から浴びるような祝福の拍手を受けた。
晴れやかな笑顔で祝福を受ける二人の想いは、その瞳と外の青空のように最高に澄み切った物なのだろう。
その美しさに自らの心も澄み渡るようだと、僕も心からの祝福を拍手に乗せた。

いつかきっと、僕もこうして誓いを立てる日が来るのだろう。
それは生涯破られる事の無いよう、強く心に刻んで努めていきたい。

7/29/2024, 10:26:22 PM

《嵐が来ようとも》
それは今季の議題が全て片付き、次の日から休暇が始まろうという時だった。

「いや〜ありがたい。それではお願いするわ〜。」
そう言って自宅を訪れていたかつての上司だったご老人は、僕に両手で抱えられるかどうかという大きさのペットキャリーを手渡してきた。

話を聞くところ、ご自宅の老朽化に伴って修理をする必要が出たらしいが、その間は業者の出入りと水回りが完全に止まるので近場の宿に泊まる事にしたそうで。
しかし、宿にはペットを連れては行けない。そこでかつての部下であり、帝都に自宅を持つ僕に白羽の矢が立ったというわけだ。

「ご安心下さい。責任を持って預からせていただきます。」

そう言って僕はキャリーを受け取った。
この方には、軍で苦しい時に本当にお世話になった。これで恩返しになるとは思わないが、少しでも助けになるなら何でもない事だ。

「この中にトイレとご飯が入ってるよ〜。ちょっと元気が過ぎる事もあるが、可愛い猫だ〜。よろしく頼むよ〜。」

ご老人は足元のトランクを指し、皺の中の目を細めていた。
泰然自若としたそのご様子は、いつまでもお変わりがない。お元気そうで何よりだ。

そして、ご老人はその足でお帰りになられた。

さて、猫どころかペットを飼った経験がないが、まずはキャリーを開けても大丈夫な場所へ移動しよう。
しかし、静かなものだ。鳴き声一つ立てないとは。
僕はキャリーを持ち上げ、奥の部屋へと移動した。

奥の部屋へ行く廊下には、彼女が待っていた。

「お客様でしたか? 何かすることはありますか?」
と、彼女は僕が持っているキャリーを見て、目を輝かせた。

「あれ? もしかして中に動物が入ってますか?」

心做しか声が上ずっている。よかった。動物好きのようだ。

「ええ。以前僕の上司だった方から猫をお預かりしたのですよ。」

「猫! 猫ちゃんですか!? 見たい、見たいです!!」

答えると、彼女はますます目を輝かせ前のめりになった。頬も上気している。
…よほど好きなのだろう。何と言うかその様子からは、何か迫力のようなものも感じる。

「では、あちらの部屋に入ってからキャリーを開けましょう。」

そうして奥の空き部屋に入り、そっと猫の入ったキャリーを下ろす。
移動の間も今も、彼女からは「猫♪ 猫♪ 猫ちゃん♪」と明るくリズミカルな呟きが聞こえてくる。
そしてその呟きは、部屋の隅から隅へ素早く移動をした。窓がきちんと閉じられているか確認してくれたようだ。
かなり手慣れている様子がありがたくもあり、早く猫と触れ合いたいのだという微笑ましさにも溢れていた。

「それでは開けますよ。」

戸締まりが確認されたところで、そっとキャリーの扉を開けた。

すると開けた矢先に、モノクロの塊が扉の隙間を縫うように物凄い勢いで飛び出し、カーテンの影へと入り込んだ。
危ないところだった。彼女が戸締まりの確認をしてくれていなかったら、逃げられていた可能性もあった。
しかし、目にも止まらぬとはこの事。残像しか姿を見せてくれていない猫は、カーテンの影からしばらく出て来ようとはしなかった。

我慢が出来なくなったのか、彼女がそっとカーテンに近寄り、手を差し出した。
すると「シャーーー!!」という威嚇音と共に、布の影から猫が彼女の手に高速でパンチを繰り出してきた。

「あっ!」

僕は思わず声を上げた。
手に爪が刺さったのでは? 大丈夫だろうか?

心配になって側に行き彼女の手元を見ると、指先にぷっくりと血の玉が出ている。
しまった、先程彼女を止めておくべきだった。
その傷口を見て後悔していると、くるりと振り向き、彼女は声を潜めて言った。

「か…可愛いーー!! 見ましたか、今の手? 肉球ふにっふにでしたよ!」

…引っかかれた事は全く意にも介していないようだ。それどころか、己の手を傷付けた爪を気にせず、その手に触れた肉球に甚く感動している。
潜めた声はしかし、かなりの興奮を伴っていて、これ以上はないほど上ずっている。

まあ彼女がいいなら問題ないが。これは心の底から猫が好きなんだな。
ここまで来ると感心を通り越して畏怖の念にもなる。
何と言うか…原理主義、という言葉がしっくり来た。

が、それでも傷口は何とかしたほうがいいと手を出そうとしたところ、カーテンの影からまたモノクロの塊が高速で飛び出してきた。
その影は一瞬で棚の上の物を薙ぎ払い、戸棚に飛び乗ろうとして失敗し、着地した勢いでカーテンによじ登ろうとしたところで爪が引っかかったのか、そのレール近くの上の方で動きを止めてぶら下がっていた。

そこで初めて、その猫をじっくり見る事が出来た。
体毛は、白黒のぶち模様。少し太め…ぽっちゃりとした目付きの鋭い顔の猫だった。
その猫は無防備な体勢にも関わらず、完全に僕らを敵視している様子でじとりと上からこちらを睨み付けていた。

「ありゃー、引っかかっちゃたのね。今取ってあげますからねー♪」

そんな猫の視線などお構いなしに、カーテンに近寄っていく彼女。
いや、また引っかかれたらどうするのか!

「待ってください! 危ないですから、僕が降ろします!」

そう言って彼女を止め、僕はカーテンへ素早く向かっていった。
背後からは「大丈夫ですか?」と言われるが、それは僕の台詞ですから!
先程引っかかれた貴女の台詞じゃありませんから!

「いいですから、貴女は今のうちに傷口を洗ってきてください!」

そう指示すると、今になって初めて傷口に気が付いたかのように指先を見つめ、

「あ、そうでした。じゃあ、よろしくお願いしますね。」

そう言って、彼女は部屋を出て、手早く扉を閉めた。

その後、僕はカーテンへ向き直り、爪を引っ掛けて往生している猫と格闘を始めた。

その数分後。
ノック音がしたので返事をすると、彼女が足元から視線を移動させながら素早く部屋に入ってきた。

「ただいま戻りました。猫ちゃんどうですか?」

その手には、救急箱と水の入った手洗い用のボウル。
全く、手際が良い事この上ない。

「…何とか降ろせました…。」

僕は遠い目になりながら、彼女に返事をした。
窓際には、破れ目が付いたカーテン。舞い散る白黒の毛。僕の腕には、大量の引っかき傷。

カーテンから降りたくとも降りれず、かと言って見知らぬ人間には触られたくない猫は、そこから降ろそうと手を伸ばした僕を相手に爪が引っかかった状態で力の限りで抵抗をした。その結果が、この惨憺たる状況だ。
その格闘の相手は、今はソファーのクッションに陣取ってフーフーと鼻息を荒くしている。
泰然自若とした上司の様子が頭を過る。元気過ぎるとは仰っていたが、これは…。

まるで、嵐が来たかのようだ。

「うわ、傷だらけじゃないですか! だから大丈夫かって聞いたのに!」

持ってきてよかった、と彼女はボウルに入った水ですぐに僕の腕の引っかき傷を洗い始めてくれた。

「私、猫の引っかきには慣れてるから平気ですからね?」
そう言う彼女の腕には、引っかき傷どころか少しの傷跡も、シミすらない。
それでも、その動きには確かに猫に慣れて行動を把握している熟れたものが伺える。

その理由が何故かは謎のまま、優しく傷の手当をしながらも荒れた猫へ穏やかな顔を向け「怖くないですよ〜」と声を掛ける彼女を見ていると、この嵐も笑ったままで抱き止めてしまうのだろうなと心底尊敬した。

本当に僕はずっと、彼女には勝てそうにない。


この数日後、この猫は彼女には完全に心を開き、そのお腹に抱えられるように一緒に眠っているのを見てしまった。
何か、色々釈然としない。

7/29/2024, 7:19:16 AM

《お祭り》
夏も盛りのある日の事。
僕は魔術と学問の国を治める導師から、ある祭に参加しないかと招待を受けていた。
ただ、闇に魅入られし者として僕が監視をしている少女も名指しで招待をされていた。
本来ならば同席出来る立場ではないために何故招待されたのか、彼女と二人で首を捻りながらも話を受けて、応じる事にした。

「ようこそ我が国へおいでくださいました。」

宮殿で導師が歓迎をしてくれたので、彼女と揃って礼をする。
導師は見た目は僕よりも若く、三年前と全くお変わりない。
噂では数十年とそのお姿が変わられていないとも言うが、どこまで真実なのかは知る由もない。
ただ、全てを見通す力があると言われ、その能力に幾度も国が救われてきたそうだ。

その導師が、僕の隣の彼女をじっと見つめている。
妨げるもの全てを許さないようなその眼差しは、その後すっと緩み、細められた。

「お二人に来ていただいたのは他でもありません。国同士の交流の一環として、我が国の祭を楽しんでいただそうかと思いまして。」

そう発言された直後、脇の従者が素早く前に出て、僕達に仮面を一つずつ手渡してきた。

「若者がその祭に参加する際は、民族衣装を纏いこの仮面を着けるのが為来りなのです。」

仮面は顔の右が白、左が黒で塗られていて、男女の区別はあるが被れば顔の見分けが全く付かないような物だ。
そしてそれはこの国にあるジャングルにのみ生える木で作られ、独特の意匠が施されている。

祭の内容は、かつて手紙でのみ心を通い合わせていた男女が偶然人混みで出会った際、お互いを会話のみで見つけ合いやがては結ばれたという伝説になぞらえているのだそう。
これに参加出来るのは若い男女に限られ、顔が分からぬように仮面を被り民族衣装に身を包み、その状態で会話から相手の名前を当てる事が出来れば願いを一つだけ叶えてもらえると説明された。

なるほど、伝説を利用した男女の出会いの場の提供というわけか。
方向性としては気が進まないが、他国の文化を学び国同士の交流を深めるには良い機会だ。
彼女の招待は、女性側に知った顔があれば気を張り過ぎずにすむだろうという導師の計らいだろう。

「ありがとうございます。喜んで参加させていただきます。」

僕は導師に参加の意を告げ、礼を述べる。
合わせて隣の彼女も頭を下げた。

導師はそんな僕と彼女の顔を交互に見やり、にこやかな表情でこう告げた。

「仮面を被った際は、多少心が緩むかもしれません。それも合わせて楽しんでくださいね。」


導師の話が終わると、僕らはあれよあれよという間に男女に別れた控室に連れて行かれ、民族衣装を着付けられる。
上は、前開きのゆったりした生成りシャツ。全体にシャツと同じ生成りの糸でレースのような刺繍が施されていて、熱帯の華やかな植物の色彩を損なう事なく霽れの日を演出している。
下はこれまたゆったりとした黒のボトムスで、シャツは外に出して着付ける。上下とも素材はパキッとしてて艶があるのに、通気性が良いのか暑苦しくならない。気候に良く合った作りに感心した。

そして最後に仮面を着ける。
すると驚いた事に、鏡の中の自分の髪が短く刈り込んだダークヘアーに変わった。
それは祭の醍醐味である、男女が目的の人物を探し当てる事に見た目という要素を加えないようにする為に施された魔術の力だそうだ。

「これは…!」

鏡に向かって発した声を聞き、更に驚愕した。
自分の発した声の筈なのに、まるで赤の他人の声だ。
さすが守りを魔法のシールドで固めている国だ。魔術の使い方も質も徹底されている。

が、これではますます彼女を探し出すのは容易ではないな。
他国にまで公にはしていないが、彼女は闇の力を持つのではと僕が疑いを掛けている人物だ。
今回は導師のたっての希望で同席させているが、本来ならばここに来れるはずのない立場。逃亡や騒ぎを起こす可能性がない訳ではない。
普段の生活ぶりからは想像は付け難いが。

…そして、あの満月の夜の元で見た彼女の言葉が真実であるのならば。

過った心配に頭を悩ませていれば、控えの者から声が掛かる。

「どうしましたか? もしやお連れ様の事でございますか?」

そのとおりではあるので頷けば、控えの物は訳知り顔でこう答えた。

「大丈夫です。導師様からのお言い付けもございますれば。お連れ様の”身の安全”はこちらで確実に保証致しますので。」


そうこうしているうちに時間が過ぎ、僕は祭の場に案内された。
彼女は別の出口から祭に案内されているそうで、見つけ出せるといいですねと案内人から言葉を掛けられた。

見れば会場は同じ民族衣装、同じ仮面、仮面の魔術により性別ごとに同じ髪色で髪型の男女でごった返している。
判別が付くのは、年長者と子供。要は祭の主役ではない、この仮面と衣装を着けていない者達だ。
この中から彼女を探し出すのは至難の業ではないのか。そんな心配を抱きながら歩き出す。

祭の趣向なので仕方はないが、あちこちからやってくる同じ衣装で同じ仮面の女性達に話しかけられる。

「一緒にお酒でも飲みませんか?」
「特産の美味しい果物を分けてさしあげますよ。」
「あちらで二人でお話しませんこと?」
「私、ダンスのパートナーを探してまして。」

次から次へとグイグイ押し迫ってくる女性達。
祭の無礼講という空気も手伝ってはいるのだろうが、この強引さにかなり辟易した僕は一度集団から抜け出して、宮殿へ続く道を彩る鮮やかな花のアーチの影に身を潜めた。

落ち着いてよく見れば、声を掛けられているのは男女ともに体格の良い者だ。
体格の良い者は病に罹っている可能性は極めて低い。これなら健康な者同士が出会いやすい。伝説を利用した合理性もあるわけか。

参加してみると理解出来る他国の文化に感心していると、背後からかさりと音がした。

「あ…すみません。」

そこには一人の女性がしゃがみ込んでいた。
服は薄手の艶のある生成りの生地に、生成りの糸で丁寧な花の刺繍が刺されているブラウスに薄手の絹のショールを羽織り、白いスカートの上からは艶の良い布が巻き付けられている。この祭の民族衣装だ。
髪はダークヘアーを首のすぐ上で一つにまとめている。被った仮面による魔術で女性の皆が同じ髪型になっている。
そしてその顔には白と黒の仮面が被せられているため表情は分からないが、今少し覇気のない声だった。

「大丈夫ですか? もしや具合を悪くされているのでは?」

もしもという事もあるためしゃがみ込んでいる女性に聞いてみたが、

「ごめんなさい、大丈夫です! ちょっと人混みに酔ってしまっただけなので。」

言うなり女性はすくっと立ち上がった。
突然現れた僕に驚いてしまったのではと心配したが、それでも女性は「いえ、大丈夫なので。こちらこそご心配おかけしてすみません。」と謝るばかり。

「いえ、お詫びはいりません。そのまま休んでいてください。」

そう告げると、ホッとしたような声音で

「ありがとうございます、そうさせてもらいますね。」

と言いその場に留まり、またしゃがみ込む。
後から来たのは僕の方なのだ。謝らなくていいのに。

しばしの沈黙を遮るように、女性が話し始めた。

「…実は私、このお祭りには誘われて来たんです。」

それは密やかなそよ風のように。まるでひとり言を呟くかのように。

「ここに連れて来てくれた人なんですけど、私を多分好きではないんです。私が…悪い人間だって疑っているから。
 けれど、いつも私の事を優しく一人の人間として扱ってくれて。私は、そんな彼を直接出会う前からずっと…凄い人だなって思ってました。」

俯きながら話す女性からは、喜びと悲しみが綯い交ぜになった空気が滲み出ている。
その語り口だけで、相手を大切に想っているのだろうと理解出来る程だ。
静かに聞いていた方が良さそうだと、僕は黙って耳を傾けていた。

「…ごめんなさい、変な話をしちゃって。貴方はお祭りに戻らなくていいのですか?」

すると気持ちを切り替えると言わんばかりに勢いを付けてその場に立ち上がり、女性は僕に聞いてきた。
逆に気を使わせてしまったか。

「いえ、構いませんよ。他人の方が話しやすい事もありますから。
 僕ももう少し人混みを避けていたいですし。」

そう返すと、女性はふっと笑った。

「確かに貴方の背格好を見ているとモテそうですからね。」
「ありがた迷惑ですけれどね。」

そしてお互いにクスクスと笑いあった。

何故だろう。他国の異文化の祭に混ざりながら、ここには日常の空気が流れている。
そんな安らぎに背中を押されてか、僕は思った事を口にした。

「多分ですけれど、聞く限り貴女の同伴者は貴女を大事にしていると思いますよ。貴女の話しぶりには、その彼の思いやりが背後にあるように伺えました。
 …僕も相手の方と似たような心境なので、率直にそう感じました。」

これは本音だ。
この女性は大切にされているからこそ、その相手に絶大な信頼を抱いているのだろう。
あの短い言葉とその口調からは、その信頼が溢れ出していた。

…僕は果たして彼女を丁寧に扱えているのだろうか。

すると女性の仮面の下から、息を飲む音がした。
そして詰まるような声で話し始めた。

「…あ、ありがとうございます…。励ましてくれて嬉しいです。」

女性は一度しゃくりあげると、夜空を見上げて続けた。

「…でも、もう決めてるんです。絶対に出会える筈のないあの人に出会えた時から。
 何が起こっても構わない。絶対に傍にいる。彼に引き金を引かれるなら死んでも本望だって。」

その言葉を聞いた瞬間、幻が見えた。
目の前の空を見上げる女性の髪はまとめたダークヘアーではなく、いつもの見慣れた白に近い銀の流れるような髪で。
沈みかけた三日月ではなく、天の頂にほど近い満月が女性の視線の上で煌々と輝いている。

『私がこの世界に来た理由が裁きを受ける為ならば、私は貴方に裁かれたい。
 貴方が黒だと言うのなら、喜んでこの生命を捧げます。
 だからその時にはいつでもその引き金を引いて下さい。』

あの満月の夜の、彼女の密かな誓い。僕が見ているとも知らずに立てられた、固い決意。
それが今、はっきりと脳裏に蘇った。

「ごめんなさい、本当に。じゃあ、私は失礼しますね。」

そう断り駆け去ろうとする彼女の手首を掴んで引き止める。
…本当に、いつも貴女はそうだ。そんな必要はないのに。

「謝る必要はないですよ。」

彼女の口癖。
いつも何も悪いことなどしていないのに謝る彼女。
それを止めるためのいつもの言葉を、僕は口にした。

その言葉を聞いて、弾かれたように彼女は振り向いた。
そして僕達は、同時にお互いの名前を口にした。

乾いた仮面が落ちる音が、二つ鳴り響く。
目の前の少女のダークヘアーは、見る間に輝く流れるような白銀に変わる。
赤くなった目尻には、大きな涙の粒が溜まっている。

ああ、いつもの彼女だ。
こんな僕を見つけて、名前を呼んでくれた。
いつも僕を見て気遣ってくれる、いつもの彼女だ。

目の奥に来る物をぐっと堪えながら、空いている方の手でハンカチを取り出して彼女の目元に当てる。
こくりと頷いた彼女はハンカチを受け取り、目元の涙を拭った。

そのまま僕は手を繋ぎ直し、彼女を連れて祭に戻った。

すると祭の広場は大きな盛り上がりを見せていた。
据え付けられた舞台の上で、仮面が外れた男女が口づけを交わしていたのだ。
舞台下には、年配者や一人で出歩ける程度の年齢の子供、そして仮面を着けたままの若者達で賑わっていた。
その観客達は、男女に舞台下から祝いの声を掛けながら花吹雪を散らしていた。

仮面が外れたら願いを叶える、という趣旨ではなかったのか?

その喝采の中、頭が真っ白になった状態で二人立ち止まっていると、背後から年配の男性に声を掛けられた。

「おお、お二人さんも互いの名前を当てられたか、おめでとう。
 今は仮面を外した者の願いを叶えるとなっておるが、古くは心を通わせ合った二人の誓いの口づけが慣わしだったんだよ。」

どうかね、お前さん方も?
そう話を振られ、顔が焼けてしまうのではというくらいの熱が帯びた。
慌てて振り向けば、彼女の頬もこの南国に咲く花のように真っ赤に染まっていて。

握り合った手から伝わる互いの熱が混じり合い弾けるかのように、舞台上の夜空に大きな花火が咲いた。

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