猫宮さと

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《嵐が来ようとも》
それは今季の議題が全て片付き、次の日から休暇が始まろうという時だった。

「いや〜ありがたい。それではお願いするわ〜。」
そう言って自宅を訪れていたかつての上司だったご老人は、僕に両手で抱えられるかどうかという大きさのペットキャリーを手渡してきた。

話を聞くところ、ご自宅の老朽化に伴って修理をする必要が出たらしいが、その間は業者の出入りと水回りが完全に止まるので近場の宿に泊まる事にしたそうで。
しかし、宿にはペットを連れては行けない。そこでかつての部下であり、帝都に自宅を持つ僕に白羽の矢が立ったというわけだ。

「ご安心下さい。責任を持って預からせていただきます。」

そう言って僕はキャリーを受け取った。
この方には、軍で苦しい時に本当にお世話になった。これで恩返しになるとは思わないが、少しでも助けになるなら何でもない事だ。

「この中にトイレとご飯が入ってるよ〜。ちょっと元気が過ぎる事もあるが、可愛い猫だ〜。よろしく頼むよ〜。」

ご老人は足元のトランクを指し、皺の中の目を細めていた。
泰然自若としたそのご様子は、いつまでもお変わりがない。お元気そうで何よりだ。

そして、ご老人はその足でお帰りになられた。

さて、猫どころかペットを飼った経験がないが、まずはキャリーを開けても大丈夫な場所へ移動しよう。
しかし、静かなものだ。鳴き声一つ立てないとは。
僕はキャリーを持ち上げ、奥の部屋へと移動した。

奥の部屋へ行く廊下には、彼女が待っていた。

「お客様でしたか? 何かすることはありますか?」
と、彼女は僕が持っているキャリーを見て、目を輝かせた。

「あれ? もしかして中に動物が入ってますか?」

心做しか声が上ずっている。よかった。動物好きのようだ。

「ええ。以前僕の上司だった方から猫をお預かりしたのですよ。」

「猫! 猫ちゃんですか!? 見たい、見たいです!!」

答えると、彼女はますます目を輝かせ前のめりになった。頬も上気している。
…よほど好きなのだろう。何と言うかその様子からは、何か迫力のようなものも感じる。

「では、あちらの部屋に入ってからキャリーを開けましょう。」

そうして奥の空き部屋に入り、そっと猫の入ったキャリーを下ろす。
移動の間も今も、彼女からは「猫♪ 猫♪ 猫ちゃん♪」と明るくリズミカルな呟きが聞こえてくる。
そしてその呟きは、部屋の隅から隅へ素早く移動をした。窓がきちんと閉じられているか確認してくれたようだ。
かなり手慣れている様子がありがたくもあり、早く猫と触れ合いたいのだという微笑ましさにも溢れていた。

「それでは開けますよ。」

戸締まりが確認されたところで、そっとキャリーの扉を開けた。

すると開けた矢先に、モノクロの塊が扉の隙間を縫うように物凄い勢いで飛び出し、カーテンの影へと入り込んだ。
危ないところだった。彼女が戸締まりの確認をしてくれていなかったら、逃げられていた可能性もあった。
しかし、目にも止まらぬとはこの事。残像しか姿を見せてくれていない猫は、カーテンの影からしばらく出て来ようとはしなかった。

我慢が出来なくなったのか、彼女がそっとカーテンに近寄り、手を差し出した。
すると「シャーーー!!」という威嚇音と共に、布の影から猫が彼女の手に高速でパンチを繰り出してきた。

「あっ!」

僕は思わず声を上げた。
手に爪が刺さったのでは? 大丈夫だろうか?

心配になって側に行き彼女の手元を見ると、指先にぷっくりと血の玉が出ている。
しまった、先程彼女を止めておくべきだった。
その傷口を見て後悔していると、くるりと振り向き、彼女は声を潜めて言った。

「か…可愛いーー!! 見ましたか、今の手? 肉球ふにっふにでしたよ!」

…引っかかれた事は全く意にも介していないようだ。それどころか、己の手を傷付けた爪を気にせず、その手に触れた肉球に甚く感動している。
潜めた声はしかし、かなりの興奮を伴っていて、これ以上はないほど上ずっている。

まあ彼女がいいなら問題ないが。これは心の底から猫が好きなんだな。
ここまで来ると感心を通り越して畏怖の念にもなる。
何と言うか…原理主義、という言葉がしっくり来た。

が、それでも傷口は何とかしたほうがいいと手を出そうとしたところ、カーテンの影からまたモノクロの塊が高速で飛び出してきた。
その影は一瞬で棚の上の物を薙ぎ払い、戸棚に飛び乗ろうとして失敗し、着地した勢いでカーテンによじ登ろうとしたところで爪が引っかかったのか、そのレール近くの上の方で動きを止めてぶら下がっていた。

そこで初めて、その猫をじっくり見る事が出来た。
体毛は、白黒のぶち模様。少し太め…ぽっちゃりとした目付きの鋭い顔の猫だった。
その猫は無防備な体勢にも関わらず、完全に僕らを敵視している様子でじとりと上からこちらを睨み付けていた。

「ありゃー、引っかかっちゃたのね。今取ってあげますからねー♪」

そんな猫の視線などお構いなしに、カーテンに近寄っていく彼女。
いや、また引っかかれたらどうするのか!

「待ってください! 危ないですから、僕が降ろします!」

そう言って彼女を止め、僕はカーテンへ素早く向かっていった。
背後からは「大丈夫ですか?」と言われるが、それは僕の台詞ですから!
先程引っかかれた貴女の台詞じゃありませんから!

「いいですから、貴女は今のうちに傷口を洗ってきてください!」

そう指示すると、今になって初めて傷口に気が付いたかのように指先を見つめ、

「あ、そうでした。じゃあ、よろしくお願いしますね。」

そう言って、彼女は部屋を出て、手早く扉を閉めた。

その後、僕はカーテンへ向き直り、爪を引っ掛けて往生している猫と格闘を始めた。

その数分後。
ノック音がしたので返事をすると、彼女が足元から視線を移動させながら素早く部屋に入ってきた。

「ただいま戻りました。猫ちゃんどうですか?」

その手には、救急箱と水の入った手洗い用のボウル。
全く、手際が良い事この上ない。

「…何とか降ろせました…。」

僕は遠い目になりながら、彼女に返事をした。
窓際には、破れ目が付いたカーテン。舞い散る白黒の毛。僕の腕には、大量の引っかき傷。

カーテンから降りたくとも降りれず、かと言って見知らぬ人間には触られたくない猫は、そこから降ろそうと手を伸ばした僕を相手に爪が引っかかった状態で力の限りで抵抗をした。その結果が、この惨憺たる状況だ。
その格闘の相手は、今はソファーのクッションに陣取ってフーフーと鼻息を荒くしている。
泰然自若とした上司の様子が頭を過る。元気過ぎるとは仰っていたが、これは…。

まるで、嵐が来たかのようだ。

「うわ、傷だらけじゃないですか! だから大丈夫かって聞いたのに!」

持ってきてよかった、と彼女はボウルに入った水ですぐに僕の腕の引っかき傷を洗い始めてくれた。

「私、猫の引っかきには慣れてるから平気ですからね?」
そう言う彼女の腕には、引っかき傷どころか少しの傷跡も、シミすらない。
それでも、その動きには確かに猫に慣れて行動を把握している熟れたものが伺える。

その理由が何故かは謎のまま、優しく傷の手当をしながらも荒れた猫へ穏やかな顔を向け「怖くないですよ〜」と声を掛ける彼女を見ていると、この嵐も笑ったままで抱き止めてしまうのだろうなと心底尊敬した。

本当に僕はずっと、彼女には勝てそうにない。


この数日後、この猫は彼女には完全に心を開き、そのお腹に抱えられるように一緒に眠っているのを見てしまった。
何か、色々釈然としない。

7/29/2024, 10:26:22 PM